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番外編アツメターノ② お疲れの元暴君サマに癒しの時間をお届けします。
※第5章第1話付近の話です。
勉強中、部屋を訪れた文官の眉尻は情けなく下がり、ほとほと困り果てているといった表情だった。扉付近で文官の話を聞いたユルゲンがコクリと一つ頷きながら圭へと振り返る。
「ケイ様、お仕事の時間です」
「よしきた、任せとけ!」
開いていた教科書を閉じる。ほとんど引きこもりのような生活をしている圭にとって、久しぶりに部屋から出られる貴重な機会だ。
ユルゲンが使用人たちに用意させたのはティーポットとカップ、それに茶菓子の乗った皿。華やかにデコレーションされたカップケーキやクッキーなどが甘い香りを漂わせている。
「おーい、アレクー、茶ぁしばこうぜ~」
軽くノックした後、近くにいた使用人に執務室の扉を開けてもらう。アレクは部屋の奥にある執務机でしかめ面をしたまま書類を睨んでいた。
「ああ、ケイか」
普段なら圭の顔を見れば一気に機嫌の良くなるアレクであったが、今は不機嫌面から戻らない。纏うオーラも怒りに満ちている。ポットなどを乗せた盆を手にしたまま、圭は生唾を飲み込んだ。
(うわ~……これ、めっっっっっっちゃ怒ってんじゃん)
これは呼ばれる訳だと得心する。
アレクの機嫌を圭が左右すると分かってから、時折このように突然呼ばれることがあった。そんな時には大抵アレクの機嫌は地を這っている。
いつもだったら仕事を一旦中断させて、執務室の中央に鎮座している豪奢なソファで共にティータイムという流れになるのだが、そんな素振りが一切見えない。これは相当機嫌が悪い状態だ。
イライラを隠しもしない様子に内心で苦笑しながら執務机の傍へと歩を進めた。アレクの傍でティーカップへと茶を注ぐ。ホコホコとした湯気と共に、ハーブの香りが鼻孔をくすぐった。リラックス作用のある茶だろう。今のアレクにはピッタリだ。
「3時のお茶な~。あと、おやつ。アレクどれ食べたい? 欲しいの被ったらじゃんけんな」
カップを差し出し、菓子の乗った皿を見せる。アレクは皿を一瞥しただけで、すぐにプイと視線を書類へと戻してしまった。
「ケイが好きな物を食べれば良い」
言葉少なく、低い声。できる限り明るく能天気な感じで接してみたのだが、効果なし。
(う~ん、失敗かぁ……)
ポリポリとコメカミを掻いた後、圭は自分の分のカップに茶を注いだ。部屋の中を見回し、椅子を見つけて持ってくる。アレクの近くに置き、遠慮なしに茶を飲んだ。アレクはそんな圭に叱責などはしない。このくらいならば別に怒る程のことではなさそうだ。
以前だったら、何が不敬になって彼の逆鱗に触れるかとヒヤヒヤすることばかりだったが、今はそこまで気を張る必要がない。何となくだが、お互いの距離感が分かってきた気がする。アレクの圭に対する態度が柔和になったという部分が大きいが。
ピンク色のクリームで飾られたカップケーキにかぶりついていると、アレクが圭を一瞥した後、フゥと大きく息を吐き出し、書類を机の端へと置いた。アレクのためにと淹れたティーカップを引き寄せ、優雅な所作で口元へと持っていく。
アレクの態度が少し軟化したのを圭は見逃さなかった。
「アレク、仕事忙しいのか?」
「ああ。全く……バカばかりで困る」
ジト目で書類を睨みつけるアレクを見ながら、圭は乾いた笑いを零した。
「じゃーあー、アレクお疲れだな」
手にしていたカップを机上のソーサーへと置き、アレクの座る椅子の後ろへと回った。肩に手を添えて揉んでみる。なかなかに硬い。
「あー、こりゃ凝ってんな~」
板のように硬い肩を揉みほぐす。ずっと書類作業ばかりで凝り固まっているのだろう。これだけ凝っていればなかなかにツラいはずだ。
「随分と手慣れたものだな」
「家でじーちゃんとかにやってたし」
幼い頃から祖父母や両親の肩揉みは圭の仕事の一つだった。毎日という訳ではない。たまに肩が痛そうな時には揉んでいたため、慣れている。それに、体操教室でも柔軟体操の合間にストレッチ替わりに選手同士で脚などを揉むこともあった。どこが凝っていて何をすれば緩和するかはよく分かっている。
その証拠に、アレクの纏うピリピリオーラがどんどん和らいでいく。仕事でのイライラに加えて、肩こりなど肉体的な不調も影響していたのだろう。
アレクの事務的な作業が以前よりも増えていることはユルゲンから聞いていた。そのため、気分転換のように剣を振るう時間が減ったことも。夜の激しい運動は相変わらずではあるが。
アレクにとっても相応のストレスはあるに違いない。圭の家でも勤めに出ている父や兄は大変だと思う。あまり家族の前でそんな態度は見せないが。
「ん~、これは肩だけではダメですね!」
背中の凝りも見逃せない。椅子の背で上手く押せないため、アレクを立たせてソファへと連れて行く。その頃にはアレクの機嫌も良くなり、緩く笑みながら圭の好きにさせていた。
「はい、ここに寝て!」
アレクをソファでうつ伏せにさせ、背中から脚にかけて入念に押していく。どこもゴリゴリに硬く、酷く凝っているのが分かる。これはツラいだろう。
せっせとマッサージに精を出していると、静かな部屋の中に小さな寝息が聞こえてきた。いつの間にかアレクは眠ってしまったらしい。寝落ちるくらい気持ち良かったのだろうか。少し嬉しくなる。
「ねえ、何か掛ける物お願いしても良いかな」
忍び足で扉へと向かい、執務室の外で待機していた使用人へと頼み事をする。使用人はすぐに薄い羽毛布団のような布団を持ってきてくれた。アレクへとかけてやる。
ソファの傍に腰を下ろし、その背をゆっくりと撫でる。穏やかな寝顔を眺めていると、自然と口角が上がる。あどけなさが増して普段よりも歳若く見える。もちろん、カッコいいことには変わりないが。
「疲れてるんだよな。本当に頑張ってるもんな」
毎日見ているから分かる。傍若無人に振る舞っていた頃よりもストレスが多いことを。
そして、それに比例するようにアレクの周囲に人が集まるようになっていることも。
自分勝手にできるのは楽だろう。でも、圭は今のアレクの方が好きだった。
「偉いぞ~。よくできました」
アレクの金色の髪を撫でる。触り心地が良く、触れている圭の方が癒される。
大国の皇帝の頭を好きにできる者など、圭以外に存在しないが。
アニマルセラピーのようだと思いながら、今度はポンポンとアレクの背を軽く叩いた。少しだけでも休めれば良い。そもそも働きすぎなのだ。週休2日制で育ってきた圭にとって、全く休みがないというのは拷問に等しい。好きなこともせず、事によっては夜でもお構いなしに文官らが尋ねてくる。今は国内外が平穏のようだから争いごとに関する懸念などはないようだが、これがもしも国外との軋轢などが生じている状況であれば、更に私生活などないような日常を送ることになるのだろう。圭だったら絶対に耐えられない。
28という若さで大国を治めるというプレッシャーはないのだろうかと不思議に思う時がある。両親もおらず、心の底から信頼できる人がいないと語っていた時の顔を思い出して胸が痛くなった。優柔不断な部分もある圭は、すぐに周囲へと意見を求める。そして、周囲を巻き込んで一緒に物事を進めるタイプだ。だから、何でも自分の責任なんて言われた日にはゾッとする。そこまで自分の判断に自信が持てない。
しかし、アレクは絶対に圭以外の前では泣き言も言わないし、弱さも見せない。
そんな彼がこんな風に無防備な姿を晒してくれているのだ。嬉しくない訳がない。
布団の中へと手を入れ、アレクの手を握った。大きくて硬い掌は温かい。彼の秘める心の内のようだ。一見、冷たそうに見えるのに、その奥では温かみがある。そんな一面を見せてくれているのが愛おしくなる。
気付いた時には頬に唇を寄せていた。自分の行動を自覚して一気に赤面する。
無意識に行っていた。もしかしたら、随分とアレクの行動に看過されたのかもしれない。圭はれっきとした異性愛者であり、男色の気など微塵もないのだから。
「おや? ケイ様、何をなさっているのですか?」
控え目なノックの音の後、ユルゲンが分厚い書類の束を片手に執務室へと入室してきた。圭とアレクを見て驚いた顔をする。
「申し訳ありません。お休み中でしたか」
小声で耳打ちするように圭へと告げてきた言葉にコクリと首肯で返した。そして、圭の座っている場所を見て僅かに眉を顰める。
「そんな場所に座っていてはお召し物が汚れてしまいます。椅子をお持ちしましょう」
「いや、いいよ」
椅子なら先ほど、アレクの執務机の傍で使っていた物がある。しかし、あえて使用していない。
「だってさぁ、起きた時に見下ろされてるよりも、近い目線の方が安心しねえ?」
同年代の友人たちよりも背の低い圭にとって、それはよくあることだった。大抵は見下ろされることの方が多い。物理的な問題なので、仕方のないことだし誰を責めるようなことでもない。ただ、幼い頃から身長が他の人よりも低かったため、いつも上ばかり向いていた。
だから、自分が幼い子と話す時には絶対にしゃがんで目線を合わせるようにしている。そうすることで威圧感などから解放され、相手と対等に話せる気がするから。
「あ、そうだ。それなら、クッション欲しい。床に直置きしても良いようなやつ」
少し困った顔をしているユルゲンに対してお願いごとを一つする。執務室も床には消音のためかカーペットが敷き詰められており、特段痛いという訳ではない。しかし、ユルゲンが顔を顰めているということは、あまり良いことではないのだろう。多分、アレクが起きた時に小言を言われるのかもしれない。先程も服が汚れると心配していた。圭自身は気にしないが、それではユルゲンの都合が悪いかもしれない。だから妥協案としての提案だ。
ユルゲンは緩く笑んだ後、書類を執務机の上へと提出して部屋を出て行った。そしてすぐにフカフカとしたクッションを一つ手にして戻ってきた。
「ありがとう」
手渡されたクッションを尻の下に敷いた。各段に座り心地が良くなった。
ユルゲンは一礼をして去って行った。部屋の中には再びアレクの寝息だけが聞こえていた。
ポスリと頭を羽毛布団の上へと乗せる。座り心地が良くなったせいか、ウトウトしてきた。カップケーキを食べて、少しお腹が満たされたことも影響しているかもしれない。
布団が薄いからか、アレクの体温が伝わって来る気がする。自然と頬が緩んだ。
ここは居心地が良い。温もりと息遣いで密かに上下する体躯。その規則的な動きが睡魔を誘う。いつの間にか夢の世界へと潜り込んでいた。
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「んっ……」
目が覚めると、突っ伏していたはずの体はソファで仰向けに寝かせられていた。体の上にはアレクに掛けていたはずの薄手の羽毛布団。
「ああ、起きたか」
カリカリと響いていたペンの音が止まる。上半身を起こし、まだボンヤリとする頭のまま寝ぼけ眼を擦る。
「あれー? 俺、寝てた?」
「先に寝たのは俺の方だがな」
クスクスと笑いながらアレクが手を止め、圭のいるソファへと近づいてきた。眠りに落ちるまで座っていたクッションに今度はアレクが腰を下ろした。
「ケイに癒してもらったおかげで、随分と快適になった。お陰で仕事が格段に捗る」
「俺、上手いだろ~」
ワキワキと手の指を蠢かせれば、アレクは蕩けるような笑みを浮かべる。
「天才的だ」
「やっりぃ! 天才いただきました~」
そこまで絶賛する程の腕前ではないと分かっている。それでも褒められればやっぱり嬉しい。ワシャワシャと頭を撫でられ破顔した。
「でも俺以外の者にはやってくれるなよ?」
「え? 何で?」
「ケイが他の者に触るのが面白くない。ケイだって、そいつに俺が何かするのは見たくないだろう?」
「ひぇっ……」
昏く笑ったアレクの顔を見て、体中の血の気が引いた気がする。ギョッとした顔のまま何度もコクコクと首肯を繰り返した。
アレクがそっと圭の体を抱き締める。
「もう戻ってしまうのか?」
「ん~、どうしようかな。……あっ、そうだ。ここで俺も自習してて良いか?」
「もちろんだ」
「やった。じゃあ、勉強道具持ってこよっと」
腕を解いてもらい、パタパタと部屋へと駆け戻った。勉強机の上に積んでいたノートや教科書、それに筆記具を抱えてアレクのいる執務室へと戻る。
窓から見える太陽や空の色などから、それなりに眠り込んでしまっていたことを察した。ここからまた授業を再開しても中途半端で終わりそうだ。それならいっそのこと、今日の勉強終了までは自習と割り切った方が良いだろう。
別にサボるわけではない。ユルゲンもアレクの部屋にいるというのならば絶対に文句も言わないだろうし反対だってしない。
執務机の端に勉強道具を置けば、アレクが机上の書類などをどかしてスペースを作ってくれる。先ほど座っていた椅子の上にフカフカのクッションを置いて高さを調整した。シルヴァリアの語学の教科書を開き、書き取りを始める。その隣ではアレクが再び書類へと目を通し始めた。
何だか自習室みたいで一人で勉強するよりも楽しい。数か月前の高校受験が懐かしくなってきた。
「ここは違う。こうだ」
アレクが圭のノートの片隅にスペルを綴った。まだ慣れない圭とは違い、教科書に書かれている文字のように美しい。
「ありがとう」
笑みを浮かべながら礼を伝える。アレクも微笑みながら圭の髪をクシャリと撫でた。
窓からは徐々に夕景へと変わりゆく光が部屋の中へと差し込んでくる。カリカリとペンを走らせる音だけが響く中、互いにやるべきことを行う。
言葉はないが、この空気感が心地良かった。たまにはこういうのも良いかもしれない。
「陛下、ケイ様、そろそろ湯浴みとお食事の時間にございます」
ユルゲンが書類片手に入室してきた。未決の箱の中にドンと増える書類の山。多分、明日のアレクの執務ということだろう。
「今日の晩飯何だろな? 俺の予想は魚! 昨日肉だったから」
「そうか。楽しみだな」
持参した勉強道具を片付けながら雑談に興じる。アレクも書類の束を片付け始めていた。どうやら今日はもう執務を終了するようだ。圭の顔がニンマリと自然に笑む。
アレクが今、何の執務に手を焼いているのかは分からないが、無理はしない方が良い。人間余裕がないと何事も上手くいかないし、ミスへと繋がる。それは、体操教室で教えてもらったことだった。ベストパフォーマンスを出したいと、闇雲に練習に打ち込むだけが全てではない。精神面や肉体の調子にも左右される。心身共に健やかでいることこそが試合での結果に繋がる。
もちろん、それは生活においても言えること。ゆとりがないと、精神がささくれ立って見えるはずの物も見えなくなってしまう。そう言っていたのは祖母だった。お金持ちになるとそれを妬んだり、利用したりしようとする人が必ず出てくる。お金がたくさんなくても、平穏で楽しく過ごせるのが一番だよと縁側で茶を啜りながら話してくれた。
祖母と過ごす時間は穏やかで好きだった。いつでも優しく、圭のことを肯定してくれる。しかし、いけないことはいけないとはっきりと言う人だった。言い方はとても優しかったが。
「なあ、今日もう終わりなんだろ? 風呂にオモチャ浮かべて遊ぼうぜ!」
「オモチャを?」
キョトンとした顔をしているアレクに対し、大きく頷いた。
風呂でオモチャを使って遊ぶなど、幼い頃にしかしなかったが、母が何を思ったかアヒルのオモチャを買ってきて入浴中に浮かべて楽しんでいた。何故かと聞けば「ぷかぷか浮いてる動きに癒される」と話していたのを思い出した。
「水に浮く動物のオモチャとかないか?」
「確か、城下の玩具店にあるとは思うが」
「おっし! 大至急誰かに買ってきてもらって、今日は風呂入る前に飯食おうぜ!」
入浴後はまたマッサージをしてやろうと画策する。風呂の後は血行も良くなるし、筋肉の凝りがほぐれやすい。肩を始め、全身が凝っているアレクにはピッタリだ。
体のメンテナンスは生活において大切だ。体を整えてあげられれば、今日のように不機嫌になることも少なくなるだろう。
そうすれば勉強中に呼ばれることも減るし、周囲の人たちもビクビクと怯えなくて済むはずだ。全てが丸く収まる。
「オモチャでレースしようぜ! あっ、魔法使うのはなしでな?」
「ははっ、そんなことに魔法など使わないさ」
「よーっし! ぜってー勝つ!」
まとめた勉強道具を持ちながらアレクと共に執務室を出た。茜色に染まっていた空はいつのまにか濃紺との見事なグラデーションを描いていた。
「なあなあ、この世界には温泉ってあんの?」
「ああ。山岳地帯の麓の方まで行けばある。ケイは温泉が好きなのか?」
「俺? 大好き!」
祖父母が温泉好きということもあり、安達家では数年に1度のペースではあるが家族旅行で温泉に行っていた。広い風呂も好きだし、打たせ湯や寝湯、壺湯などの変わった風呂もこぞって入る。サウナ好きの兄や父とサウナに入ると、大体は暑さに耐えられず先に出てしまうが。
風呂上がりに買ってもらえるコーヒー牛乳やフルーツ牛乳も大好物だし、みんなで対決する家族対抗の卓球大会も盛り上がる。なかなか兄や姉に勝てなかったが、高校生になった今なら、勝機はありそうな気がする。
それに、浴衣を着てそぞろ歩きするのも楽しい。温泉地ならではの土産物を見たり、温泉卵を作ったり。食事はなるべく一緒にとっていても、なかなか家族全員で出歩くということは多くない。そのため、気兼ねなく話しながら散策できるのは温泉旅行の楽しみの一つでもあった。
城の風呂も通常の家の風呂よりも何倍も大きいし、日々変えてくれる香り高い入浴剤も心地良い。でも、やっぱり温泉の魅力には敵わない。
「ケイが行ってみたいのなら、今度連れて行ってやるか?」
「良いの!? やったー! 超行きたい!! ……あっ、でも転移で行って風呂だけ入って帰るとかはナシな?」
「ダメなのか?」
「全っ然ダメ! そんなの、温泉の流儀に反する!!」
温泉とはたまの贅沢なのだ。そんな勿体ないことをしてはならない。きちんと向かう道中ではお菓子を食べながらゲーム大会をしなければならないし、到着したら道中の疲れを癒すためにお茶と茶菓子を食べながらダラダラしなければならない。疲れが癒えたら今度は好奇心を満たすために旅館の中を探検するもよし、早速温泉に入るもよし。そして、温泉を満喫したら今度は街へ繰り出してそぞろ歩きをする。小腹が減れば名物を摘まみ、帰りに買う土産物の物色も欠かせない。
そして、やっと夕飯だ。豪勢な夕食を和気あいあいと囲んで舌鼓を打つ。食後、少し休んでからの温泉も欠かせないし、とにかくやることは多い。温泉だけ入って終わりなんてそんな風情の欠片もないことは絶対に許せない。温泉への冒涜だ。
鼻息荒く力説すれば、キョトンとした顔をしながら圭の話を聞いていたアレクがプッと吹き出した。
「何だよ、そ、そんな笑うようなことかよ」
少しばかり前のめりで話すぎたかと顔が火照り始めた。
よくよく考えれば、アレクは生まれた時から皇族だ。圭のような一般家庭とは違う。温泉くらい入ろうと思えばいくらでも入れるだろうし、旅行だって特別なことではないだろう。
「いや、すまん。とても楽しそうでな。そんな経験したことないから、想像したら、あまりに楽しそうで、ついニヤけてしまった」
その言葉通り、アレクは蕩けたように笑んでいた。僅かに頬を赤らめている。その表情がとても綺麗で、なぜか胸がドキドキした。
「ケイといると本当に退屈しない。もちろん、その旅行だって共に行ってくれるのだろう?」
「当たり前だろ? アレク一人で行っても、温泉の流儀全然守れなそうだし。そもそも旅行は誰かと一緒に行くから楽しいんだから」
一人旅の楽しみというものもあるだろうが、誰かと共にその場で感動を分かち合いたい。それが圭にとっての旅の楽しみ方だった。
「じゃあ、その流儀とやらを存分に教えてもらうとするか」
「おう、任せとけ!」
フンと鼻息を荒く吐き出せば、アレクの顔が更に緩む。出逢ったばかりの頃は顰め面ばかりだったというのに、随分と変わったように思う。
「……日々の生活に、楽しみができるというのは良いものだな」
「むしろ、俺は楽しみのない生活の方が考えられないけどな」
そんなことを言いながら歩いていれば、あっという間に部屋へと辿り着いた。食事の手配を先にすることと、至急城下で風呂用のオモチャを買ってくるようアレクが従者へと伝えると、すぐさま行動へと移してくれる。本当に何不自由ない生活だ。
窓の外はあっという間に濃紺が広がり、山裾に少しばかりオレンジ色が残る程度になっていた。その光景を見ながら、美しいと思うことができる。それはきっと、圭の心に余裕が少し生まれたからなのだろう。悩んでばかりいると視野が狭くなる。ついつい、うつむきがちになってしまうから、見えるはずの景色も見えなくなってしまうよと教えてくれたのは、父だった。
持っていた勉強道具を机の上へと戻し、ボンヤリと外を眺めていると、背後からアレクに抱きすくめられた。
「何? 急に」
「……いや、なんだか、ケイが夜の闇に誘われてしまいそうな気がしてな」
「あはは、そんなはずないじゃん。詩人だな、アレクは」
軽快に笑い飛ばしていると、顎を取られて上を向かされる。そして、キスで口を塞がれた。当然のように入り込んでくる舌。既に慣れてしまった濃厚なキス。
正直、こういうのは困る。体が反応してしまうから。
「め、飯! 先に飯だから」
「ああ、そうだったな。夕食にしよう」
アレクの腕から抜け出してキスから解放してもらう。緩く笑みながらアレクは圭の体から離れた。
ドキドキと跳ねる心臓。
そして、その隅には、ひっそりと存在するチクリとした痛みがあった。
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