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番外編アツメターノ⑧ 新婚の元暴君サマはラブラブ性活をのろけたい。
ユルゲンが新たな書類を抱えて皇帝執務室へと入室すると、部屋の主は己の手の甲をじっと見つめていた。
「ユルゲン、そろそろ頃合いだ」
「かしこまりました」
持って来た書類を未決の箱へと置き、深々と頭を下げて部屋を出る。侍従長を呼び、「いつものだ」と一言告げれば、相手もその一言で内容を察する。
皇帝執務室へと戻り、諸外国との貿易関連の報告を説明していると、扉を叩く音。入室の許可を出せば、髪の長い細身の女性が恭しく入って来た。
女性がこの部屋へとやって来るのは初めてではない。ここ数か月は頻繁に訪れている。
女性は慣れた様子で部屋の主の傍まで行くと、近くにあった椅子へと腰かける。手にしていた籠の中から爪切りを取り出した。主は女性に目もくれず、女性の方へと手を出す。そして、手元の書類を見ながらユルゲンの説明を聞いていた。
部屋の中にはユルゲンの声とパチンパチンと爪を切る音が響く。切り終えれば今度はやすりなどを使って綺麗に爪を整えていく。
爪の表面がぴかぴかと輝くほど美しくなったら、次は肌のマッサージが始まった。主は手荒れ一つも許さない。
しかし、それは本人のためではない。主の伴侶のためである。
ユルゲンの主ことアレクサンダー・フォン・トイテンヴェルグがこのように手のケアを念入りに行うようになったのは生誕祭の後からだった。途中、伴侶がいなくなってしまった時はやめてしまっていたが、伴侶が戻ってきてからはより一層丹念に行われている。
一度、なぜかと問うたことがある。すると、「ケイの中に入るのだから、きちんと手入れをしなければならないだろう」と当然のように言われてしまった。爪は短く切りそろえ、手荒れなどもっての外。ささくれなんて問題外だ。触り心地は常に良くなければならない。
伴侶と出会う前とは180度変わったと感じる点の一つである。それまでの主は美しい人ではあったものの、そこまで細部にこだわる人物ではなかった。そんなことをせずとも持って生まれた美貌もあり、その美の前に誰もが屈服する。
ユルゲンも初めて顔を合わせた時、こんなに美しい人がこの世にいたのかと息を飲んだ。ユルゲン自身も周囲から「美しい」と評されて生きてきた。その分だけ審美眼も持っていると自負している。しかし、そのユルゲンをもってしても「次元が違う」と感じた程だ。
ただ、常につまらなそうな顔をしてばかりだとは思っていた。何をしていても興味など持つ様子もなく、無表情か仏頂面しかほぼ見たことがない。主はどんな時でも何にも関心を抱くことはないと思い込んでいた。以前であれば。
「少し暑いな」
主が白い軍服の首元を寛 げる。窓を開けるか提案しようとしたが、主の意図を察して言葉を飲み込んだ。
「まあ、陛下、昨夜は情熱的な一夜をお過ごしになられましたの?」
「しまった、バレてしまったか」
ハンドトリートメントを施していた女がフフッと笑みを湛 えながら主へとかけた言葉にユルゲンはガクリと項垂れた。主はその言葉を待ってましたとばかりに上機嫌になる。
主の首元に咲いている薄紅色をした情痕の証。軍服の襟で見えていなかったが、寛げたことで白昼に晒されてしまった。
ユルゲンは分かっていた。主がこれを誰かに見せたくて堪らなかったのだということを。
そして主も分かっている。ユルゲンに見せたところで何の反応も示さないことを。
「昨夜もなかなか離してくれなくてな。もっともっとと強請 られて、困ったものだ」
「仲睦まじいようで何よりでございます。シルヴァリアは安泰ですわね」
女性の言葉に更に主のテンションが上がる。言葉にしてはいないが、主を支えてきたユルゲンには見ているだけで分かる。
表情が変わりにくいと言われている主であるが、幾分か柔和になるのだ。良く言えばだが。悪く言えば、顔に締まりがない。よく見なければ分からないだろうし、主に近しくない者では全く気付けない程度ではあるが。
「皇后様は陛下のことをとても愛していらっしゃるのですね」
「分かるか?」
「ええ。その証を見れば、一目瞭然にございます。そこまで慕われるなんて、陛下の深い愛情の賜物 でございましょう」
女性がニッコリと笑みながら告げた言葉にまんざらでもなさそうな主の態度を見てユルゲンの顔はチベットスナギツネになった。
彼女が主の手元のケアをするようになったのは、技術はさることながら、この受け答えの秀逸さである。雰囲気も穏やかで、聞き上手の類である。
多分、その話術で相当数の人数の秘密なども聞いてきたのだろう。しかし、彼女の良いところは、決してその話を他言しないことだ。だからこうして主が蜜月の性生活を赤裸々に話していたとしても止めることはない。主はとにかく妻を自慢したくて堪らないのだ。
「そのように陛下に愛をお伝えできるというのは、陛下が皇后様に対して非常に寛容であられて、大きな愛で包み込んでいらっしゃるからと伝わってまいりますわ」
ウンウンと小さく頷いている主を見て、同席しているユルゲンは明後日の方向へと視線を向けた。
もう、こうなったらユルゲンが口を挟める空気ではない。挟もうものなら主の機嫌が最大限に下降し、手が付けられなくなる。そうすれば今後の執務に支障が出てしまう。それだけは全力で避けなければならない。この後、大事な会議が控えているのだ。
「ケイときたら、すぐに誘惑ばかりしてきてな? まったく、精力旺盛な妻というのも非常に可愛らしいが大変だ」
上機嫌な主は困ったような素振りを見せている。しかし、その発言にユルゲンはバレない程度で小さく眉をひそめた。
つい先日のことである。昼食の時間を過ぎても圭が起きて来なかった。従者たちから様子を見てきてほしいと頼まれ、渋々ながらも寝室を訪ねた。
新婚の寝所に入ることほど嫌なものはない。どうせろくなことにならないと分かっている。
寝室で圭は既に起きてはいたが、腰が痛くて起き上がれないと半泣き状態だった。仕方なしに回復魔法で腰痛を治してやったが、圭の体中に咲き誇っている所有の証の酷さに辟易する。よくもここまでつけたものだ。背中でここまで多いのだから、前も相当数咲き乱れているのだろう。
命が惜しいから見はしないが。
やっとベッドから起き上がれるようになり、服を着させて少し遅くなった昼食を食べさせている時、圭はぶつくさと文句を言っていた。
圭たちの住んでいた世界とこの世界では体格差などからか体力が全く違うらしい。「絶倫にも程がある」とほとんど恨み節にも近いことをぼやいていた。日中からそんな話を聞かされる側にもなってみてほしい。
しかも、何にもしていないのに突然スイッチが入るのだという。ただ食後の団らんを楽しんでいただけで襲われると言われ、どう切り返して良いか少々悩んだ。
もしかしたら、圭が思わせぶりな態度をしたのかもしれないが、当の本人はそれに対して無自覚である。その気ゼロの相手に対して盛っているのであれば、もう諦めて受け入れる他ない。
そう言えば、不貞腐れながらも納得をしていた。圭自身も陛下のことは愛している。陛下にされることなら相応に受け入れてくれるから助かる。これに関しては、圭がこの世界に来たばかりの頃にしっかり性教育を施しておいた成果が発揮されている。
ただ、絶倫が過ぎることに対しては納得いかないようだ。やめてくれと頼んでもやめてもらえないことが多いらしい。毎夜のごとく体の限界まで愛され続け、気絶するように眠りに落ちる日々だそうだ。そんなもの、一 侍従であるユルゲンではどうしようもない。
適当に宥 めすかして、その日のティータイムに圭の好きな菓子を出せば機嫌も戻ったようで何よりだった。それなりに単純な部分があってくれて心の底から助かっている。
「深く愛してやっている時に俺のことを好きだ好きだと言うのが何とも愛らしくてな? こうも愛を告げられては、離してやれなくなるというものだろう?」
ケアを続けながら女性はウンウンと頷いて肯定を示す。対するユルゲンは半眼になりながら天井を見上げた。
主が以前のように武力でストレスを発散しなくなったのは非常に良いことだしありがたい。
そして、主のストレス発散のためにも、この砂を吐きそうな程ののろけを聞かされている状況にうんざりしつつも、以前よりは何百倍もマシだと自分に言い聞かせていた。
そろそろ胃薬が欲しい頃だ。
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「たまには、騎士団の視察でもするか」
主が大きく伸びをした。ゴキゴキと首を鳴らし、腕のストレッチなどをしている。
以前は頻繁に訪れていた騎士団への視察だが、今は随分と頻度が減った。主の執務の量が増えたこともあり、書類仕事に追われる日々が続いていたためだ。
しかし、今はそんなに急を要する案件もない。まだ午前中だし、少し体を動かして午後から馬車馬のように働いてもらうのも良いだろう。今の主はきちんと夕方までには片付けておいてくれる。どれだけ量を置いておいたとしてもだ。以前の気分屋な頃に比べれば大変助かっている。
部屋に置いていた長剣を腰に差し、騎士団の訓練場へと向かう。近づいて来ると活気溢れる声が聞こえてきた。
ユルゲン自身はあまり騎士団とは馴染みがない。武芸に関してそれなりに鍛錬は積んだつもりだし、そこらのゴロツキ連中くらいなら相手にならないが、騎士団の精鋭たちには当然敵わない。文官と武官の差だ。それに、汗臭いのがあまり好きではない。
訓練場に入れば、主の来訪に気づいた騎士たちが敬礼をする。主は片手を上げて制する。騎士たちは再び鍛錬へと戻った。
「アルじゃないか。久しいな」
訓練場を歩いていると、新人騎士たちに指導をしていた大柄な体躯の男性が笑顔で近づいてきた。ディーター・ゲオルク・シュタール。騎士団の団長を務め、主の学友でもあった。主を「アル」なんて気安く呼べる人物はそう多くない。彼自身も高位貴族の出身であり、学園時代からという付き合いの長さと、その実力を主自身が認めているから許されるのだろう。
「たまには体を動かしたくなってな」
「ははっ、昔はよく来てたもんな」
「付き合ってくれるだろう?」
「そりゃあ、アルの相手できるのなんて、そういないからな」
ディーターは苦笑しながら頬をかく。その言葉通り、主の剣術の相手をできる者は多くない。ただ、それは純粋に剣術というものに限定すればという話だ。
主には他 の追随を許さない魔力がある。それを発揮されたらディーター団長と言えども歯が立たない。彼が対等に相手をできるのは1対1での剣術の対決においてのみである。
主が腰に差している長剣を抜いた。構えただけでも様になっている。
ディーターとの鍛錬が始まった。剣が交わる度にガキンガキンと重い金属音が響く。火花が出そうな程の迫力がある。
相応の武力を持っているユルゲンでさえ、太刀筋を追うので精一杯だ。1メートル近い長剣をあれ程の速さで振れる主の力は衰えを知らない。長剣ゆえに大きく振り回すだけになりがちなのに、相手の攻撃に合わせて細かく振るえる器用さには脱帽する。
いつの間にか、訓練場にいる他の騎士たちもその立ち合いに見入っていた。これほど高レベルのやり合いなどそう頻繁に見られるものではない。気持ちは十分すぎる程に分かる。
近くで見ていると剣圧すらも感じる。震える空気はビリビリと痛いくらいだ。この迫力を前に堂々と立ち向かえるディーターは、やはり大国の精鋭たちの頂点に君臨する団長だけある。正直、ユルゲン自身は主とやり合える気が全くしない。むしろ、何秒もつかくらいのレベルの話だ。
比較的大振りでの立ち合いが続いたかと思うと、今度は互いに剣を素早く振り乱す。更に剣を交える速度が増した。これでは、精鋭が集まっているとはいえ、どれだけの者が太刀筋を追えるかすら分からない。それでも鳴り響く音の力強さで威力が衰えていないことを悟る。もはや化け物級の2人の応酬に、学べる者など何人いることか。どちらも敵として相対した時に勝機など見出せない。
しかも、そのハイレベルな応酬の最中でも2人共に未 だ余裕があるように見える。心底楽しそうに剣を振るう姿を見ていると、彼らは戦闘狂なのだと思う。互いに振るうは真剣。命のやり取りすら厭 わないという気概すら感じる。
これでいて主は頭脳までが明晰なのだから、この世は不平等というものだ。魔法の才能にも優れ、誰もが見惚れる端麗な容姿。地位も名誉もあり、人々が欲しがる物を全て持っている。まさに人類の頂点に君臨していると言っても過言ではないだろう。
ディーター団長の剣が押されだした。防戦に回り始める。そろそろ頃合いだろう。二人の額にも汗が浮いている。それなりにストレスは発散できたはずだ。
「アル、そろそろお開きとしよう。これ以上やって、あまり部下たちにカッコ悪いところを見せたくないからな」
「もう終わりか? まだ始めたばかりじゃないか」
「最近は書類仕事ばっかりだって聞いてたから、もっと楽に勝てると思って油断したんだよ。全然衰えてないじゃないか。さては、ちゃっかり鍛錬続けてたな?」
「嫌になるほど毎日机に向かってばかりだ。これだけ剣を振るったのも久々だ」
主が鞘へと長剣を収めた。持ってきたタオルを手渡す。主は額などを拭うと、おもむろに軍服を脱ぎ始めた。そこまで汗をかいていたとは思っていなかったが、ディーター団長の肩で息をしている様子と、その前まで見せられていた次元の違う立ち合いの激しさならば、汗だくになっていてもおかしくはない。
着ていた軍服の上着を渡される。主はシャツのボタンまで外し始めた。替えのシャツまではさすがに持ってきていない。取りに戻るか思案している時だった。
「おいおい、アル、また随分なもの背中につけてるな」
ディーターの言葉に促されるようにその場所を見て、ユルゲンは頭を抱えた。
「しまった、見られてしまったか」
浮ついた主の声。背中には肩から肩甲骨の下にかけて幾つもの引っかき傷がついていた。
こんな事できる人物など、この国では一人しかいない。
「この国一番……いや、世界一の男にこれだけ派手に傷をつけられるなんて、アルの嫁さんに敵う奴なんてこの世にいやしないだろうな」
「ははは、まったくだ」
上機嫌で笑いながら肩などを擦っている。そして、おざなりに体を拭いていた。
今日、訓練場に来たのも、これが見せたかったのだろう。いかに激しい夜を過ごしているかをアピールしたかったに違いない。
「アルの嫁さん、別嬪さんだったからな。あんな綺麗な嫁さんを好きにできるなんて、男冥利に尽きるじゃないか」
「……誰にもくれてなどやらないぞ?」
「俺が既婚者なの知ってるだろ!? それに、こないだ子供が産まれたことも!! 俺がずっと嫁一筋なのも!!」
ディーター団長の一言に一瞬で殺気すら纏った主を見て、団長はサッと表情を変える。
確かに、団長が学生時代からの恋人と長く付き合って結婚までこぎつけたことは有名な話だ。城に勤める者なら誰もが知っている。似た者同士の二人で、おしどり夫婦とはまさに彼らのことを指すのだろう。
ディーターの言葉に安心したのか、主が纏っていた絶対零度の空気が落ち着いた。周囲からも安堵の溜め息が漏れる。二人のやり取りは心臓に悪い。
「なあ、今度嫁さん見せてくれよ。神さんの遣いだろ? 次の子供が今度は女の子を授かれるように拝んどかなきゃな」
「断る。ケイが汚れる」
「アルは今日もキッツイなぁ」
がははと大きく笑いながら主の背中を叩いている団長をヒヤヒヤしながら見ていた。この二人は付き合いが長い分、やり取りに忌憚 がない。また変に逆鱗に触れないか胃がシクシクと痛む。
「まあ、その様子じゃあ心配することはないだろうが、マンネリ防止には気を付けろよ~?」
「マンネリ……??」
「ああ。なんでも、同じようなセックスばっかりしてると、相手が飽きて不倫に走って、それがバレて泥沼……な~んてことがあるらしいぜ? ま、俺もこないだ飲み会で聞いた話だけどな。それに、俺と嫁さんは……」
ディーターが延々と惚気話をし始めたが、主は至って聞く耳を持っていなかった。真剣な表情で悩んでいる。
「ユルゲン、早急に戻るぞ」
「かしこまりました」
シャツを肩にかけ、足早に主が歩き始めた。その後を追っていく。
「マンネリ……不倫……」
渋い表情をしながらブツブツと主が呟いている。不倫なんてする相手などいないだろうとユルゲンは心の中でツッコミを入れた。この人類最強の男を前にして伴侶を奪う命知らずな者などこの世にいるはずがない。
しかし、これ以上この話題に絡んで巻き込まれたくはない。色恋沙汰に首を突っ込んでも良いことなど何一つないのだから。
以前に比べて悩んだり呆れたりすることが増えた気がする。
しかし、昔のように過度に畏怖 することはなくなったのも事実である。
そして、今の方が断然良いことも。
ただ、もしかしたらまた少年から泣き言を聞かされるかもしれない。何となく、そんな気がしてならない。
少しばかり多めに胃の薬でも貰ってくるかと画策する。
自然と苦笑している自分に気づき、それにも小さく笑ってしまう。
自分たちだけでなく、今や国自体が明るく活気づいたように見えるのも、きっと気のせいなんかじゃない。
そのきっかけとなってくれた少年に、今度はどんな物をティータイムに出してみようか。
少年が笑顔になってくれることでユルゲン自身も癒されていることを、ユルゲン本人はまだ気付いていない。
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