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第6章:別れ編 第6話
淳一と向かったのは、片道2時間程かかる隣県の大規模ショッピングセンターだった。車中、ずっと手を握られていて不快極まりなかった。淳一は少し手汗をかいているのか、それすらも気持ち悪い。
「なんか緊張しちゃうね。圭ちゃんは?」
「あはは、俺も、です」
乾いた笑いと適当な受け答えで返す。緊張よりも別の感情の方が大きいのは内緒だ。
「いつも思ってたんだけど、圭ちゃんが自分のこと〝俺〟って言うの、これから禁止ね」
「え? 何でですか?」
「だってそんなの可愛くねーし」
不機嫌そうな顔をしながら握られる手の力が強くなる。本当は抗いたかったが、面倒くさくなるのが嫌で諦めた。
「分かりました。ただ、ついウッカリ出ちゃったらすいません。努力はします」
「良いよ、頑張ってる圭ちゃんも可愛いし」
淳一の表情が和らいだ。ホッと安堵しながら助手席側の窓の外を眺める。運転席の相手を視界に入れるのが嫌だった。
「圭ちゃんはデートってしたことある?」
思い出すのはアレクとのお忍びでの外出。もしもデートというものを指すのであれば、あれくらいしか思い浮かばない。
楽しかった思い出が次々と蘇る。思わず口角が上がっていた。
「圭ちゃん?」
「あっ、すいません。デートですよね? ないですよ。誰とも付き合ったことがないから」
「そっか~。俺が圭ちゃんの初めてのデートの相手か~。嬉しいな」
一気にご機嫌になった相手に安堵した。
本当なら、これをデートなどと呼びたくない。しかし、そう名前を付けてやるだけで面倒事から回避できるのであればそう思わせておいた方が得策だ。
「そうですね。俺……私も淳一さんとデートできて嬉しいです」
少しサービスしてやれば相手のテンションはうなぎ上りに上がっていった。上機嫌で話しかけてくる淳一に適当な相槌を打ち、車は目的地へと向かって行った。
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淳一が選んだ映画は巷 で話題の恋愛映画だった。洋画ということもあり、なおさら興味のない圭にとっては退屈な時間だった。
しかも、映画の最中もずっと手を握られていた。離そうとしても硬く握られビクともしない。早々に諦めて虚無の表情でスクリーンを見つめていた。
「映画、楽しかったね! 俺としては、主人公が……」
少し遅くなってしまった昼食を食べながら淳一が熱く語る。眠気と戦うばかりの2時間を過ごしていた圭にとっては特段感想もない。早く終わらないかとずっとあくびを押し殺していた。
アレクの夢を見るようになってから、ほぼ必ずと言って良いほど泣いて目を覚ますようになっていた。眠ったはずなのに疲れが取れない。むしろ疲労が溜まっている気すらした。
ここ最近は涙で腫れた目を冷やしてから登校するのがほとんどだった。そんな朝のルーティーンに慣れてきてしまってすらいる。
「圭ちゃんは? どこが良かった?」
「え? 俺!? えーっと……ヒロインが、可愛かったこと……かな?」
「えー、曖昧すぎじゃね?」
ケラケラと笑われるが、答えとしては不快でなかったようだ。細かいシーンについて問われたらどうしようかと思ったが、淳一は自分の感想を述べるので忙しい。パスタをフォークに巻き付けながらウンウンと笑顔で頷いていた。
パスタよりもラーメンの方が好きだし、踵が少し高いブーツはいつもより歩きにくい。そのせいで淳一の腕に捕まるようにして歩いていた。それすらも圭にとっては多大なるストレスになっていた。この店も多分、ショッピングセンターの中にある割には相当値の張る店だろうが、食べていて楽しくないし、それは味にも通じる。
食のおいしさというのは、その場にいる相手と、その時の空気で大きく変わるのだ。それを圭は嫌というほど知っている。
「この後どうしようか。まだお別れするには早すぎるし、お店でも回ろうか」
食後のホットコーヒーを飲みながら頬杖をついた淳一がうっとりとした顔で見てくる。圭の指を撫でながら。
いい加減離してほしい。ずっと触られているのは地味にストレスになるのだ。
「なんか、ゆっくりしたいです」
早く帰りたいという思いを込めて口にした。その言葉を聞いた瞬間、淳一がガタリと勢い良く立ち上がる。
「じゃ、早く帰ろうか!」
ウキウキと伝票片手にレジへと向かう淳一の背を見て、驚くばかりだった。
正直、こんなに早く帰してもらえるとは思ってもなかったのだ。あんなに初デートを楽しみにしていた淳一だから、夜まで拘束されてあちこち連れ回されることも覚悟していた。
(なーんだ。良かった。心配しすぎて損した)
あくびが出た。ドッと疲れが押し寄せてきた。睡眠時間は足りているはずなのに、体の疲れが取れないことに加え、今日という日への多大なるストレスで心身ともに疲れ切っていた。
「あれ? 圭ちゃん、眠くなっちゃった?」
「ん~、少し」
あくびで潤んだ目を手の甲でコシコシと擦っていると、淳一が圭の顔を覗き込んできた。
「じゃあ、帰りの車の中でちょっと寝る? 遠出したし疲れちゃったかな」
首肯を繰り返す。あくびが止まらない。歩きながら船を漕ぎ始めていた。
「おねむな圭ちゃんも可愛いね」
ツンツンと頬をつつかれる。不快だったが、機嫌を損ねて文句を言われても堪らない。淳一の好きにさせていた。
「良いよ、着いたら起こしてあげるから寝てなよ」
「ありがとうございます」
助手席に座り、シートベルトを着用する。淳一が助手席のシートを少し倒してくれた。角度がフラットに近くなり、眠りやすくなる。
「おやすみ、圭ちゃん」
「おやすみなさい」
ウトウトと眠気に誘われるままに意識を手放す。
淳一の手がスカートの裾へと入り込み、太腿を撫でていることすら気づかずに。
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チュッチュッと小さく音がする。こんな目覚めを覚えている。目を開ければ、ハッとするほど美しい顔が近くにあるはずだ。
(アレク……)
その名を心の中で呼ぶ。トクリと心臓が甘く跳ねた。
瞼を開く。目の前にあった顔に一気に眠気が醒めた。
「ちょっ、やめてください!」
「えー? 起きて早々可愛くない反応だなぁ」
覆い被さってくる淳一の胸を両手で押した。眉間に皺を寄せた淳一が圭の前髪を掴んでくる。
「うっ」
「誰がここまで運んでやったと思ってんだよ」
視線だけで周囲を見回した。全く見覚えのない部屋だ。横たわっているのがベッドであることを悟り、寝室だと気付く。
「圭ちゃん、愛してるよ」
唇を寄せられる。ベロリと入って来た舌が気持ち悪くて反射的に噛んでしまった。
「いってぇ……」
不機嫌な顔になった淳一が口元を拭う。パシンと鋭い音が部屋に響いた。圭の左頬が熱くなる。そして、じんわりとした痛みが広がった。次に右頬が同様の痛覚に襲われる。
頬を打たれていると気付いたのは、淳一の手が何度か左右を往復した時だった。始め、何をされているのか分からなかった。頬に広がる痛みでやっと暴力を振るわれているのだと自覚する。
こんなに誰かから殴られたことなどなかった。だから、どうして自分がこんなことをされているのか理解できなかった。
「あっ、ごめんね、圭ちゃん。俺、カッとなっちゃって」
ハッとしたように淳一の両手が圭の頬を包む。触れられただけで体がガクガクと震え出した。
「あーあ、こんなに顔真っ赤になっちゃって。ごめんね、ごめんね圭ちゃん」
ベロリと頬を舐められる。気持ちの悪さで怖気が全身に走り抜けた。
「でも、圭ちゃんが悪いんだよ? 舌噛んだりしたら痛いだろ? ほら、ごめんなさいは?」
「ごめんなさい……」
「ちゃんと謝れる圭ちゃん、いい子だね。偉い偉い」
頭を撫でられながらチュッチュッと顔中にキスの雨が降る。
体の震えが止まらなかった。舌を噛んでしまったのはほとんど条件反射のようなものだ。ほぼ無意識下でのことであり、淳一を傷つけようという意図があって行ったことではない。
「俺もごめんね。圭ちゃんの可愛い顔ぶっちゃって。今度から、おいたした時は見えない場所にするね」
淳一の手が圭の薄い腹を撫でた。ゾクリと恐怖が駆け抜ける。
圭が舌を噛んでしまったことに関してはそれを「悪いこと」だと定義して謝罪を要求するというのに、淳一が圭を傷つけることには全く悪びれる様子がない。
きっと、淳一にとっては相手に暴力を振るうということは悪いことだと思ってはいないのだ。
「ごめん、なさい……いきなりで、ビックリ……しちゃったから」
「そっか。圭ちゃん、まだウブだもんね。ごめんごめん。じゃあさ、改めて。ちゃんとキスしよっか」
引きつりながら笑みを作り、コクリと一つ頷いた。
ジクジクと熱を持って疼く左右の頬が痛い。もう訳も分からず殴られるのは嫌だった。
圭の頬を淳一の両掌が包み込む。相手の顔を見ていたくなくて目を閉じた。
重なる唇。当然のように入り込んで来た舌。圭よりも体温の低い、生ぬるい軟体動物が舌に絡んでくる。
淳一の機嫌を損ねたくない。その一心から彼の舌へと積極的に応えた。
正直、気持ちが悪いとしか思えなかった。真由美との触れるだけのキスですらフワフワした気持ちになったし、アレクとのキスは気持ちが良かったのに。
互いの口内から水音が響く。角度を変えて何度も濃厚なキスを受け入れた。
どのくらい、この悪夢のような耐えるだけの時間が続いただろうか。口の周りは唾液で濡れそぼり、少しヒリヒリする。
「圭ちゃん、キス上手だね。どっかでしたことあるの?」
ビクリと体が反応した。アレクと何度も数えきれないくらいキスをした。時間など問わず朝から晩まで。いつでも唇を重ね合わせた。
そのことを思い出して胸が痛む。
「淳一が、上手いから……それに応えたいなって」
「あぁ~! 本っ当に俺の圭ちゃん可愛すぎ! マジ理想! 大好きだよ、圭ちゃん!」
ギュッと強く抱き締められる。望む答えを返せたのだと安堵した。
淳一の下腹が脚にあたる。硬くなっているのに気付き、体が硬直する。
「早く抱きたいな。ねえ、今、ヤっちゃだめ?」
意図的に下腹を圭へと擦り付けてくる。おぞましいだけだった。
しかし、そんなことは言えない。言ってはならないのだ。
「セックスは……もっと、思い出に残る感じが良いです」
「えー? 例えば?」
「えっと、雰囲気の良い場所で、すごく記念になるような感じのタイミングとか……」
「圭ちゃん、結構ハードル上げてくるなぁ」
「でも、初めてだから、あんまり妥協とかしたくなくて」
「分かったよ。可愛い圭ちゃんのためだから。今日はやめたげる。でも代わりに今日はもっといっぱいギューってしながらキスしても良い?」
コクリと頷いた。セックスするのを免れることができるなら、そのくらいはどうということもない。
再び近づいてきた唇。受け入れるように瞳を閉じた。
胸の中に黒く淀んだ何かが蓄積されていく。醜いヘドロのようなその塊を外に出すまいと胸の内に蓋をした。
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