38 / 90
第6章:別れ編 第8話
「ねーちゃん、吉田淳一って人知ってる?」
「そりゃ、あいつ有名人だもん。知ってるけど?」
「……どんな人?」
「えー? どんなぁ??」
リビングのソファに寝転がりながらスマホを弄っていた姉の智子が眉間に皺を寄せながら天井を眺めた。
「まあ、家は太いし見た目は良いけど、根本的にキモくてマジ無理」
ズバリと言い切った姉の言葉に圭は目をまん丸にして凝視する。
「家が太いってどういうこと? それに、キモいって」
「圭だって吉田建設くらい知ってるでしょ?」
姉の言葉に首肯する。吉田建設と言えば、国内でも屈指の大手ゼネコンである。携わる業種は本業以外にも多岐に渡り、日本人でこの会社の名前を知らないという人の方がよほどの世間知らずだろう。
「あいつ、あそこの御曹司なのよ。つまり、超金持ち。で、あの顔だから確かに最初の頃は良い玉の輿に乗れそうかもって思ったこともあったけど、あいつドルオタだからマジキモくて私には絶対無理。それに、あいつだって私みたいなタイプより可愛い系の方が好きみたいだから根本的に相いれない。ってか、そもそも論として、何かやべぇ感じがすんのよね~」
「ヤバいって? どんな?」
「一見、紳士ぶっては見えるんだけど、まず、あの笑顔がうさん臭い。あの手のタイプは絶対ヤバい性癖とか持ってるって女の勘が働いた」
智子は右のこめかみを人差し指でトントンと軽く叩きながらジト目で圭を見てくる。その目が何かを探っているような気がしてドキリとする。
横になってダラダラモードを満喫していた姉がソファに座る。ジッと半眼で睨まれ、居た堪れなくなってきた。
「てか、何で圭があいつの名前知ってんのよ」
「あっ! 俺、かーちゃんに風呂入れって言われてるんだった!」
急に思い出したかのように振る舞い、リビングから飛び出した。背後からは圭を呼び止める智子の声が聞こえていたが、部屋へと戻ることはなかった。
自室からパジャマと下着を手にして脱衣所へと駆け込む。一気に服を脱ぎ捨て、浴槽に浸かった。今日の入浴剤は青く澄んだハーブ系の香りを持つ母と姉のお気に入りのもの。心休まる香りに癒される。
(ねーちゃん、勘が良いからこえーんだよなぁ)
鼻の下まで湯に浸かり、ブクブクと泡を立てる。そして一つ溜め息を吐いた。
淳一からは今週末も呼び出しがかかっていた。流石に先週のように人前に出されるのは困ると苦情を入れると、今週は誰も呼ばないから安心してほしいとの旨が返ってきた。
心底行きたくはなかったが、弱みを握られている立場としては行かざるを得ない。まだ他人がいないのだからと自分を宥めすかした。
呼び出されているのは国内でも屈指の高級ホテル。その最上階に位置するスウィートルームだというのだから、金持ちの考えることはよく分からない。
しかし、姉が言っていた吉田建設の御曹司というのなら納得はできる。淳一が端々で見せる庶民との金銭感覚のズレは育ってきた環境の違いなのだろう。
ふと、アレクのことを考えた。彼も皇帝という立場にありながら、そこまでひどく金銭感覚がおかしいと思ったことがなかった。
圭にとって、あの世界での金の感覚というのがあまりなかったため、そんなに今の世界との比較はできない。それに使用人の数や豪華な城、そして調度品の数々は普通ではないと思う。もちろん、アレク自身も身なりの良さは際立っていた。
だが、金に糸目を付けずに珍品や貴重品などを買い漁ったり、豪遊したりしているような素振りは見られなかった。
むしろ彼は物に頓着などしていなかったし、基本的にいつも働いてばかりいた。
淳一の部屋にいた時、仲間内で盛り上がっている際に見せられた、推しであろうアイドルグループのグッズの数々などは尋常ではなかった。一体いくらつぎ込んだのか怖くなるくらいの量だったから。
それに比べて、アレクにはこだわりというものが見られなかった。
強いて言うなら圭への執着くらい。
しかし、淳一のように圭を自分好みに着飾るようなこともなく、ただ一緒にいられればそれで良いというスタンスだった。
思い出して心がズシリと重くなる。あんなに酷いことをしてきた人だというのに。
それでも圭のことを殴るようなことはなかった。淳一から受けた暴力を反芻してゾッとする。
(やだなぁ……今度は何させられるんだろう……)
重い溜め息を吐き出した。会うたびに彼には幻滅ばかりする。メールのやり取りも相変わらず多くて圭の生活の負担になっていた。
(こんな生活、いつまで続くんだろう)
浴室の天井へと首をのけ反らせた。柔らかい暖色系の明かりが柔らかく室内を照らしている。
淳一のことを考えると胃がシクシクと痛む。さっさと寝たかったが、きっと今夜も延々とメールでのやり取りをさせられるのだろう。
これが自分の取り戻したかった日常なのだろうか。最近、悩むことが増えた。
学校は相変わらず好きだ。それに、自宅も家族も嫌なところはない。
今、最も気がかりでならないのは毎夜夢に出てくるアレクのこと。気にしないようにしていても、どうしても頭の中で考えてしまう。
悶々としたまま今日もまた夢の中で見るのだろう。
せめて少しでも触れられたら良いのにと思いながら。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
指定されたホテルを見上げながら一つ小さな溜め息を吐いた。自分には不似合いだと思う程の超高級ホテルである。日本屈指のホテルは海外の要人なども利用している。当然ながら、一庶民であり、単なる男子高校生の圭が足を踏み入れたことなど一度としてない。テレビで少し見たことがあるくらいだ。
フロントで指定された部屋番号を伝えれば、既に淳一は入室していると言う。それを聞いてガックリと肩を落とした。
当然、いるだろうことは予想していたが、いなければ良いのにという思いが強すぎた。
エレベーターで最上階へと向かう。足音を吸収するフカフカの絨毯が敷き詰められた床を歩き、淳一がリザーブした部屋の前へと立ち止まった。重厚感のある扉は今の圭にとって地獄への門にしか見えなかった。
スマホで到着を告げれば、満面の笑みの淳一が圭を迎え入れた。
「今日の衣装は特別だよ」
またどこか移動するのだろうか。確かに、時刻は午前10時を過ぎた頃だし、外出するのに支障のあるような時間ではない。
むしろ、この時間帯になぜ普通にホテルの部屋の中にいられるのかの方が不思議だった。しかし、それに関しては淳一が如何様 にでもするのだろうと結論づける。
淳一が圭を連れて来たのは巨大なベッドが鎮座する寝室だった。城にあったサイズと比較しても見劣りしない。
ガラス張りの寝室からは東京が一望できる。この高さなら夜景も綺麗だろう。
「もしも一人で着替えられなかったら言って? 人呼ぶから」
ニコニコと終止笑顔を浮かべながら淳一は寝室を出て行った。一人で部屋に取り残される。淳一と一緒にいる時間が長ければ長いほど苦痛なため、こうして着替えの時間だけでも離れてもらえるのはホッとする。
ベッドの上に置かれていた白いドレスを手に取った。胸元にはふんだんにレースがあしらわれ、スカート部分にも何段ものレースが施されている。普通に出歩く際に着るようなタイプではない。
そして、ドレスの隣にはヴェールと小さなブーケまで置かれていた。それらを目にして圭の顔面が蒼白になる。
(おいおい、まさかこれ、結婚衣装……とか、そんな恐ろしいこと言うなよ?)
ハハハと乾いた笑いが出た。しかし状況がその可能性を肯定する。
いつまでも着替えない訳にはいかない。それこそ人を呼ばれても困る。ガックリと気落ちしながらも服を脱ぎ、用意されていたドレスを着てみた。
袖がなく、肩が薄ら寒い。胸元はきちんと隠れているものの、胸のない圭にとってはいつずり落ちるか気が気でない格好だ。
そして、ドレスの下に置かれていた白い紐パンに眉間の皺を深くした。この下着には良い思い出が全くない。それでも準備されているということは、身に付けろという命令だろう。
下着を履き替え、あまりにも自分には不似合いすぎる格好に辟易した。これにヴェールをつけて、ブーケを持てということだろう。渋々ながらヴェールを被り、ブーケを持つまではしたものの、寝室から出る気力が湧かない。ベッドサイドに座り、ボンヤリと窓の外を眺めていた。
「ちゃんと着られた?」
部屋がノックされる音が響いた。圭が何も言わずとも淳一が勝手に部屋へと入って来る。
「うっ……………かっわいい……」
グレーのタキシードに身を包み、髪の毛もしっかりとセットした淳一が扉の前で赤面しながら口を覆う。すぐさま圭の元へと大股で近づいて来た。
「すごく似合うよ。今日の圭ちゃんは俺だけの花嫁さんだね」
ヴェールを上げて圭の顔中にキスをする。なすが儘に受け入れていた。どうせ何を言っても無駄なのだ。淳一を見たくなくて俯いていると抱き締められる。そして、ズリズリとベッドの中央まで引きずられて行った。
「ちゃんとした結婚式は圭ちゃんが高校卒業したら海外でやろうね。ただ、きっとその頃には俺、親の決めた奴と結婚しなきゃいけないから法的拘束力とかはないものになっちゃうけど」
「えっ?」
「あー! でも、気にしないで! 俺がいっちばん好きなのは圭ちゃんで変わらないから! ……ただ、俺も一応跡取りだから、子供とかは作んなきゃなんないんだよね。そのためだけの結婚! 圭ちゃんにはちゃんとマンションとか用意してあげるし、何も不自由はさせないからね」
ギュッと強く抱き締められて怖気が走った。もはや、淳一が何を言っているのか分からない。
「今だから言うけど、本当は圭ちゃんのこと、新宿で会う前から知ってたんだ。ネットで見て、マジ運命だって。ビビッと来てさ」
「ネット……って?」
「素人投稿型の美少女名鑑みたいなやつ。それでメイド服着た圭ちゃん見つけて、すぐに興信所使って調べたんだ。それでずっと探偵使って張り込みさせてて、あの日、圭ちゃんが新宿行った時、これだ! って思ってね。すぐに人雇って圭ちゃんに絡ませて。ごめんね、あの時は怖い思いさせたよね」
すりすりと頬を擦り合わせてくる淳一の言葉に全身鳥肌が立った。
偶然を装って現れたのは、全てが作為的だったとの告白に顔面が青ざめる。全てが淳一の掌の上で踊らされていたのだ。ここにいて、こんな格好をさせられていることすら、全て。
「でも、こうやって圭ちゃんの願いも俺、ちゃんと叶えてるし。良い彼氏でしょ?」
ベッドへと押し倒された。覆い被さってくる淳一の笑みが怖い。
「ここなら圭ちゃんだって特別でしょ? 綺麗なドレスで着飾って、俺もきちんとカッコ良く決めて。ちゃんと愛だって誓い合おう? そうしたら、もうヤって良いよね?」
ハァハァと息を荒げ、淳一の手がスカートをたくし上げた。紐パンのリボンを解く。性器を隠す物がなくなり、ゾッとした。
「待って!? 俺……わ、私、別に結婚とかしたい訳じゃ……」
「マジ無理。俺がもう待つの無理。どんだけ我慢したと思ってんだよ。普通だったら、付き合ったら即ヤるだろ。それをここまで待ってやったんだ」
「あっ!」
両脚を持たれ、左右に大きく開かれた。恥ずかしい場所が淳一に晒される。
そして、衆目に晒されたことでクパクパと興奮するように開閉する蕾を見て、淳一の顔が凍り付いた。
「何これ。初めてじゃねえのかよ」
「あぁっ!」
低い声と共に一気に指が二本挿入 り込んで来た。バイブによる一人遊びで異物に慣れた後孔は簡単に咥え込む。
「おい、何で中まで濡れてんだよ! ははっ、期待してんのか? おい、このくそビッチが」
「ひっ!」
乱暴な手付きで指を奥まで注挿される。労わりなんて微塵も感じられない行為にジワリと涙が浮かんだ。
淳一の手が胸元の布を掴み、一気に下へとずり下げた。こっちの世界に戻ってきて初めて他者に晒される胸元の飾り。顔面を蒼白にさせる圭とは対照的に、淳一は怒りで顔を真っ赤に染めていた。
「ははっ……はっ、何だこれ」
「いたっ!」
右胸のピアスを引っ張られる。その間にも直腸に突っ込まれた指がゴリゴリと前立腺を嬲ってきた。
感じたくないのに、その2つの刺激に圭の性器が緩く頭を擡げてしまう。
「縦割れになるまで突っ込まれまくって、そんで乳首にはピアスまでしてんの? ははっ、随分と馬鹿にされたもんだな。これで初めてだからとか言ってたのかよ」
「ひぅっ!」
引っ張られる乳首の痛さに顔を顰めた。前立腺による強制的な快感と胸元から来る痛みで体が馬鹿になってしまいそうだ。
「もう、テメェは彼女でも何でもねえよ。ただの便器だ。良いか? 俺が呼んだらこれからはいつでも来いよ? 死ぬほど犯してやるよ」
「あっ」
後孔に挿し込まれていた指が乱雑に抜けた。ピアスからも手を離され、やっと痛みから解放される。
しかし、淳一がスーツの前を寛げ、滾った雄を出したことでこれからのことを察してガクガクと震え始めた。
「やだ……やだ……」
「誰がてめえみたいなくそビッチの言うことなんて聞くか。むしろ、これまで聞いて損したぜ。良いか? 今日は寝れると思うなよ? ここ、ぶっ壊すくらい犯してやるよ。せいぜい可愛く媚びでも売れば、少しは優しくしてやるよ」
軽く2~3度手淫を施した淳一の屹立は臨戦態勢を整えている。ブンブンと首を横に振ったが、ギラギラと獣の目をした相手は聞く耳なんて持ちそうにない。
後孔に淳一の切っ先が触れた。アレクとは違うモノの感触に大きく目を見開いた。
このままで良いのか。ここで犯されて、これからもずっとなし崩し的に淳一の言うことを聞き続ける人生を送れば良いのか。
「一気に掘ってやるよ。せいぜい良い声で啼けよ? それが可愛けりゃ少しは手加減してやるかもしんねーしな」
「うっ」
亀頭の先端が中へ入り込もうと力が入れられる。
違う。これじゃない。
嫌だ。彼じゃない。
体が反射的に思い切り淳一の顎へと掌底を繰り出していた。以前、姉に教わった悪漢への対処法の一つだった。顎は急所の一つだから、思い切りやれば相手の虚をつけると。
その言葉通り、淳一が一瞬硬直する。その隙を見逃さず、両足をバタつかせて拘束から抜け出すと、力の限り相手の股間を蹴り付けた。
「うっ」
股間を押さえて淳一がベッドの上で悶える。
ヴェールを取り去り、淳一へと投げつけた。
「うるっせえ!! 誰がテメーなんかに良い様にされるか! ボケェ!!」
ベッドの上で立ち上がり、仁王立ちになった。ビシリと淳一へと指をさす。「ひと様に指を向けてはならない」と両親から言い聞かせられてきたが、知ったこっちゃない。
「誰にでも好きに言えば良いだろ! 言いふらしたきゃ言いふらせ! でも、その時は俺だって、テメーのやってきたこと、全部暴露してやっからな! テメーの家族にも、許嫁様にも!」
青筋を立てながら今度は中指を立てる。こんなこと誰かにした経験はない。それくらい、人生で一番腹を立てていた。
「あとなぁ! 俺は何ちゃら坂とかより、絶頂期の松本伊代派だ!!」
最後に親指を下へと向けてベッドを降りた。脱いだ服と鞄を持ち、一目散に寝室から出る。ホテルの部屋を出る前にドレスを脱ぎ捨て、着て来た服を身に着けた。部屋から飛び出し、駅へと向けてダッシュする。
もう、どうなったって構わない。家族や友達にバレたとしても、その時はその時だ。先のことなんか考えたって始まらない。それよりも今が重要だから。
そして、何よりやっとスッキリできた。今までウジウジ悩んで自分らしくなかった。家族に心配かけてまで過度に我慢するなんて性に合わない。
全速力でのダッシュに疲れてその場に立ち止まった。見上げれば青空。自分は間違っていないと背中を押してくれているように見える。
清々しい気持ちでいっぱいだった。口角を上げてニンマリと笑う。
やっと自分らしくいられる気がした。ずっと引きつり笑いばかりしていたから。
「帰ろっと」
大きく背伸びを一つ。ここ最近の寝不足も相まって眠気が押し寄せてきた。今ならグッスリ寝られそうな気がする。
鉄道を乗り継ぎ、自宅へと戻ると着替えることもなくベッドの中へと潜り込んだ。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
いつもの夢の中だった。ブクブクと口から泡を零しながら前へと泳いで行く。もう1か月以上同じような夢を見ているため、この状況にもいささか慣れてきた。
光に向けて進んで行けば、やはり辿り着くのは見えない壁。そして、その向こうに見えるのはアレクの姿。
その日、アレクは一人きりだった。寝室に置いていたウサ太郎の前に立っている。アレクはウサ太郎の頭を撫でていた。そして、花冠を手にする。
瞬間、その場に膝をついた。花冠を持つ手が震えている。
アレクの唇の動きを見て、心臓が止まるかと思った。
「ケイ」と。確実に名を呼ぶ動きをしていたから。
言葉の違うアレクたちの国では、唇の動きと音として聞こえてくる言葉が合わない。
しかし、ただ一つだけ。ぴったりと合う言葉があった。
それが名前を呼ばれる時だった。
だから、その唇の形を覚えていた。その言葉を紡がれる時が一番好きだったから。
アレクの頬を雫が伝う。ぽたりぽたりと絨毯の敷き詰められた床へと落ちた。
彼が涙することなど一度としてなかった。つらかったであろう過去の話をする時も。泣くという感情を捨ててしまったのではないかと圭が心配したくらいなのに。
もうダメだった。涙腺がバグったかと思うくらい、ボロボロと涙が溢れてきた。
「アレク……アレクッ!」
ドンドンと見えない壁を叩く。ゴムのような振動があるだけで、向こう側に行ける気配はない。それでも、何度も何度も壁を拳で打ち続けた。
「アレク……ッ! 俺、ここにいるよ! ここだよ!」
壁の向こうに向かって叫び続けた。柔らかいと言っても、叩き続ければ拳が痛くなる。
しかし、そんなことどうでも良いし気にならなかった。
「アレクッ!!」
どうして伝わらないのだろう。こんなに叫んでいるというのに。
胸が苦しい。もどかしさとやるせなさでいっぱいだった。
すると、突然、目の前の映像が消える。フッとその場が暗くなる。今まで、目覚める瞬間まで途切れることなどなかったというのに。
アレクが見えなくなってしまい、更に心配が増した。この何もない空間に一人取り残されてしまったようで心細かった。
「アレク……」
ボロボロと零れる涙を手の甲で拭う。
あんな顔させたい訳じゃなかったのに。気丈な彼があんな姿を晒す程ツラかったであろうことを考えて胸が痛んだ。
もう、自分の中にある思いから目を背けることなどできなかった。
「戻りたい……戻りたいよ……」
自分の居るべき場所が分かった気がする。家族も友達も大切だが、もっと大切な人ができてしまったから。
泣いていると、ドボンと壁の向こうで音がした。今までこの夢の中で音などというものとは無縁だったというのに。
目の前に落ちてきた人物を見て目を丸くする。
「アレク……」
相手も同様に驚愕した表情をしていた。
「アレク……アレクッ!!」
ドンドンと壁を懸命に叩き続けた。ビクともしない透明な壁の向こうには、愛しい人がいる。相手も圭と同じように必死の形相で壁を叩いているが、その振動すら伝わってこない。
「アレク……ごめん……ごめんな……」
叩きながら何度も謝った。涙で顔をクシャクシャにしながら。
「……あい、してる……」
拳を無色の壁に付けたまま、ポツリと呟いた。淳一相手には絶対に言わなかった言葉。
これだけは死守した。
本当に伝えたい相手に本音で言える、その時まで。
「アレク……愛してるよ……」
ボロボロと涙を零しながら自然と顔が緩んだ。涙でグシャグシャになった変な笑顔だろう。
向こう側の相手も壁を叩くのを止めた。大きく見開いた目を細め、眉間に深い皺を刻む。圭の名を唇が紡いだ。
ああ、なんて愛おしいのだろう。この唇が名を呼んでくれるだけで心が温かくなる。
アレクの拳がある場所へと掌を合わせた。相手も同様に拳を解き、掌を同じ場所へと重ねてくれる。
それだけで繋がれたような気がして嬉しくなった。ずっと見つめることしかできなかったから。
壁へと顔を寄せた。相手も察してくれたのか、瞳を閉じて壁へと顔を近づけてくれる。
ピタリと壁越しに唇が重なった。
その時、ピシリと音がして、唇の触れた場所から壁に亀裂が入る。亀裂はどんどんと大きくなり、目の前でガラガラと割れ始めた。
「アレク!」
水中に落ちていく大きなガラスの破片たち。壁の向こう側にいた人物へと必死で手を伸ばした。
「ケイ!」
久しぶりに聞いた低い声。それだけでまた涙が大量に溢れてくる。しかし、顔に浮かぶは満面の笑み。
必死に泳ぎ、愛おしい人の元へと向かった。互いに伸ばした指先がどんどん近づく。指先が触れ、ギュッと繋がれた。力いっぱい相手の方へと引き寄せられる。
「ケイ!!」
その胸へと抱かれた。久しぶりに体感する厚い胸板と心臓の鼓動。温かい人肌に安心感を得る。
「アレク……」
相手の胸へと顔を押し付けた。無意識下の内に求め続けていたものをやっと得ることができた。背へと手を回す。アレクの寝巻をギュッと握り締めた。
久方ぶりの熱い抱擁。こんなにこの場所がホッとするなんて気が付かなかった。やっと戻って来られた気がする。あるべき場所へ。
顔を上げれば、愛おしそうに見つめてくる優しい瞳と視線がぶつかった。それだけで胸がキュンと締め付けられる。瞼を閉じた。その後に訪れるだろう行為に期待を込めて。
重なる唇。柔らかく、激情に満ちたキスを享受しながら意識は堕ちていった。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
目が覚めた時、眼前にあった美しい顔にふにゃりと頬が緩んだ。長いブロンドのまつ毛は顔に影を落とし、スッと伸びた鼻筋は今日も彼の麗しい顔の造作を形作っている。
その頬へと手を添えた。少しこけている。目の下のクマも濃い。
しかし、彼の美しさは損なわれていない。それを凌駕する程の美を持っているから。
長いまつ毛が揺れる。ゆっくりと瞼が持ち上がる。現れたエメラルドグリーンの瞳。
「おはよう、アレク。……あと、ただいま」
「ケイ!!」
ギュッと抱き締められた。苦しい程に。
しかし、今はその苦しさすらも心地良い。
「すまなかった……俺が……俺が全部悪かった……」
首を横に振る。そのきっかけを作ったのは自分だと分かっていたから。
確かに、やりすぎだということはあっただろう。
それでも、この人のことが好きだから。全て許してしまえるくらいにはもう心を奪われていた。
「アレク、俺、気付いたことがあるんだ」
彼の耳の傍で囁いた。苦しい程の抱擁の腕が弱まる。そっと相手との間にスペースを設ける。しっかりと彼の顔を見つめながら言いたかったから。
「アレクのことが好きだ。……好き、なんてもんじゃない。あ、愛してる……から」
言い慣れていない言葉に後半は赤面して弱弱しくなってしまった。
それでも、アレクはきちんと聞き取ってくれたようだ。顔を真っ赤にさせながら目を細め、口元を押さえている。
「俺は……一生誰とも番わないだろうと思っていたし、その気もなかった。でも、ケイと出逢ってから、俺の中の全てが変わった気がする。……ケイ、俺と一生を共にしてはもらえるか?」
ゆっくりと首を縦に振った。蕩けるような満面の笑みを湛えながら。
「ケイ……愛してる」
再び胸へと抱き込まれた。今度はアレクの背へと圭も腕を回す。
「俺も。……愛してるよ、アレク」
ともだちにシェアしよう!

