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番外編アツメターノ③ 安達智子の独白

 弟の姿を初めて見た瞬間、安達智子は衝撃を受けた。新生児室で他の赤ん坊たちと共に並んでスヤスヤと眠っていた。まだみんな子ザルのように真っ赤な顔をしており、大きく違いなど分からない。  それでも、瞬時に悟った。「この子は他の子とは違う」と。  家族ゆえの贔屓目などではない。ほぼ第6感に近いものだった。 「パパ、私、強くなれる教室に通いたい」 「あれ? 智ちゃん、どうした? 突然」  智子と手を繋ぎながら新生児室を見ていた父を見上げた。一緒にガラス越しの弟を見ていた父は不思議そう智子へと目をやった。繋いでいた手にギュッと力を込める。 「多分、必要になるから」  瞳に力を込める。智子の圧に驚きながらも父は「智ちゃんがやりたいなら」と鷹揚に頷いてくれた。  帰宅後、パソコンで近所の格闘技教室を調べる。調度手頃な距離に空手道場があり、すぐに体験レッスンを受けに行き、その日の内に入会した。  安達智子、5歳の初夏だった。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆  智子は同年代の子供たちと比べても聡い子供だった。その時、何をするべきか、何を言うべきかが何となく理解できていた。相手が求める立ち振る舞いが分かり、周囲の大人からよく褒められた。  出産から1週間後、母と弟が退院して自宅へと戻ってきた。「圭」と名付けられた弟は母の腕の中で大事そうに抱かれ、用意されていたベビーベッドへと寝かされた。  おそるおそるベビーベッドの中へと手を入れる。小さな手へと指先を当ててみると、キュッと握られた。温かく柔らかい感触に包まれる。ホワッと心までもが温まる気がした。  徐々に顔立ちがハッキリしてくると、智子は自分の直感が正しかったと確信した。テレビのコマーシャルなどに出てくる赤ちゃんタレントを見ていても、圭の方が勝っていた。クリクリとした大きな目と、愛嬌のある笑顔は見る者を惹き付ける。たちまち圭は近所の人気者になっていた。  圭が4歳になる頃には、その可愛さに自我が加わり、更に愛らしさに拍車をかけた。素直で何でも疑いなく受け入れる様は少し心配にもなるくらいであった。  いつでも兄や智子の後をついてきては一緒に遊びたがる。兄と圭は歳が10歳離れていたため、圭は智子に特に懐いていた。近所の友達と公園で遊ぶ時には当然のように来たがり、智子の友人たちも圭のことは好きだったため、よく連れて行ってあげていた。  ただ、心配事がない訳でもなかった。圭の見目は女児のように可愛らしく、良くも悪くも万人の目を惹いた。特に幼児性愛を持つ男にとっては格好の的であり、少しでも目を離せば、連れ去られそうになることが何度かあった。その度に助け出しては圭に言い聞かせる。しかし、当の本人はよく分かっておらず、いつも不思議そうに首を傾げては「分かった!」とだけ返事ばかりは良かった。  顔と同様に母親に似た圭は人を疑うことを知らなかった。それに加えて変態ホイホイの側面を持ち、心配ばかりが募る。  翌年、智子は中学校への進学を控え、思案していた。今はまだ互いに小学生だから時間も行動圏内も大きくは変わらない。しかし、中学生になったら智子の生活自体が変わってしまう。今のように圭をきちんと見てあげられる訳ではなくなる。 「ママ、私、圭に何か習い事させた方が良いと思うんだけど。私も空手やってるし、お兄ちゃんも少年野球やってたじゃん?」  夕食を食べ終え、リビングでダラダラと家族でテレビを見ていた時、智子は切り出した。  圭に習い事をさせることは以前から考えていたことだった。圭が週何日間か習い事をするだけで、行き帰りの送迎で誰かが圭の傍にいるし、智子自身が目を離していても良い時間が増える。 「そうねぇ……ねえ、圭ちゃん、何か習い事してみたいのある?」 「習い事か~……」  母の隣でソファに座り、兄のスイッチで遊んでいた圭が画面から顔を上げる。少し悩んだ素振りを見せた後、テレビの方を指さした。 「俺、これやる!」  家族全員の視線がテレビに集まる。ちょうどオリンピックのニュースが流れていた。体操男子の金メダルラッシュの話題で、三連覇という文字がデカデカと踊っていた。 「圭ちゃん、体操やりたいの?」 「俺、鉄棒でクルクルしたり、立ってでんぐり返しとかする!」  スイッチをソファに放り出し、その場ででんぐり返しを始めた。狭いリビングに家族全員がひしめき合っているのだから、当然誰かにぶつかる。それはこたつに入っていた兄だった。 「こら、圭! こんなとこででんぐり返しなんてしちゃダメだろうが~」 「あ~! 兄ちゃん、ごめん! ごめんてば~! あははははははは」  兄のくすぐり攻撃に圭はその場で笑いながら暴れていた。  基本的に家族全員が末っ子の圭には甘い。その愛らしい顔と人懐っこい性格が相まって、本気で怒れないのだ。  だから圭に対して唯一ちゃんと怒れるのは自分だけだと智子は自負している。  今回はぶつかられた兄も楽しそうにしているし、言い聞かせる程のことではなさそうだ。むしろ、圭と戯れられて嬉しそうにも見える。  これが誰かが怪我をしたとか、何かを壊したとか言うならば話は変わってくるが。そんな時にはビシッと言う。  家族全員で少し過保護に育ててきたせいか、圭はあまり人の悪意というものに触れたことがない。そんなものからは遠ざけてきた。  そのため、まっすぐで純粋な子に育っている。人の話はきちんと聞くし、素直で本当に可愛い。  兄とのじゃれ合いを家族全員が微笑ましく見守っている中、智子はいち早く母のスマホを借りて近所の体操教室を調べ始めた。ちょうど隣町に教室があるのを見つける。口コミを見ても評価は高い。 「パパ、こことかどうかなぁ? ここならじーじも送り迎えそんなに大変じゃないだろうし、圭が大きくなったらバスも通ってるから行きやすそうだし」  父へとスマホの画面を見せる。自宅から車で20分程の距離の場所だ。自宅近くのバス停からも1本で行けるし、到着したバス停からも近い。施設もそれなりに大きく、仮に体操が合わなかったとしても、他のスポーツなどもできそうだ。  本当ならば格闘技系の方が今後のためには良い気もしていたが、下手に筋肉ムキムキの好戦的な性格になってしまっても困る。そんなのは可愛い圭には不似合いだ。それなら護身術をいくつか教えてやれば良い。  インドア系の習い事をしたいと言ってきたら却下するつもりだったが、体操ならば悪くない。 「圭ちゃん、体操頑張れる~?」 「うん、できる! 俺、早くじーちゃんにいっぱいクルクルするの見せてあげる!」 「そうか、そりゃあ楽しみだなぁ」  豪快に笑う祖父が圭の頭を撫でる。その顔はとても嬉しそうだった。これなら両親が仕事や家事などで忙しい時間帯でも率先して送り迎えをしてくれるだろう。問題はなさそうだ。  智子の狙い通り、習い事作戦は功を奏した。土日も含めてではあるが、週3日は教室に通い、楽しそうに練習をしている。その他の平日に関しては、できる限り友人と遊ぶように言い聞かせた。元々、誰とでもすぐに打ち解けて人好きされる性格だ。近所にいる同年代の友人たちとも仲が良い。よく幼馴染数人の名前を聞く。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆ 「ああ~! また合コン失敗したぁぁぁぁぁっ!!」  居間のソファで寝転がりながらクッションを抱いて喚く。安達家では全員が家族に隠し事をしない。何でもオープンにする家庭だ。 「ねーちゃん、また合コン失敗したの? 高望みしすぎなんじゃね? ねーちゃん綺麗だし、普通絶対モテるだろ」  ソファ近くに座ってスマホを弄っている圭がボソリと呟いた。ディスプレイにはラインのトーク画面が映し出されている。バレないように後ろから覗き込んでみる。やり取りしているのは同性の友人たちのようだ。圭に彼女のいるような素振りは見えないし、きっと未だ恋人いない歴イコール年齢だろう。彼女が欲しそうな感じはあるが、同年代の男子ほどがっついている様子はない。〝いたら良いな〟くらいのものなのだろう。まだ今は男子同士で遊んでいる方が楽しそうだ。  ソファから身を起こし、テーブルに置いていた缶ビールをグイッと一気に呷る。その様子を見た圭が呆れた顔をしながらキッチンへと向かい、グラスと茶のボトルを持って来た。 「ちゃんと水分補給しろよな~?」  トプトプとグラスへと茶を注いでいく。透明なグラスは茶色い液体に満たされた。  圭は鈍感なくせに気が利く時がある。多分、計算してのことではなく、無意識下での行動なのだろう。何をすれば相手のためになるか、本能的に察知する。  それに、この顔だ。元々愛らしい顔立ちだったが、歳を重ねて更に磨きがかかった。  圭が男で心底良かったと思う。女でこの顔にこの性格だったら、多分、相当モテていたことだろう。そんなの守り切れる自信がない。男だから貞操も無事なのだ。  それでも、ある一定数の変態をホイホイするのは変わっていないようだが。  きっと、圭を女子にしたような子がモテるのだろうという自覚はある。合コンや紹介などで少し良い雰囲気になっても、最後は他の女子に持っていかれた経験など数えきれない。智子は賢い分、相手にも妥協を許さない。 「高望みして何が悪いのよ。あたしを誰だと思ってるの? 安達さんちの智子ちゃんよ!? あたしは絶対玉の輿に乗るし、なんなら自分でも成功するんだから」  注いでくれた茶の入ったグラスを一気に飲み干した。そして間髪入れずに次の缶ビールのプルタブを開ける。グビグビと飲んでいると、圭は相変わらず呆れ顔をしながらも空いたグラスに茶を注いでくれた。 「圭、あんたも変な女になんか引っ掛かってくるんじゃないわよ?」 「うえ~、やーめーろーよー」  圭の頬に人差し指を押し付けてグリグリと指を回す。ニキビ一つないスベスベの肌が羨ましい。どうして何のケアもしていないのに、こんなに肌が綺麗なのだろうか。不公平だと思わざるをえない。  圭は心底嫌そうな顔をしながらも反抗はしてこない。幼い頃からの教育の賜物だ。お陰で圭には反抗期が無かった。反抗したところで押さえつける気満々だが。  反抗期がないと自立できなくなると心配されそうだが、端から一人暮らしなどさせる気も毛頭ない。結婚して家を出るまで実家暮らしをさせるつもりだし、何より、家族が寂しがるし許さないだろう。安達家は親馬鹿・祖父母馬鹿・ブラコンしかいない。もちろん、智子も含めて。  さすがに伴侶を連れて来て挨拶となれば渋々認めるとは思う。圭に似た子供の顔は見たい。絶対可愛いに決まっているし、何なら両親は二世帯住宅を建てようと言い出しかねない。それほど圭は安達家にとってなくてはならない存在だ。 「あ、かーちゃーん! 俺、明日、文化祭の準備で遅くなるかも~」  食器の片づけを終えた母がリビングへとやって来たところで、圭が渡りに船だとでも言うように智子からのグリグリ攻撃から逃れた。母はホコホコと湯気の立った湯呑を乗せた盆を持っている。圭は何も言わずにその盆を受け取り、家族へと配った。そういう配慮は本当にどこで覚えてきたのか感心する。 「あらぁ、圭ちゃんのクラス、何するの~?」 「俺のクラス、コスプレ喫茶」  缶ビールを呷っていた智子がブッと吹き出した。 「はぁ!?」 「ねーちゃん、きったねーなぁ」  圭が嫌そうな顔をしながらも台所から布巾を持ってきて濡れた場所を拭いていく。 「ちょっと! コスプレ喫茶って、圭何するのよ」 「俺? 厨房」 「あっ、そう……」  ホッと肩を撫で下ろした。  コスプレなんぞして変な虫がついたら大変だと危惧したが、厨房ならその心配もない。 「圭ちゃん、お料理とかできるのぉ~?」 「ん~、文化祭だし、多分そんな難しいのとか作んないと思うから大丈夫だと思う」  圭は母が持って来た温州ミカンの皮を剝いている。圭にも見えるように口を大きく開けば、ポイとミカンが1房入れられる。出回り始めたミカンは甘さと酸味が絶妙なバランスで口の中に幸せを届けてくれた。 「ねーちゃん、文化祭来るの?」 「行かない。その日、バイトだし」  圭のミカンを横取りばかりしていると、苦笑した母が1つミカンを剥いてくれた。渋々ながらも自分で1房ずつ食べ始める。  圭が幼い頃、智子のお下がりの服を着せてよく写真を撮っていた。その格好で外に出ることはなかったが、男の子なのに女児の服を着せられていたのを圭は快く思っていない。いつの間にか嫌だとはっきり拒否され、今はアルバムの中だけにしかそんな姿は残っていない。  圭を見ていれば、今でも似合うだろうことは明白だ。だから厨房だと聞いて心底安心した。 「ママは圭ちゃんのコスプレ見たかったけどな~」 「やだよ、ハズイもん」  残念がる母の言葉。圭は嫌そうな顔をしながらミカンを口に入れてゆく。この様子なら大丈夫だろう。幼い頃に色々と着せておいて良かった。 「さ、て、と! お風呂でも入ってこようかな」 「え~、ねーちゃん風呂なげーから後にしてよ」 「うるさい。こういうのは年功序列よ。今夜、推しの配信あるから無理」  机の上に並んでいた空き缶を持って立ち上がる。圭はまた顰め面になっていた。無視して空き缶を片付ける。それ以上、文句は言ってこなかったため諦めたのだろう。今は母の隣で大人しくスマホを弄っている。  安達家では入浴に関して年功序列などというルールはない。祖父母は就寝時間が早い関係上先に入ることが多いが、それ以外は入りたい人が順番に入っていく。  浴槽で大きく伸びをして温かい湯に癒される。今日も何だかんだで安達家は賑やかで楽しい。智子にとって、その生活は気に入っていたし何の不満もなかった。  毎日繰り返される、当たり前で穏やかな日々。  その生活に転機が訪れるなんて、この時はまだ誰も思ってもいない。

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