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【第2部 ヘルボルナ大陸】 第5章:秘密のお出かけ編 第3話
クリストフに手を引かれ、足を踏み出す。
「ケイ様、こちらですよ」
優しい声音に誘われるように目を開ければ、そこには木々や緑が生い茂っていた。
鼻孔をくすぐる緑の香り。踏みしめれば、柔らかい草の感触がする。
周囲にはどのくらいの歳月をかけて育まれてきたのか想像もできない程の大木が空へと向けて枝を伸ばしている。そっと幹を触ってみた。硬い木の感触。しかし、なぜか温もりのようなものを感じる気がする。
頭上を見上げてみた。青々とした葉の隙間から零れる木漏れ日が温かい。
手つかずの自然が残っているからだろうか、至る所から鳥の鳴き声などが聞こえてくる。人の気配はない。手を引いてくれるクリストフだけが圭以外では唯一の人間だ。
少し歩くと、水の音が聞こえてくる。開けた場所まで来て、目の前の光景に目を剥いた。
「わぁ……っ!」
見たことないほど大きな滝だった。落差は100メートル以上あるだろうか。見上げる首が痛い程だ。滝壺に落ちた水は純白の水けむりを巻き上げている。その勢いにはただただ圧倒されるばかりだった。
ひんやりとした清涼感のある空気は息をするだけでも体の中から浄化されるようだ。大きく深呼吸を一つする。肺の中まで全てが洗われた気持ちになる。清々しく、まさに極上の癒しスポットだ。
目を閉じて滝の音に耳を傾けてみた。迫力のある音が心地良い。僅かに吹いている風も涼しいと感じる程度に肌をなぞっていた。
しばらく風や音などを楽しんだ後、クリストフに促されるように滝つぼの近くへと足を運んでみた。透明な水の中にはスイスイと泳ぐ魚たち。濁りなど一切なく、澄み切った美しさを持つ水はとても気持ちが良さそうに見えた。
「魚! 魚いっぱいいる!」
興奮しながら水の中を指し示す。圭の隣に座るクリストフは鷹揚に頷きながら穏やかな笑みを湛えていた。
「ここは古来から『命の水』と呼ばれていて、この水の中に住む生き物たちも天からの生き物とされているんですよ」
「へー!」
そんな大層な名前が付いているのならば観光地として発展していそうなものだが、この付近にそんな気配はない。聞いてみれば、この場所はヴァラーラ国の中でも人間が足を踏み入れられない程の山の奥に位置しているのだという。歩いてなどとても行くことが出来ない場所で、秘境の中の秘境らしい。そんな未踏の地だからこそ、これ程までに美しい手つかずの自然が残っているのだろう。納得だ。
「ここは誰からも干渉されることがないので、たまに来たくなるんです。とは言っても、なかなか来られるほど時間が作れないんですけどね」
クリストフが滝を見上げながら苦笑する。
確かに、人当たりの良いクリストフは色々と頼まれ事などをされそうだ。マリーも同様だが、2人共にミシェル国王たちからの信頼はとても厚そうだった。その分、重責なども負っているに違いない。
何でもそつなくこなすイメージがあるが、だからと言ってストレスを感じないということもないだろう。実家の兄がそうだった。温厚で要領良く何でもこなせる兄は仕事の早さなどから同期よりも業務量が多かったようで、よく家では何もせずに寛いでいる姿が見られた。
それに、アレクもそうだ。多忙な時は何をする訳でもなく圭を吸ったり撫でたりしていることがある。そういう時は何も言わずにお疲れなんだろうなと思いながらジッとしていることが多かった。
それがクリストフにとってはこのような自然豊かな場所に来ることなのだろう。誰に構われることもなく、ただのんびりと自然を満喫する。そういったリフレッシュ方法が彼にとっての癒しなのだと理解する。
「そんなに忙しいのに、俺と一緒にいて大丈夫なの?」
「昨日も言いましたが、こういった会議の時に忙しいのは文官のマリーたちであって、私ではありません。それに、休みがない分、たまにこうして時間をいただくので大丈夫ですよ」
ニコリとほほ笑まれ、それ以上は言えなかった。クリストフが良いと言うのだから、圭がこれ以上何かを言う必要は確かにない。クリストフはヴァラーラの国の者であり、シルヴァリアの国民ではないのだ。他国のことに部外者が口を挟むのはお門違いだろう。
しばらく2人でぼんやりと滝を眺めていたが、クリストフが見せたいものがあると言ってきたため、移動することにした。滝つぼから少し離れたところにある小川へとやって来る。こちらも水の色は澄んでいて美しい。流れも穏やかで、足を入れたら気持ちが良さそうだ。
クリストフがその川の中へと1艘の小舟を魔法で出した。2人乗るのがやっと程度の大きさだ。しかし、クッションなどが置かれ、乗り心地は悪くない。
2人で舟へと乗り込み、ゆっくりとした穏やかな流れに任せる。周囲を観察しながら乗る小舟の時間はこれもまた贅沢な時間だった。川の付近には色とりどりの花が咲いている場所があったり、たまに遠くの茂み近くに見える野生動物の姿を見ては指をさしてはしゃいだり。澄んだ空気の中、温かい日の光を浴びてゆっくりと進む舟は快適という他ない。
それなりに舟を満喫していると、圭の腹がクゥと小さく鳴った。太陽はすっかり高い場所まで昇っている。きっと今頃、お昼の時間だろうか。
圭の腹の虫の音を聞くと、クリストフは持ってきていた籠の中からセイロのような竹と見られる材質で編まれた蒸し器を取り出した。蓋を開けると、中にはホカホカと湯気の立った蒸し饅頭が入っている。聞けば、このセイロ自体が熱を保温できる魔道具なのだという。日本にもサーモスのような耐熱容器は普及しているが、セイロ自体が保温器になっていて、熱々のまま持ち運べる道具などはない。こういう時、やっぱり魔法は便利だと実感する。
同様に茶の入ったポットも出されて、舟の上でのささやかなランチタイムの始まりだ。寒いという程の気温ではないが、それでも温かい物を食べたり飲んだりするとホッとする。
しかも、蒸し饅頭の中身は肉や餡などバラエティに富んでいて、どれも驚くほど美味しかった。じゅわっと口の中で溢れる肉汁も、程よい甘さで滑らかな食感の餡もどちらも甲乙つけがたい程に絶品だ。小ぶりなサイズのため、圭でも数をたくさん食べられる。
そして、極めつけはクリストフの持ってきてくれた茶の美味さだった。マリアの所でも様々な茶を淹れてもらったし、シルヴァリアでのティータイムでも世界各国の茶葉を利用して出してもらっていたため、舌は肥えていると思っていた。
しかし、この茶もなかなかに上質だと分かる。口当たりはきめ細かく滑らかで、後味はほんのり甘い。しかし、飲んだ後には口の中がすっきりとしているから不思議だ。どこの茶かと聞くと、クリストフの親戚が作っている茶葉らしい。花茶もとても有名らしく、ぜひとも飲んでほしいと言われて大きく頷いた。花茶は姉の友人が中国に行った土産として買ってきてくれて、家で淹れたことがある。ポットの中で花開く光景は見ているだけで楽しかった。
中身の感想を言い合いながら食べていると、あっという間にセイロの中身は空になった。美味しくて食べすぎてしまったかもしれない。少し膨れたように見える腹を摩りながら満足感に満ちていた。
ポカポカとした日差しと、ゆっくり進む穏やかな舟の揺れ。どちらも満腹な圭にとっては眠気を誘う要因でしかない。ポヤポヤしながら辺りを見ていると、クリストフが舟に乗せていたクッションを軽く叩いた。
「良かったらここから先は横になってもらえませんか?」
「でも、そしたら俺、寝ちゃいそう」
「大丈夫です。眠れないような光景が見られますから」
その言葉にワクワクする。クリストフの言葉通り舟の上へと寝転がってみた。舟の底には柔らかなラグのような敷物が敷かれている。枕代わりにクッションを置き、空を眺めてみた。それだけでも気持ちが良い。なかなかこんな青空を眺めながら横になることなどない。こんなに快適では、やっぱりうつらうつらしてしまう。
しかし、クリストフの言葉に偽りはなかった。視界に入ってきた花のアーチ。何か気になって上半身を起こす。
「すごいっ!!」
小川の両側に植えられた大木は満開の白い花を咲きほこらせていた。見た目はまるで白い桜のようだ。
「ちょうどこの花が今は満開の時期なんです。どうしてもこれを見たかったんですが、今日、来られて良かった」
雨のようにヒラヒラと舞い落ちて来る白い花びらたち。舟の中にも入ってくる。
「さあ、ここからが見ものですよ」
クリストフがまた圭の体を舟の上へと寝かせた。今度はクリストフも一緒に圭の隣へと寝転がる。
大きく枝を伸ばした木々で作られる花のアーチはそれだけでも絶景だ。それに加えてそこから降って来る花びら。こんな光景見たことがない。
横を見れば、水面に近い場所にまで枝を伸ばした木もある。水から反射した光を得ようと伸びているのだろうか。その近さにもまた自然と笑んでしまう。
幻想的な光景に目をそばめた。腕を伸ばしてみる。容易に掴めた花びら。手の中にある白い花弁を見て、アレクのことを思い出していた。
こんなに綺麗な光景なら、アレクに見せてあげたかった。きっと喜んでくれただろう。仕事の疲れも癒えるだろうし、何よりもアレクの喜ぶ顔が見たかった。
何をするにも、やっぱりアレクと一緒が良い。楽しい思い出は何でも共有したいし、隣にいてほしい。
アレクのいない時ですら彼のことばかり考えてしまうのだから、恋い慕う気持ちというのはどうにかできるものではない。
徐々に舞う花びらの数が減って来る。視界に映る枝も少なくなり、元の青空へと戻っていた。
「あーあ……終わっちゃった……」
残念に思いながら上半身を起こした。振り返れば、白い花が段々と小さくなってゆく。
色こそは違っていたが、久しぶりに桜に近い花を見た。どんな花よりも美しく見えたのは、桜という木への日本人の愛着ゆえだろうか。目に映える緑も清々しくて綺麗だが、やっぱり桜に勝る物はないと思う。
「もう一度戻って見ますか?」
フルフルと首を横に振った。綺麗だったが、刹那的な華やかさというのが桜の魅力な気がする。それに、散った花びらが舟の周りに花筏のようになっていた。この光景を見るだけでも美しい。舟から腕を伸ばしてみたが、さすがに水面までは届かなかった。苦笑しながら手を戻す。
すると、クリストフが水面へと指先を伸ばした。水面が揺れ、その場で噴水のように水が動く。ちゃぷりちゃぷりと音をさせながらクルクルと生き物みたいな動きをする水に圭は目を丸くした。
「すっげー!」
舟の端を掴みながら身を乗り出した。すると、クリストフが圭の肩を掴んで引き戻す。
「落ちてしまいますよ」
「えへへ、ごめんごめん」
頭をかきながら舟底に腰を下ろす。少し興奮しすぎてしまったようだ。舟が傾いたらクリストフまで落ちてしまう可能性がある。連れて来てもらっておいて転覆なんてさせてしまったら申し訳ない。
舟はどんどんと進んでいく。茶を飲みながらクリストフとの話は募るばかりだった。シルヴァリアで話をするのはもっぱらアレクとユルゲン、それにユリア程度だ。それ以外の使用人とはあまり話をしないし、最近はマリアとも夢の中ではほとんど会っていない。
穏やかな話しぶりについつい話し過ぎてしまう。他の人と気兼ねなく話せるのが楽しかった。
気付けば、空は徐々に夕景へと変わり始めている。どれだけ話に興じていただろうか。
「あーあ、そろそろ帰らないとかなぁ」
薄っすらと橙色に染まり始めている空を見ながら残念に思う。アレクの会議がいつ終わるかは分からない。仮に会議が終わっても、その後すぐに部屋へと戻ってきてくれるのかも知らない。各国の要人が集まっているというのなら、そのまま夕食会へとなだれ込んでも不思議ではない。
そうしたら、圭はまたあの部屋で独りぼっちだ。話し相手がいないのはつまらないし寂しい。これだけ長い時間ずっとクリストフと一緒にいたからというのもある。
「……帰りたくないのですか?」
「ん~、帰りたくないっていうか……いや、帰りたくないのかな?」
顔を顰めながら腕を組んだ。しかし、いつまでもここにいる訳にはいかないことも分かっている。
「……………帰りたくなければ、帰らなければ良い」
「え?」
何を意味しているのか分からず、キョトンとする。そんな訳にはいかないだろうこと、クリストフだって分かっているだろう。彼にだって仕事はあるだろうし、戻らなくて良い訳がない。
クリストフが圭へと近寄ってきた。表情は真顔のままだ。整っている顔だけに、怖く見える。
「クリストフ?」
訳が分からず小首を傾げる。手首を掴まれ、舟の上に押し倒された。茜色に染まった空を背負うクリストフの表情は変わらない。それが一層怖く見えた。
「私なら、貴方を帰さずにいられる」
「……どういう、意味……ですか?」
ゴクリと生唾を飲み込んだ。
冗談だと思いたかった。しかし、彼の纏う雰囲気がそれを許さない。
「あの人の元へ帰りたくないというのなら、私が貴方を攫ってさしあげます。あの人の手の及ばない所へ、私なら連れて行ってあげられます」
圭の手首を掴む力が強くなる。少し痛いくらいだった。
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