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【第2部 ヘルボルナ大陸】 第2章:クルーズ編 第5話

 目を閉じかけていた視界に、大きな魚の陰影が見えた。 (やば……生きてる、うちに俺、食われる?)  手を動かし、逃げようとするもやはり体は動かなかった。落ちてゆくばかりの身が恨めしい。 (痛いのやだ……痛くない内に意識飛ばせよぉ……)  ギュッと目を瞑った。せめて、怖い魚の姿など見たくない。できれば、死んでから喰われたかった。  手が引かれる感触。引き寄せられ、何かに顔が当たる。 「えっ……?」  口を開いてしまったため、残り僅かな空気が漏れてしまった。冷たい海面の中で、温かく弾力のある物に抱き込まれる。  一気に浮遊していく体。キラキラと光る海面が近づいてくる。 「ブハッ」  海面に頭を出した。一気に肺に入って来る空気に盛大に咳き込んだ。 「何してるんだっ!!」  顔の近くで怒鳴られ、ハッとした。アレクが真っ青になりながら圭を睨んでいた。 「ごめ……なさい……」  カタカタと歯の奥が震える。アレクが怖いというよりも、今更になって死に直面した怖さが襲ってきた。  ギュッと抱き締められる。アレクの体も震えていた。その身を圭も抱きすくめる。  進んでいた船は圭たちの落ちた場所から離れた所で停まっていた。ボートのような物が下ろされ、近づいてくる。  ああ、そうか。人が落ちたから、船まで停めてしまったのだ。自分のしでかしたことの大きさに憔悴した。  ボートに乗せられ、船へと向かう。引き上げられた時には何事かと大勢の人がデッキに出て来ていたが、申し訳なさでいっぱいで頭を上げられなかった。  アレクはずっと何も言わず、圭を抱き締めたままだった。アレクに抱えられ、部屋へと戻る。備え付けの風呂の中へと入れられ、温かい湯の中でやっと一息つくことができた。 「……どうして、あんな事をしたんだ」  アレクの低い声にビクリとする。声に抑揚はなく、感情も分からない。 「ごめん……なさい……」  項垂れたままボロボロと涙を零した。湯の中に雫が落ち、水面を揺らす。  アレクの手が圭の髪へと伸びた。それだけでビクリと身を竦ませる。  さすがに今回ばかりは怒らせただろう。呆れているかもしれない。  嫌いになってしまっていたらどうしよう。  様々な負の想像が駆け巡る。  アレクは圭の髪を一撫でし、抱きすくめてきた。アレクの肩に顔を乗せる。 「ケイ、聞いてくれ。怒ってる訳じゃない。……いや、もちろん、少しは怒ってもいるが」  アレクの言葉にビクンと体が震えた。  やっぱり怒らせてしまった。これからどうなるだろう。船を降りたら、離縁でもされるのだろうか。  アレクの庇護がなくなったら、どう暮らして良いか分からない。マリアに元の世界に戻してもらうにも、どうやったら彼女と交信できるのか未だに謎なのだ。マリアは気まぐれのように夢の中に出て来ては少し話をして終わってしまう。  特に、結婚してからは夢で会うことも少なくなっていた。 「ごめんなざいぃ……」  アレクに抱きつきながら心の底から謝った。  許されなくても良い。本当に反省しているのだと、とにかく伝えたかった。 「何か、不満なことでもあったのか?」 「……へ?」  心配そうな声色で後ろ髪を撫でられ、変な声が出てしまう。おそるおそる体を離すと、その言葉以上に心配そうな顔をしているアレクがいた。普段は自信ありげにキリリとした眉も、今は眉尻が下がってしまっている。 「嫌なことがあれば、何でも言ってほしい。何でも変えさせるし、俺自身で不満があるのなら、できる限り善処する。だから、もう自死などということは考えないでくれ」 「じ、し……?」  聞き慣れない言葉に小首を傾げた。アレクは圭の呟きに眉間の皺を深くする。 「死にたくなるほど嫌なことがあったのだろう? ケイにそんな思いを抱かせた時点で俺の落ち度が大きいことは分かっているが、どうしてそんなに思い詰めるまで言ってくれなかったんだ」 「死にたくなるぅ!? え? 俺が? 何で?」 「なぜはこちらのセリフだ。ケイが自ら海に飛び込んだのだろう」 「いや、まあ、そうなんだけど、あれは追い詰められてたから……」  妙な間ができる。怪訝な顔をするアレクに、ケイは大仰に首を傾げた。  そこから互いの認識にズレがあることを確認し、事実をすり合わせることにした。起きたらアレクがいなかったため、船内を探しに行ったら見知らぬ人に声を掛けられたこと。怖くなって逃げ惑った末に迷子になり、疲労と空腹で寝てしまったこと。起きてもう一度部屋に戻ろうと思ったら、今度は知らない人が大勢追って来たため逃げたこと。船尾で追い詰められ、海に飛び込んだこと。  そこまで話すと、アレクはガックリと項垂れた。 「お~い、あ、あれく~?」  ちょいちょいとアレクの頬を指でつつく。その圭の指を掴み、アレクが緩慢な動作で顔を上げた。怒りとも呆れともとれる複雑な表情をしている。ヒッと圭の喉が鳴った。 「戻ってきたら、ケイがいなかった時の俺の気持ちが分かるか?」  おどろおどろしい声。掴まれた指を握る手に力が籠められる。痛がると外してもらえたが、今度は恋人繋ぎにされる。離すという選択肢は今のアレクになさそうだ。 「部屋の隅々まで探したがいないし、フロア中呼びかけても出てこない。しまいには船内をくまなく捜索させたが見つからないし……そうか、機械室か……盲点だった。まさか、そんな所に迷い込んでいたとは……」  盛大な溜め息を吐かれる。そんなタイミングでグウゥと腹が鳴ってしまった。そういう雰囲気ではないというのに。しかし、腹の虫たちには関係なさそうだ。 「腹が減ったか? もう昼もとうに過ぎているしな」  コクリと頷けば、アレクは苦笑しながら立ち上がった。圭を抱いたままで。  タオルで拭かれ、部屋着を着せられる。一人でできると言ったが、アレクは頑として聞き入れなかった。それどころか、歩かせてすらくれない。ずっと圭のことを抱いたまま移動し、居室のソファに座った。待機していた使用人に食事の手配を指示する。アレクの腕の中で圭は居た堪れなさでいっぱいだった。 「船、俺のせいで停めちゃって、いっぱい迷惑かけたよな」 「その程度、どうとだってなる。もしもケイに何か言ってくるような奴がいれば俺に言えば良い」  圭の髪を撫でながらアレクは言うが、面と向かって言う人などいないだろう。それもまた申し訳ない。  しょんぼりしていると、ソファの傍に置かれていたサイドテーブルの上に軽食が運ばれてきた。ソファで摘まめるようなサンドイッチなどの乗った皿を目の前にするが、手が伸びなかった。 「ほら、口開けて」  アレクがサンドイッチを持って圭の口元まで持って来た。食べさせてもらうのはさすがに忍びなくて自分で持とうとしたが、アレクが手放さなかったため、そのまま口を付けた。フルーツサンドの甘味が口の中に広がる。もしかしたら、ちょうどおやつの時間だったのかもしれない。そんな時間まで皆に迷惑をかけてしまったのだと思うと、余計に気が滅入った。 「もういいよ……」  何とか一切れ食べ終えたところで首を振った。まだ腹は減っているが、食べる気力がなかった。 「じゃあ、今度は俺に食べさせてくれるか?」  圭の顔を覗き込むようにアレクがニッコリと穏やかに笑んだ。  確かに、圭がいなくなってアレクも昼食を摂るタイミングを逃してしまっていたのだろう。腹が減っているというのなら、アレクも同じはずだ。  アレクの手の中にある皿から野菜と肉が挟まれたミックスサンドを手に取る。アレクの口元へと差し出すと、パクリと大口を開けて口に入れた。 「以前、ケイが言っていたように、一緒に食べると美味しいというのは、本当だな。多分、俺一人で食べても、こんなに美味いとは感じない。ケイが一緒で、ケイがこうやって食べさせてくれるからもっと食べたいと思える」  穏やかに笑むアレクの顔がぼやけてくる。目頭が熱い。パシパシと瞬きすると、大量の涙が零れ落ちた。 「一緒に食べてくれてありがとう。今日も食べ物が美味いと思えるのは、ケイがこうして傍にいてくれるからだ」  以前、自分がアレクに言った言葉を返されて涙腺が決壊した。  手の中のミックスサンドを潰してしまったが、アレクは文句一つも言わずに圭の手から残りのサンドイッチを口にしていた。  そして、今度は再びアレクの手からサンドイッチを圭の口元へと運ばれる。今度は別のフルーツを用いたサンドイッチだったが、甘みよりも涙の塩味の方が強く感じた。  二人で食べさせ合いながら一皿分のサンドイッチを空にする。他の物も運ばせるかと聞かれたが、首を横に振った。腹が膨れたというよりも、胸の方がいっぱいだった。  空になった皿をサイドテーブルへと戻すと、今度はギュッと正面から抱き締められた。温かいアレクの腕の中に抱かれ、瞼がトロリとする。 「すまなかったな。まだしばらく寝ているだろうと思って、ケイを残して出てしまった。鍵もかけていたから大丈夫だろうと思って油断していた」 「アレク、どっか行っちゃったかと思って……。俺、置いてかれたのかなって……」 「そうだよな。突然いなくなっていたらビックリするし、心細くなるよな」  それまでよりも強く抱き締められた。きっと、アレクは自分の体験を踏まえて言っているのだろう。昨日、デッキで話していた言葉を思い出して胸が締め付けられる。  また余計なことをしてしまったのだ。やっぱり、ついて来たこと自体が間違いだったかと頭をよぎる。その度に首を振ってその考えを振り払った。  ポンポンと背中を優しく叩かれる。子供のようにあやされている。もう大人だと突っぱねようにも、温かい体温とアレクの匂いに包まれ、疲労した体が眠りの淵に落ちるのは時間の問題だった。

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