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【第2部 ヘルボルナ大陸】 第3章:入国編 第5話

 国王夫妻に連れられてやって来た部屋には既に4人分の食事の準備が整っていた。本当なら、もっと早くに食事の時間となっていただろうに、待たせてしまったようだ。 「うわぁ!」  運ばれてきたプレートに目を輝かせる。様々な一品料理が載っていて、目で見るだけでも楽しい。鼻孔をくすぐる食欲をそそる香りも圭を笑顔にさせる。その見た目と香りに誘われてか、腹の虫がクゥと小さく鳴ってしまい、赤面する。笑ってごまかすと、ぜひ食べてくれと勧められる。  会食の機会があるだろうからと、食事のマナーは学んできた。フォークもナイフも今はきちんと使える。プレートの手前にあったキッシュのような料理を一口大に切り、口へと運んだ。 「おいしいっ!」  目を大きく見開いた。甘辛くてホロホロとしたくちどけの料理はすぐに口内で溶けていった。隣に座るアレクを見ると、ニコニコと楽しそうに圭を見ている。  圭の期待通りアレクは料理の種類を一つ一つ説明してくれた。どれもシルヴァリアでは聞いたことのない食材で、ヴァラーラの郷土料理ばかりらしい。アレクの説明を補足するように国王夫妻も産地について詳しく話してくれることで、より一層理解を深めることができた。  説明を受けながら切り分けて食べてはいたものの、いかんせん量が多かった。この1皿だけで7種類の料理が盛り付けられている。食べきれなくはないが、お腹いっぱいになりそうだ。 「ある程度食べたら後は俺に寄越して良い」 「これくらいなら大丈夫だよ?」 「これはあくまで前菜だ。まだこれからいろいろと出てくる。多分、ケイの好きそうな料理もあるだろうから、これだけで腹がいっぱいになってしまったらもったいないだろう」 「えっ!?」  この一皿で終わりだと思っていたから驚いてしまった。出て来てもあとはパンかデザート程度だと思っていた。日本だったら、これで十分1人前だ。  きっと、まだまだ用意されているのだろう。確かに、このプレートを食べきったらお腹が膨れてそれ以上食べられる気がしない。  迷った末に、プレートをアレクへと手渡した。既に腹4分目程度には膨れている。用意してもらっておいて全く手つかずで返すというのもどうかと思う。みんなが食べている間中、ずっと見ているだけというのも寂しい。アレクが言う通り、好みの物が出てきても腹いっぱいだと美味しく食べられない。無理に腹へ納めても、夜中に具合を悪くして吐き出してしまいそうだ。  アレクが圭の分の料理まで食べ始めたことで、驚いたのはヴァラーラの国王夫妻だった。 「アレクサンダー陛下、そんな、別に無理して食べずとも残していただければ構いませんよ?」 「いや、残すのをケイが気にするのでな」  ペコリと国王陛下夫妻へと礼をする。シルヴァリアではアレクと圭の食べる量をきちんと理解しているシェフらによって絶妙な量で提供されている。栄養価もしっかりと計算され、食べきれる量で出してもらえるため、残すという罪悪感を抱かずに済んでいた。  日本の実家でも、残すと作った母親が切なそうな顔をするため、基本的に誰も残さず食べることが当たり前になっていた。食べきれなければ誰かが代わりに食べるし、シェアすることが当然だった。  でも、確かにこうした公式の場で自分が手を付けた物を他の人に食べさせるなんてマナー違反だったかもしれない。この世界に来てからアレクと一緒にしか食べたことがなかったため、変に思ったことすらなかった。 「ごめん。やっぱり自分で食べるよ」 「気にしなくて良い。俺がいつもたくさん食べるのはケイもよく見ているだろう?」  確かにアレクは圭の倍以上食べている。分かってはいるが、何となく他の人の目もある中でするのは良くない気がしてならなかった。 「それに、ケイが初めて食べる物を美味しそうに食べるのを見るのが好きなんだ。俺から楽しみを盗らないでくれ」  苦笑交じりに言われて、それ以上の言葉を飲み込んだ。  確かに、アレクは圭が食べる姿を見るのが好きだと常日頃から公言している。だから、珍しい物や美味しい物を頻繁に用意してくれるし、ここまでの旅の中でも様々な新しい食の出会いがあった。 「もしも可能なら、ここから先はケイの分は少な目に出してもらえるだろうか。もう用意してあるのなら、俺の方に入れてくれれば構わないから」  近くにいた給仕にアレクが指示すると、給仕の男性はペコリと一礼して厨房へとその旨を伝えに行ってくれた。  その一連のやり取りを見ていたヴァラーラの国王は終止驚いた表情ばかりで2人を見つめていた。 「アレクサンダー陛下がここまでされるとは、相当にお相手を大切にされているのですね」 「ええ。ケイは俺にとって絶対的な存在ですから。ケイの幸せが俺の幸せです」  にっこりと微笑みながら国王夫妻へと言い切るアレクにまたしても赤面する。アレクが圭のことを大切にしてくれているのは分かっていたが、こんな風に他の人に対してもきっぱりと言うアレクに照れてしまう。  その後も次々と提供される料理の数々はアレクの言う通り圭の興味を引く物ばかりだった。あの時、アレクが残りを食べてくれたことで美味しく腹に入れることができた。  しかも、圭の分だけきちんと少量で出してくれるのがありがたかった。お陰で最後のデザートまで食べきることができた。  食事の後には、部屋を変えての酒の席が用意されていた。靴を脱ぎ、床に敷かれた高価そうな大きな絨毯の上に車座のように座る。シルヴァリアでは椅子での生活ばかりだったから、日本のように靴を脱いで寛げる席が嬉しい。  フカフカのクッションがいくつも用意され、このままゴロンと横になってしまいたい気分になる。もちろん、他国の要人の前でそんなことはしないが。  酒を片手にアレクとミシェル国王らは各々の国の状況などについてざっくばらんに話していた。圭の手には当然のようにジュースのグラス。しかし、シルヴァリアで飲むジュースとはまた一味違っていて、これも美味しかった。  酒のつまみとして用意されている料理も圭にとっては珍しい物ばかりだった。たらふく食べた後だからそんなに入らないが、一口サイズで味見程度には調度良い。少しだけ口に運んではニコニコしている圭を隣に座らせ、アレクも上機嫌で酒を呷っていた。 「ご歓談中のところ、申し訳ございません。ミシェル陛下、ガテンニラ王国の件ですが……」  たわいもない雑談に花を咲かせていたところで、一人の軍服を着た美丈夫が入室し、ミシェル国王へと耳打ちをする。昼間、城門の前でマリーと共に出迎えてくれた男性だ。アレクは彼のことをクリストフと呼んでいた。  ジッと二人のことを見つめていると、クリストフが圭の方へと視線を寄せた。穏やかにほほ笑まれた後、小さく会釈される。その様子を見て、圭もペコリと頭を下げた。  城門の前でも思ったことだが、彼もとてつもないイケメンだ。少しタレ目気味の瞳は彼の持つ穏やかな雰囲気とも相まって、更に柔和な印象を与えている。優し気な形の眉も含めて、武人とは思えない相貌だ。しかし、軍服を着ているのだから、文官ではないのだろう。  その証拠に、多分服の下の筋肉はそれなりに鍛えられているはずだ。アレクと似たような体格をしているから何となく想像がつく。彼も着痩せして見えるタイプのようだが、肩幅などは誤魔化しようがない。高く伸びた整った鼻筋も、薄く形の良い唇も全てが彼の美を形作っている。アレクがハッとするような美形であるとすれば、クリストフはいつまでも観賞していたくなるような惚れ惚れとする美青年である。アレクとは対極の容貌をしているが、どちらも類まれなる美形であることには違いない。 「ケイさんはクリストフのことはご存知でして?」 「えっと、先ほど城門の前で出迎えていただいた時に初めてお会いしました」 「そうでしたか。彼はね、クリストフ・ド・ワイスと言って、我が大陸で唯一の魔術師なんですのよ」 「魔術師!?」  思わず大声を上げてしまった。口に出してしまってからハッとして口を塞ぐ。  魔法の使える者は元々多くないと聞いている。その中でも類まれなる才の持ち主だけが名乗れる「魔術師」の称号。世界一の大国・シルヴァリアですらアレク以外に魔術師と呼ばれる者は存在しない。他者の追随を許さない圧倒的な魔力と技術を備えた者だけが名乗れるのだ。正直、仙人みたいな人を想像していた。アレクだけが特別だと思っていたのだ。  魔術師はアレクだけではないとは聞いていたものの、実際に相まみえることがなかったため、他の魔術師はどんな人なのだろうと思ってはいた。まさか、こんな美丈夫だとは思いもしていなかったが。魔術師とは、実力の他に相貌も兼ね備えた者しかなれないのではないかと勘繰りたくもなってくる。 「我が国がここまで発展し、国力を維持できているのもクリスがいるからと言っても過言ではありませんわ」 「いいえ、さすがにそこまでは言いすぎですよ、エリザベート様」  苦笑しながら手を振るクリストフに対し、ミシェル国王たちの話は熱を帯びた。クリストフがいかに国民からの人望が厚いかを滔々と語る姿は自分たちの宝物を自慢しているようだった。それ程までに国王たちからの信頼が厚いのだなと実感する。  ミシェル国王の隣でクリストフ自身は少し照れくさそうにしていた。数々の偉業を並べ立てられるのを前に全く驕るような素振りがない。謙虚な姿勢は日本人に通ずるものがあるようで大いに好感を持った。  26歳にして既に騎士団長を務めるというのだから、相当な出世の早さだ。しかも、武官でありながら文官顔負けの知識も有しているのだという。文官の筆頭であるマリーにはさすがに劣るものの、彼の持つ知識量や発想力などは他よりも頭一つ抜け出ている程で、幾度となく政にも助力してきたそうだ。  しかも、ヘルボルナ大陸随一の高位貴族の出身であり、彼の母親自身も王家の出身らしい。容姿・実力共に全てを兼ね備えており、何一つ欠点が見つからない。  更には誰にでも優しく、穏やかな人柄で誰からも愛される存在であると聞かされ、そんな聖人君主が存在するのだなぁと感嘆の息を吐き出すばかりだった。  さすがにミシェル国王がクリストフのことを「国一番の宝だ」と発言した時はさすがに大げさだろうと思っていたが、あながち間違ってもいない気がしてきた。 「すごい人なんですね、クリストフさんは」 「いえいえ、私などまだまだ若輩者ですよ。もっと研鑽を重ねなければなりません」  謙虚な姿勢を崩さないクリストフに圭は感心しきりだった。  同じ魔術師でも、アレクとクリストフでは本当に対局の存在だと思う。アレクは常に自分の実力に自信を持ち、謙遜などというものとは無縁である。アレクは出来勝りすぎて周囲が萎縮してしまうこともあるが、クリストフの落ち着いた雰囲気はその場の空気を和らげてくれる。懐の深そうな人柄に、国民からの人気の高さも分かる気がした。 「しかし、アレクサンダー陛下はケイ殿を娶られてから、随分と変わりましたな。こう言ってはなんですが、以前はもっととっつきにくい雰囲気がありましたから。伴侶がいるというのは良いものでしょう。私にとってのエリザベートも特別ですから」  国王夫妻が互いの顔を見つめ合ってニコニコとしているのを見て、圭は実家の両親を思い出していた。歳を重ねてもいつまでも夫婦円満で、喧嘩をしている姿など見たことがない。目の前の二人もきっとそんな風に過ごしているのだろうと思うと、心がほっこりとしてくる。 「ミシェル国王夫妻もお代わりありませんね。その秘訣は何でしょう」 「エリザベートへの愛ですよ。私は彼女に首ったけですから」 「まあ、貴方ったら。人前で恥ずかしいわ」  エリザベートの腰を引き寄せ、イチャイチャし始めた二人に少しだけ引いた。仲睦まじいのは何よりだが、さすがの安達家でも子供の前ではある程度の節度は守る。寝室など、二人きりの時は知らないが。  二人に当てられてアレクも何かしてこないかとヒヤヒヤし、少しだけアレクとの間に距離を取った。それに気づいたアレクから不機嫌オーラを感じ取るも、気付かないフリをする。  日本男児たるもの、人前では硬派であるべし。二人きりなら甘えるが、こんな風に見せつけるのは趣味ではない。  と思っていたのは圭のみであった。 「うわっ!」  アレクの腕に引き寄せられ、膝の上へと座らせられる。普段ならもはや定位置となっているが、こんな人前でされるのだけはさすがに恥ずかしすぎる。 「アレク、ちょ、下ろしてよ」 「なぜだ? いつものことだろう」 「ひぇっ!」  チュッと頬に口づけられる。さすがのミシェル国王夫妻でも、ここまではしていない。羞恥に圭だけがカーッと顔を赤らめていた。 「エリザベート殿の美声は今やミシェル国王だけの独占なんでしょうね」 「いやいや、エリザベートの声は国民全員のものですよ。独り占めしてしまっては恨まれてしまいます」  ハハハと軽く笑うミシェル国王の言っている意味が分からない。パチパチと目を瞬かせていると、アレクが圭の様子に気づき、圭の髪を撫でてきた。 「エリザベート殿は〝世界一の歌姫〟と称賛され、一世を風靡した歌手だったんだ」 「へぇ~」  ミシェル国王の隣で穏やかに笑んでいる女性を見て圭は目を丸くした。今までの人生の中で「歌手」と名の付く職業の人を目の前で見たことがない。テレビやスマホ画面の中の人という印象が強い。知ったからには実際にその歌声を聞いてみたくてウズウズする。  圭からの期待の眼差しを受けてか、エリザベートは少し発声を行うと、その美声を惜しみなく披露してくれた。聴く者の体を震わせるような圧倒的な声量。高音域を綺麗に歌い上げる技術はまさにプロの技だ。心の奥底まで迫って来るような迫力ある歌い方に魅了される。その場の誰もがエリザベートから目を離せなくなっていた。  ひとしきり歌い上げ、エリザベートが小さくお辞儀をすると、ハッと我に返る。その歌声が作り出す世界に没頭していた。 「す、すごい! すごく綺麗でした! えっと……とにかくすごかったです!!」  エリザベートの作り出す歌の世界に入り込みすぎて呆然としてしまっていた。出てくる感想の語彙のなさにも気づかない程だ。 「最近はあまり歌う機会がなかったから、あまり声が出ませんでしたわね」 「えっ!? あれで!?!?」  照れくさそうに小さく笑うエリザベートに圭は目をまん丸にして驚いた。体の芯までブルブル震えるような声量だった。あれで声が出ていないなんて信じられない。プロが培った力量というのはとんでもないと目の前で見せつけられた。 「すごかったよね。アレク」 「ああ。大分久しぶりに聴かせていただいたが、相変わらず素晴らしい歌声をお持ちだ」  アレクの言葉に圭は満面の笑みを浮かべながらウンウンと何度も頷いた。あまりに凄すぎて、歌い終わった今でも未だ興奮が冷めない。 「サビの部分、すっごかったよね! おもい~でがぁぁあよみぃ~がえるぅぅぅのところ!」  興奮のままに印象に残った歌詞の部分を歌ってみた。すると、その場にいる全員が顔を引きつらせた。圭だけがその状況を理解できず、小首を傾げる。 「あれ? どうしたの?」 「……ケイ、まさか今のは……エリザベート殿が歌った歌と同じ歌か?」 「当たり前じゃん。何で?」  圭の言葉に更に全員が固まった。周囲を見回しながら意味が分からず圭はパチパチと瞬きを繰り返す。 「ケイ殿は……その、……とても個性的な歌を歌われる方ですな」  ミシェル国王の気を遣った言葉にハッとする。こっちの世界に戻って来てから歌を人前で歌う機会がなかったため、すっかり自分の音痴を忘れてしまっていた。カーッと一気に赤面する。 「と、とても一生懸命な感じが可愛らしいですわ」 「ケイ、歌だけが人生の全てじゃないからな?」  周囲の慰めの言葉がグサグサと心に突き刺さる。圭自身は音痴を別にそこまで気にしている訳ではない。逆に、励ますような言葉をかけられる方がつらい。  元歌手のエリザベートに歌で敵うはずなんて到底ないが、さすがにここまで皆に宥められると居た堪れなくなってくる。何か全員にすごいと思ってもらえるようなことはないかと考えていると、ピンとくるものが一つ見つかった。その場で靴下を脱ぎ、アレクの膝の上からピョンと立ち上がった。そして、部屋の隅の方へと駆け出す。 「ケイ?」  アレクが訝し気な声を出して腰を上げる。両掌をアレクへと向け、その場で留まるようジェスチャーで示す。  大きく息を一つ吸った。精神を整える。ワンピースという格好が少し心配だが、丈もそこまで長くないし、イける気がする。  軽く跳ねてから助走をつけ、勢いがついたところで側転をした。 「ケイ!?」  ギョッとしたアレクの声が聞こえる。クルリと綺麗に回転してポーズを決める。久しぶりに側転をしたが、上手くできて嬉しくなる。  満面のドヤ顔で3人の方を見たが、皆ポカンと口を開いて呆然としていた。  もしかしたら、まだあまりすごくなかっただろうか。それなら、まだ習得した技はある。格好がそういった体操に不向きで出来そうなことは限られるが。  スカートの裾を持ち、今度はその場でバク転をして見せた。これならエリザベートの時のように感心してもらえるに違いないと期待を込めて。  しかし、圭の期待通りにはいかなかった。綺麗にバク転を決めても、3人は怪訝な顔をしながら顔を引きつらせるばかり。  体操の大会などで大技を決められれば、見に来ていた家族たちは終わった後にいつも褒めてくれるし、学校で友人たちに披露した時も盛り上がった。どうしてこんな風に微妙な空気になるのか分からない。 「ケイさんは……雑技団か何かのご出身なのかしら」 「いえ、そんなことはありません……」  額に手を当てて困った顔をするアレクに引き寄せられ、バク転を決める前と同様にアレクの膝の上に乗せられる。ミシェル国王が苦笑しながら手にしていたグラスを一口呷った。 「いやぁ、と、とてもお元気な方でいらっしゃいますなぁ!」 「お心遣い、痛み入ります……」  豪快に笑ったミシェル国王に対し、アレクが首をうなだれた。双方の顔をキョロキョロと見ながら圭は少し不貞腐れる。  すごい物を見せてもらったから、自分なりにできることでみんなを喜ばせようと思っただけなのに。何だか場の空気が微妙になってしまった。  その後、その場の雰囲気は誰もが気遣うような空気に包まれたまま、ほどなくしてお開きとなった。  ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆  ヴァラーラの従者に先導されながらアレクに手を引かれて圭たちへと宛がわれた部屋へと戻ってきた。相変わらず、アレクは渋面をしたままだ。  先に風呂を済ませようと提案され、部屋に備え付けのバスルームへと連れて来られる。シルヴァリアの圭たちの部屋の風呂よりは狭いが、男2人が入っても十分足を伸ばせる程度には広い。  魔法で伸ばしたままの髪をシャンプーでアレクに洗われながら、圭は未だに不貞腐れたままだった。  ルレヴェックの街でもみんな盛り上がってくれたのに。あんなに微妙な空気になった原因が圭にはちっとも分からなかった。  髪の毛の泡を流され、目を瞑る。温かい湯はこんなに心地が良いというのに、心の中はモヤモヤでいっぱいだ。 「俺、何か間違えた?」  背後にいるアレクへと振り返った。風呂椅子に座ったままのアレクは苦笑しながら眉尻を下げる。その顔に自分の行動の誤りを悟り、しょんぼりと肩を落とす。  ただみんなに喜んでもらいたかっただけだというのに。こんな困ったような顔をさせたかった訳ではない。何から何まで何にも上手くいかない。 「そんなに落ち込む必要はない」  アレクの手が圭の脇の下に入れられ、軽々と体を持ち上げられる。アレクと向き合う格好で膝の上へと座らせられた。左頬を大きな掌で撫でられる。いつもならその心地良さに目をそばめてうっとりするものの、今日ばかりはそんな気分になれなかった。 「ケイはきちんとできていた。もしもケイに何か言ってくるような奴がいれば、俺に言えば良い。ケイを不快にさせるような者はすぐにでも粛清しよう」  ギュッと抱き締められた。逞しい胸板に顔を埋めながら項垂れる。  別に誰かに何か言われること自体はどうということはない。それは改善点であり、直していけば良いだけの話だ。  むしろ、こんな風に何もかも肯定されるだけの方が心苦しくなる。  しかし、アレクの気遣いを感じて何も言えなかった。 「ケイ……」  顔を上げさせられる。顎を掬われ、唇を塞がれた。何度も角度を変えながら口元を食べられるようなキスをされる。  気持ち良い。  でも、いつものように陶酔できなかった。  そして、それは圭を貪るアレクにも伝播する。 「気が乗らないか?」  心配そうに顔を覗き込まれる。端正な顔が憂いで歪み、咄嗟に首を振った。 「そんなことないよ!」  今度は圭の方からキスをする。舌を出し、ペロリとアレクの唇を舐めた。アレクの首へと腕を回す。上半身をくっつけ、胸を押し付ける。ピアスが擦れて気持ち良いものの、普段のような快感とまではいかなかった。 「ケイ……」 「あっ」  股間の愚息を緩やかに擦られる。アレクの硬くて大きな掌で擦られるのは相変わらず気持ちが良い。いつもなら触られた時点で反応を兆してしまう場所が今日はなかなか勃ち上がらなかった。いつまでたっても硬くならない性器。こんなこと今までなかったのに。圭の方が焦ってしまう。 「あ、アレク! 後ろ、使って?」  アレクの手首を取り、後孔へと持っていく。互いの指先を重ねて後孔の中へと潜り込ませた。拡げられる括約筋。常に濡れている直腸内は易々と圭とアレクの指を受け入れた。  しかし、やはり後ろへの挿入をもってしても性器が屹立しない。  出逢った頃の慣れない体でも後ろを弄れば勃ったというのに。これでは、アレクに満足できていないと言っているようなものだ。焦燥感に駆られながら2本の指を注挿させる。  きっと、前立腺を擦れば条件反射のように勃つはずだ。もっと深くまで挿し込もうとして、そこでアレクに手を止められる。 「えっ……」 「もういい。きっと慣れない土地に慣れないことばかりで疲れているんだろう」  チュポンと音をさせて後孔から指が引き抜かれた。中が喪失感に襲われる。 「明日はマリーとクリストフが城下を案内してくれるそうだ。2人共にケイにヴァラーラをもっと知ってほしいと話していたらしい。今日はゆっくりと風呂に浸かって疲れを取って、また明日たくさん案内してもらおう。ケイの食べたことのない物もたくさんあるし、シルヴァリアにはない物もたくさんある。俺もずっと一緒にいる」  ゆっくりと穏やかに頭を撫でられた。  アレクが情事を中断させるなんて初めてのことだった。愕然とする。 「俺……大丈夫、だよ……?」  口から出てきた声は震えていた。精一杯笑おうとするも、口角がヒクつくだけで上手く笑えない。 「体を重ねるというのは、どちらかが無理をしてするものじゃないだろう?」  チュッチュッと額にキスをされる。触れるだけの優しいキス。  しかし、今の圭にとってはそれが何よりも胸を抉った。 「無理とかしてない!!」  思わず大声で叫んでしまった。浴室に声が響く。至近距離で怒鳴ってしまったから、きっとうるさかっただろう。見上げたアレクはツラそうに顔を顰めていた。  ポロリと大粒の涙が零れてしまう。ポロポロと泣く圭を見ながら、アレクは更に困ったような表情を浮かべていた。 「俺、役に立ってない?」 「違う。役立つとか立たないとかいうものじゃない。ケイはここにいてくれるだけで良いんだ」  ギュッと抱き締められた。アレクの腕の中でヒックヒックとしゃくり上げる。  もっとたくさん何でも上手くできると思っていたのに。ちゃんと望まれることをきちんとこなして、褒められると思っていたのに。  ただ、迷惑ばかりかけてしまっている自分が情けない。頑張っているのに、できない未熟な自分。 「何度でも言うが、ケイがここにいることが俺にとって重要なんだ。ケイがいなかった時のことは見ていただろう? ケイだけが俺の心の拠り所なんだ。それに、ケイが来てくれたから、俺もここにいる。ユルゲンたちにとってはこれ以上のことなどないだろう」  ポンポンと軽く背中を叩かれながら耳元で囁かれた。  慰めようと思って言ってくれていることは分かっている。しかし、今はその言葉たちも圭の胸を抉る。  アレクの言っていることは全て圭が何かを成し遂げたからできていることではない。いるだけなんて、何の努力をしていなくてもできる。  圭自身もちゃんとアレクの力になりたかった。隣に並んで「お似合いだね」と言われたかった。  今は空回ってただカッコ悪いところを見せてばっかりだ。 「ほら、湯舟に浸かろう。温かくして、ゆっくりと眠ればつまらないことなど何も気にならなくなる」  アレクの言葉に更に傷ついた。今、圭が悩んでいることなど、取るに足りないことだと言われたような気がしたから。  確かに、世界一の大国を統べるアレクにとっては圭の抱える悩みなどちっぽけでどうでも良いことなのかもしれない。  でも、今の圭にとっては大きなことだった。つまらないことなんかじゃない。  きっと、そう反論すればアレクは真摯に謝ってくれることだろう。  しかし、別に謝罪の言葉が欲しいわけではない。  アレクは何も悪くなんかない。全ては至らない自分のせい。  そして、勝手に落ち込んで心配させてばかりいることにも更に落胆する。  アレクが圭の体を横抱きにして湯舟へと体を沈めた。温かい湯に包まれ、いつもならホッとするのに、今日は心の中が重苦しいままだった。 「この入浴剤、良い香りがするな。ケイはこういう香り、好きだろう?」 「うん……」  乳白色の湯からはフレッシュで瑞々しい柑橘系の香りがする。普段ならきっとそれだけでテンションが上がりそうだ。  浴槽の中でアレクは圭の体を後ろから抱き締めながらたわいもない話をしてくれている。  しかし、その言葉が全て頭の中に入ってこない。目の前の乳白色の湯を眺めながら項垂れてばかりいた。

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