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【第2部 ヘルボルナ大陸】 第1章:出発編 第3話

 頬に心地良い風を感じる。そして、同時に鼻孔をくすぐる潮の香り。  ゆっくりと目を開いた。 「わぁっ!」  目の前に広がる光景に思わず声が零れた。  一面に広がる青い海。大小様々な船が並び、活気ある声が響いている。  頭上を見上げれば、たくさんの海鳥たちが飛び回っていた。照り付ける強い日差しに目を細める。帝都よりも強い気がする。  圭たちが立っていたのは、少しばかり小高くなっている展望台のような場所だった。周囲には人もおらず、突然現れた圭たちに驚く者もいない。 「ねえ、ここどこ?」 「ルレヴェックだ」 「ここがルレヴェックかー!」  港湾都市として名高い街の名を聞いて納得する。ルレヴェックはシルヴァリアの中でも有数の貿易港として知られている。多種多様な船が入港しているのも合点がいった。 「さて、街中まで何で行くか……」 「歩いて行こうよ!」 「ここから歩いてか? それなりに距離はあるが……」 「え? 急いでる?」 「いや、そんなことはない。今日はこの町で一泊するしな」 「じゃあ、ゆっくり見て回りたい!」  ずっと城の中にいたため、体はウズウズしている。時間に制限がないのであれば、心の赴くままに行きたい場所へと行ってみたい。 「ケイがそうしたいなら、歩いて行くとするか」 「うん!」  伸ばされた手を繋ぐ。大きな掌は温かい。ギュッと握り締めれば、アレクも同様に握り返してくれる。それだけでも嬉しい。満面の笑みを浮かべると、アレクも同様にほほ笑んでくれた。美丈夫の笑顔は心臓に悪い。まだ全く歩き始めてもいないというのに、ドキドキする。 「まずは市場にでも行くか。ちゃんと朝食は軽めに済ませておいたか?」 「めちゃくちゃいっぱい昼飯入るようにしといた!」 「ははは、それならその腹いっぱいに詰め込もう」 「おー!!」  港へと向けて歩き始める。歩幅を合わせてくれるアレクにも嬉しい。スキップしてしまいそうな足取りの軽さでアレクの後をついて行く。  坂道を降りて行くと、次第に港が近くなってきた。街中の喧騒も大きくなってくる。自然豊かな場所から徐々に民家が増えてきた。帝都と違ってカラフルな建物が多く、見ているだけで楽しい。ひと際大きな道路まで出ると、そこには大きな川が流れていた。川の傍には様々な店が並び、どの店も賑わっている。 「ここからは船に乗ろう。歩いて行っても良いが、せっかくの港を堪能するには悪くないだろう?」 「うん!」  川には幾隻ものゴンドラのような船が行き来していた。荷物や人など様々な物を運んでいる。どうやら、このゴンドラは観光の一つの目玉らしい。陽気な船乗りが観光客を勧誘していた。その中の一隻に乗り込むと、ゆっくりと船が出た。 「ねえ、何でこの辺の建物って色んな色のがあるの?」 「船乗りが自分の家が分かりやすいように敢えて色を付けるんだよ。そうすれば、遠くから見てもすぐに分かるだろ?」 「へぇぇ~」  屈強な腕をした漕ぎ手の言葉に周囲の家々を見回した。赤や黄色、緑など、これだけ目立つ色をしていれば確かに分かりやすい。見ているだけで映える景色に写真を撮りたくなるが、この世界にはスマホやカメラの類がない。だから存分に目に焼き付ける。  日本の港町とは全く違う光景は圭の目には新鮮に映った。窓から見慣れた帝都の景色とも全く違う。磯の香りも、海鳥の鳴き声も、時折聞こえてくる船の音も。全部が立川にも帝都・ヴァレンティアにもない。賑やかさという点では帝都に及ばないが、聞こえてくる音の違いにウキウキする。  漕ぎ手の説明を聞きながら辺りを見回していると、あっという間に河口まで辿り着いてしまった。もう少し乗っていたかったが、終点なら仕方がない。丁寧に礼を述べて船を降りた。  大きな船の並んでいる波止場へと辿り着いた。高台から見ている時も大きいとは感じたが、間近で見るとその大きさに更に驚く。 「でっけー船ばっかだなー」  キョロキョロしながら上ばかり見ていると、躓きそうになって怒られた。笑ってごまかしたが、仕方のないことだろう。こんなに大きな船は初めて見るのだから。それも大量に。どこを見て良いかすら悩んでしまうくらい見慣れない物で溢れていた。 「あんまりキョロキョロしていると、抱えて歩くぞ?」 「えへへ、ごめんってば」  何度か躓きかけ、さすがに呆れたアレクが圭を抱え上げようとする。そんな子供みたいな扱いは勘弁してほしい。大人しく足元に気を付けながら歩いて行くと、大きな市場に出た。 「ねぇねぇ、今度は色んな色の魚がいる!」 「そんなに珍しいことでもないだろう?」 「俺の国だと珍しい!」  興奮した声で言えば、アレクの大きな掌によって口を塞がれた。耳元で発言に気を付けるよう囁かれて首肯した。髪や瞳の色を変えたと言っても、変なことを言えば確かに目立ってしまう。ごめんと謝り、共に市場の中を見学した。  巨大な魚や細長い魚、棘だらけの魚まで、まるで水族館だ。見たことのない綺麗な色をした貝まである。それも全部食用だと言っていたから、驚いてばかりだった。  いろいろなことを勉強してきたつもりでいたが、まだ知らないことだらけだと実感する。やはり外に出るのは楽しい。新しい発見に溢れている。 「さて、昼食の店だが、ケイは確か生魚に興味があるのだろう?」 「刺身のこと? 何で知ってんの?」 「ユルゲンが話していたからな」 「俺、刺身大好き!」  口の中に涎が充満する。脳内に回転寿司のように様々な寿司が並んだ。米はないだろうから刺身だろうが、久しぶりに食べられそうな味にワクワクが止まらなくなる。  アレクが連れて来てくれたのは、洒落た店内の飲食店だった。客の多くは身なりも良いし、店内の装飾も華美とまでは言わないが洗練されている。なかなかの高級店のようだ。  店員に渡されたメニューを見ても、圭にはよく分からなかった。料理のことはあまり詳しく教わっていない。それよりも覚えることが多すぎて、そこまで勉強が行きついていなかった。  アレクが慣れた様子で店員へと注文をしていく。任せておけば良いだろうと、圭はニマニマと笑いながらアレクを見ていた。 「どうした? 何かおかしいことでもあったか?」 「何もおかしくはないよ。楽しくて、つい笑っちゃうだけ」 「ケイがそう思ってくれているなら何よりだ」  柔らかく笑うアレクの顔にほっこりする。  穏やかな時間だった。今日まで慌しい日々が続いていたから、こんな風にゆったりと過ごせるのが嬉しくて堪らない。 「昼食を食べた後、ケイは何が見たい?」 「ん~、またブラブラしたい!」 「ケイは歩くのが好きなんだな」 「だって、ずっと俺城にいるし。つまんないよ」  唇を尖らせて膨れ面をすれば、アレクが少しばかり申し訳なさそうな顔をする。 「すまないな。ケイには自由を与えてやれなくて」 「別に良いよ。アレクと一緒にいるのを選んだの、俺だもん」  当然のことを言えば、アレクが顔を覆って小さく震え始めた。突然どうしたのかと慌てて問いただせば、「今すぐ抱きたい」などとお門違いなことを言い始めたため、即時に却下する。せっかく楽しい気分でいたというのに、なぜいきなりそんなことを思うのか、全く分からない。  街の感想などを言い合っていると、給仕が料理を運んできた。 「おおおおお!」  薄くスライスされた魚の身が野菜の上に乗せられている。まさしく、この姿は待ち望んでいた刺身だった。しかし、想像していたものよりも薄く、これだとカルパッチョだ。 「刺身じゃないの?」 「サシミというのとはどう違うんだ?」 「えーっと、刺身はー、もっと身が分厚く切ってあって、醤油……ん~、醤油って何で出来てんのかな? 大豆? 多分、豆を使ったソースで食べるやつ」 「豆のソースか……合う気がしないんだが」 「えー? おいしいよ?」  アレクが微妙な顔をしながら給仕の男性に新たな注文をする。ほどなくして圭の前に分厚く切られた魚の身と、緑色をした液体が運ばれてきた。 「これで良いのか?」 「……多分、何か違う……気がする」  スプーンで少しだけ掬って液体を舐めてみた。少し青臭い匂いと味がする。醤油とは似ても似つかない。 「……やっぱ違う。醤油、これじゃない」 「ケイの国の料理は難しいな」 「あ、でも、別に全く同じやつじゃなくても全然良いよ! これ、カルパッチョだろ? 俺、カルパッチョも好きー」  フォークでサラダと刺身もどきを突き刺し、口へと運んだ。ドレッシングの味と合わさり、これはこれで美味しい。期待していたものではなかったが、元々食文化が違うのだから、仕方がない。  それよりも、アレクが圭のことを考えて連れて来てくれたことの方が嬉しかった。きっと忙しい中、ユルゲンから話を聞き、いろいろと調べてくれたのだろう。それだけでも喜ばしいことだ。 「アレク、ありがとう」 「どうした? 急に」 「俺の旦那様は最高だなって思ったから」  ヘラリと笑って言えば、今度はアレクがテーブルに突っ伏してしまった。唐突な出来事に圭は目を瞠る。 「どうしたアレク!? 何か口に合わなかったか!?」 「……すまない、しばらく放っておいてくれ……」 「だ、大丈夫かぁ?」 「いや、俺の嫁が最高すぎるだけだ」 「あ……そう……」  たまにアレクはよく分からないことを言う。そういう時は深入りしないことにしている。  それから注文していた料理が続々と運ばれてきた。新鮮な魚介類を目の前で焼いて食べられるのには大いに興奮した。こういう体験型の料理はシルヴァリアに来て初めてだった。いつでも丁寧に調理された料理ばかりが出てきていたから。  もちろん、城の料理も好きだ。全部おいしいし、贅沢をさせてもらっているという実感もある。  一方で、こんな風に自分で焼いて食べるのも楽しい。自分たちのペースであれやこれや言いながら好きなように食べられる。 「あっ、アレク、そっちの貝、もう食べ頃じゃねーか?」 「ケイの前にある串ももうそろそろ良さそうだ」 「あー、やば、焦げる焦げる!」  ジュウジュウと汁を滴らせていた串焼きを頬張る。エビのような味がして美味しい。ハフハフと口の中で冷ましながら嚥下した。  アレク自身も自分で焼いて食べるというのは初めてだったようだ。なぜこの店にしたのか聞いてみれば「ケイが好きそうだから」と言われてまた嬉しくなる。  食事一回と言えど、こうやって思い出に残る出来事になるのだから旅の体験は全てが貴重だ。  それも全て、大好きな人と一緒に行うことだから。 「やばい、食い過ぎた」 「ケイにしてはたくさん食べていたな」 「だって美味いし、楽しかったから。でも、アレクちょっと頼みすぎ」 「ははは、それは悪かった」  全く悪びれていない様子で謝るアレクに笑ってしまった。  店を出て、腹ごなしに街を散策する。海に出っ張る形でステージがあるのを発見した。ステージからは賑やかな音楽が聞こえてくる。何かのイベントが催されているようだ。 「ね、今度はあっち行きたい! ……って、あー! アイス発見!! アレク、アイス買って!!」 「はいはい、分かったから引っ張るな」  ステージに向かう道すがら、出店していたアイスのワゴン販売を見つけてグイグイとアレクを引っ張った。先ほど昼食を食べた店でもデザートは食べたが、甘い物は別腹だ。  立ち寄ったワゴン販売はジェラートの店だった。桃色のジェラートとクリーム色のジェラートを1つずつ購入する。どちらにしようか迷っていたら、半分ずつ食べようとアレクが買ってくれた。圭と違って、特段甘い物が好きというわけではないのに、こういうところが優しいと思う。  ジェラートを舐めながらステージへと赴くと、ジャズバンドのようなグループが演奏していた。陽気な曲で、活気溢れるルレヴェックの街に合う。聴いているだけで体が揺れてしまうような明るい曲調だ。 「ケイはこういう音楽が好きなのか?」 「うん! 楽しくなるじゃん」  ジェラートを食べ終え、手拍子を送る。アレクも圭を真似て拍手をしているが、まさかこんな場所に大国の皇帝陛下がいて、手拍子しているなんて誰も思いはしないだろう。そう考えるだけで楽しくて仕方がない。  曲調が変わり、座っていた観客たちが音楽に合わせて踊り始めた。どうやら、この辺りでは有名なダンスソングらしい。座っているのが勿体なくなって、アレクの手を引き、立ち上がらせる。  周囲のダンスを真似て一緒に踊れば、アレクも仕方なさそうに同じように振り付けを真似る。少し照れくさそうにしているのを見て、どんどん楽しくなってきた。 「えい、そりゃー!」  誰よりも大きく体を動かしていたら、いつの間にやら圭たちの周りにも人だかりができていた。まさか正体がバレたかとヒヤリとするも、圭が誰よりも派手に踊っていたため、目を惹いたようだ。 「坊主、良いぞ! もっとやれー!」  酔っ払いのおじさんのような人が口笛を吹きながら声を掛けてきた。それにつられたように周囲にいた人たちも歓声を上げてくる。  調子に乗って、その場でバク転を入れてみた。体操の大会で必死になって練習を積み重ねた末に習得した数少ない特技である。どよめきに近い声が上がった後、大きな拍手が贈られる。更に有頂天になってもっと大技を披露しようと助走をつけたところでヒョイとアレクに抱え上げられた。 「えー!? 今、良いとこなのに~」 「こんな目立ってどうする。ユルゲンにでもバレたら、またつまらない小言責めに遭うぞ」 「え? ユルいるの?」 「あいつ自身はここにはいないが、ずっと護衛が張り付いている」 「えー!? 全っ然気付かなかった!!」  アレクの脇の下に抱えられながら周囲をキョロキョロと見回していると、サッと物陰に隠れた人物が見えた。ギョッと目を剥く。 「うわっ! マジでいた!! いつからいたの!?」 「始めからずっといた」 「えー!!!!」  よくよく聞いてみれば、その護衛というのも1人ではないらしい。複数人が自分たちの行動をずっと見守っていたのだという。  つまり、転移で辿り着いた高台に人が全くいなかったのも、彼らが人払いをしていたお陰らしい。 「……なんか、ずっと見られてたって思うと……恥ずかしくなってきた……」 「こんなものだろう。むしろ、周囲を囲まれて歩かされないだけマシってものだ」 「いや、まあ、そうなんだろうけどさぁ……」  人気の少ない公園まで移動して、やっと下ろしてもらえた。ベンチに座り、帽子を被り直す。 「これでも、最大限の譲歩をされた方だぞ」 「うん、分かってはいるよ」  確かに、おかしいとは思ったのだ。誰にも言わずに城から転移して、こんな人の多い場所を自由に歩けるはずがない。 「でも、魔法で変装してるし、ばれないんじゃないの?」 「魔法と言えど、所詮は術だ。絶対ではない。意図せず解けることだってある」 「へー、そういうもんなんだ……」  見上げたアレクはバツが悪そうに背後を振り返っていた。 「どうしたの?」 「……いや、視線がな……」 「視線?」 「……一応、約束を取り付けていたんだ。2人で好きに歩く代わりに、目立つようなことはしないと」 「え!? そうだったの!? ご、ごめん、俺、知らなくて」 「いや、言ってなかったのはこちらの方だからな。言えば、ケイが好きにできないかもしれないと思って俺の中で留めていた。先に伝えていれば、こんなことにはならなかったかもしれない」  迎えの馬車がやって来た。きっと、自由な散策は終了ということだろう。勝手なことをしてしまい、しょぼくれる。 「ごめん、アレク」 「何もケイが謝ることはない。さっきの回転はすごかったな。ケイにあんな特技があったなんて知らなかった」 「へへ、すっごいだろー」  馬車に乗り込みながら胸を張る。体操の大会では目立った結果は残せなかったが、約8年習っていたのだ。それなりに技を会得している。 「また今度見せてもらっても良いか?」 「もちろん! 俺だってすごいことできるって、いっぱい見せてやるよ!」  ガタガタと馬車が走り出した。帽子を脱がされ、変装の魔法が解かれる。別に色を変えてもらっているだけだから圭の体に負担がかかるわけではないが、アレクがホッとした表情を浮かべているので、もしかしたら負担になっていたのだろうかと心配する。 「やっぱりケイはこっちの方が良い」  抱き寄せられ、アレクが圭の髪に顔を埋めてきた。スゥスゥと匂いを嗅がれている。強い日差しの下で思い切り踊ったから臭くないだろうかと思ったが、言葉にはしなかった。たまにアレクは圭の匂いを吸いたがることがある。圭は猫吸いの一種だろうと位置付けて好きにさせている。アレクがお疲れの時によくあることだ。  きっと、アレクも残念がっているのだろう。余計なことをしなければ、もっと散策できたかもしれない。 「ごめん、アレク」 「謝るな。ケイは何にも悪くない。それよりも、少しは楽しめたか?」 「うん! いっぱい楽しかった!!」 「そうか。まだまだ明日以降も楽しいことを用意しているからな。今日は少し残念だったかもしれないが、期待しててくれ」 「マジー!? うっわー!! 超楽しみ!!!!」  思わずアレクに抱き付いた。申し訳なかったとしょぼくれていた気持ちが一気にかき消される。現金なものだと言われるかもしれないが、仕方ない。嬉しくて堪らないのだから。 「その前に、今夜はルレヴェックに一泊だ。夜の港というのも綺麗だから、ケイに見せてやりたくてここに泊まることにした」 「そうなの!? 俺、港町に泊まるの初めて!! どんなんだろう? 超気になるー!!」  すりすりとアレクの胸に頬擦りをする。優しい手つきで頭を撫でられた。それだけでフニャリと顔の筋肉が弛緩するし、胸の中も温かいものに満たされる。  結局のところ、どこかに行きたいという思いはあるものの、それは〝アレクと一緒に〟というのが大きい。一人で行ってもつまらない。誰かと感動を共有できるのは嬉しいが、それがアレクだったらもっと満たされる。  こんな風に思える相手ができて良かった。そんな相手がいつも一緒にいてくれる相手で良かった。  つまるところ、圭にとってもアレクという存在は大きく、何よりも大切なのだ。  そんな相手が常に隣にいてくれて嬉しい。  2泊3日の会議くらい大人しく留守番できると思っていたが、やっぱりできる気がしない。  圭自身もアレクへ大いに依存しているのだから。

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