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【第2部 ヘルボルナ大陸】 第5章:秘密のお出かけ編 第4話
「何、言ってんの……?」
精一杯笑おうとした。冗談にしたかった。
しかし、口角がヒクつくだけで上手く笑えなかった。
「貴方があの人に虐げられていたことは知っています。自由もなく、部屋の中に閉じ込められていることも」
「え……?」
何を言っているのか分からない。何か勘違いをしているのではなかろうか。そんな事実はないし、圭は望んでシルヴァリアに戻ってきたというのに。
「そんなことない」
「では、背中を見せていただいてもよろしいですか?」
ギクリと体が硬直した。見せられる訳がない。そこに残るのは、奴隷を示す焼き印だ。あの印を見られたら、更に誤解されてしまう。
「アレク以外の人に肌なんて見せたら怒られちゃうよ」
「本当にそれだけが理由でしょうか」
クリストフのハッキリとした口調に冷や汗が流れた。
知られている。その事実を突きつけられたように感じて体が強張る。
圭たち2人の間に先程までの穏やかな空気は一切なかった。ひりつくような緊張感。何が正解で、何を言えば良いのか分からない。不用意に発言して藪蛇になってしまうのが怖かった。
頑なに口を開かない圭に対し、顔を顰めながら先に口を開いたのはクリストフの方だった。
「私の母方の親戚がシルヴァリアにおりました。遠縁ではありますが、真面目な方で、幼かった時分にはシルヴァリアに行くと良くしてもらっていました」
突然語られた身の上話に首を傾げる。この2日間でクリストフとは様々な話をしたが、彼自身に関する話はほとんど聞いたことがなかった。語られるほとんどが国に関することばかりだった。
「文官として城に勤めておりまして、優秀な方でしたから、相応の役職に就いて国のためにと尽力されていました。その方から、シルヴァリアのことは聞いておりました。シルヴァリアに関しては他国ですので、我々が政治的なことに関して口を出す立場にはありません。それに、アレクサンダー皇帝は冷酷ではあっても政に関してズバ抜けた才をお持ちの方でしたので、一目は置いておりました。しかし、ある日突然連れてきた黒髪の者を監禁し、己が欲のために嬲るようなことをするようになったと聞いてからはあの人への見る目が私の中でも変わりました」
自分の話が出てきてドキリとする。確かにこの世界に来たばかりの頃はそんなこともあったが、今はありえない。自分の意思でここにいるんだから。
そう説明しようとした直前にクリストフが口を開いてしまった。
「貴方があの人の性処理のような扱いを受けてきたことは知っています。嘘だと思うなら、その背を確認してみれば良いとも言われました。……もしも違うと言うのであるなら、背を見せられますよね」
クリストフの顔は必死に見えた。
違うと言うこと自体は簡単だ。しかし、圭の背中にはまぎれもない奴隷の証が刻み込まれてしまっている。どんなに論を重ねようと、その証は嘘をつかない。
「違う……違う、よ……。そんなの誤解……」
「どう誤解だと言うんですか! どうせ、あの人のことだ。貴方のことも無理矢理嫁がせたのでしょう!」
「そんなことない! 俺は、望んで……それに、望まれてアレクと結婚して……」
「あんな暴君の元に望んで来る者などいるはずがない! 彼の暴虐の限りは、ヴァラーラにも伝わっています! あんな人の元に、貴方のような方が嫁がれるはずがないんだ!」
「何で……そんなこと言うんだよぉ……」
鼻の奥がツンとくる。目頭が熱い。涙でクリストフの顔が潤んできた。彼の顔を見ているのがツラくなる。瞬きすると、込み上げてきた涙が流れ落ちた。
「泣かないでください。貴方が悲しい顔をすると、私もツラくなります」
目尻に溜まった涙を唇で吸われる。心を許していた分、クリストフに対して淳一の時のような嫌悪感はないが、アレクの時みたいに高揚感があるわけではない。
「むしろ、あの人のどこに好きになる要素があるというんですか!? 何でも自分本位で、人の言うことなど聞こうとしない」
「そんなことない……アレクは、俺に優しくしてくれる……ッ!」
「では、どうして叔父は死ななければならなかったんですか!!」
「え……」
圭は涙に濡れた目を見開いた。激情のままに吐露するクリストフの話を聞いていけば、彼の親戚は圭がいなかった時、荒れていたアレクに助言をして斬り殺されたらしい。その光景は夢の中で見ていたから圭も知っている。それに関してはもう開き直りのしようもない。
「ごめ……ごめんなさい……」
震えながら謝罪の言葉を口にする。圭の顔色は真っ青だった。
「どうして貴方が謝るんですか! 貴方は何も悪くないというのに!」
「だって……俺が、俺のせいだから……」
あの時の事を誰かに責められるのは初めてだった。アレクのしたことは悪いことだったが、それに対して圭に文句を言う者などいなかった。しかし、あの惨事に関しては自分の判断の誤りによって起きたことだと思っている。
あの時、アレクの元から逃げなければ誰かの命が奪われるなんてことはなかった。
しかも、それがよくしてくれたクリストフの親戚だったなんて思いもしなかった。
ガクガクと全身が震える。失われてしまった命はもう取り返しがつかない。
クリストフの感じた悲しみを思うと、やりきれない。信頼していた相手を亡くすだけでもツラいのに、それが殺されたとあっては筆舌に尽くしがたい。
目の前の相手の心痛を察してハラハラと涙が零れ落ちる。
謝って許されるものではないと分かっているが、圭には謝ることしかできなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
涙が止まらない。ただひたすらに謝罪の言葉を重ねるばかりの圭に対し、クリストフはクシャリと顔を歪めた後、圭の唇を奪った。
「ん……」
唇を離そうと藻掻くが、顎を取られて固定されてしまう。
何度も唇を重ねる角度を変えて貪られた後、頬を指で押されて強引に口を開けられた。入り込んでくる舌。狭い口内に逃れられる場所などなく、あっという間に絡め捕られてしまう。
「んぅ……」
アレクではない舌の熱さと動き。これにはさすがに嫌悪する。ゾゾゾと悪寒が走り、鳥肌が立つ。
じっくりと吸われ、口内の至る所を舐められる。唾液が混ざるのが嫌で堪らない。思わず眉根を寄せてしまう。
唇を離された時には何だか疲れてしまっていた。全身緊張で強張っていたからだろうか。
深いキスによって、唇同士を銀糸が繋いでいた。顔が離れていき、プツリと切れる。その唾液が圭の唇の端に落ちた。
アレクのだったら舐めて口内に入れることも大歓迎だが、アレク以外の人の体液を入れる趣味はない。さっさと拭いたかったが、両手首を頭上で一纏めにされていて叶わなかった。
「どうして……こんなこと……」
アレクへの嫌がらせだろうか。伴侶である圭を傷つけることでウサを晴らしたいとでもいうのなら、もうどうして良いか分からなかった。
ただ、涙だけは流れ続ける。体は正直だ。嫌だと感じたことを拒否反応のごとく示してしまう。
「泣かせたくなんかないのに……。それでも、貴方の涙が美しいと思ってしまう……」
チュッと音を立てて目尻を吸われた。
あんなに激しいキスをしたら、アレクとであれば体が火照って下腹が屹立してしまうというのに、今はビクリともしない。むしろ、しょんぼりと萎えてしまっている。頬を赤く染めるクリストフとは対照的な反応だった。
「こんなことしたって、何にもならないよ……」
「なります」
「何で?」
「貴方のことを、お慕いしているからですよ」
「お、したい……?」
これが告白だと分からないくらい子供ではない。
でも、どうして告白されているのか分からない。
驚きで涙が引っ込んだ目でクリストフを見つめていた。
「私が貴方に初めてお会いしたのは、一昨日が初めてではありません。ケイ様たちの婚姻の儀に参加される王たちの警護として同席しておりました」
大きく目を瞠る。これ程の美形なのだから、あの場にいれば目を惹いたはずだ。しかし、全くそれらしき人物を見なかった。
どうやら、神殿やパーティ会場の中には招かれた者たちしか入れなかったらしい。そんな中、クリストフは謁見の際に少しばかりではあるが、圭のことを見られたのだという。
「この世に、あんなに美しい人がいるのかと驚きました。私は元来、人を見た目で判断することはないのですが、それでも貴方の美しさには目を離せなかった。……しかし、貴方はアレクサンダー皇帝の後ろで時折ツラそうな顔をしていて……私なら、貴方にそんな顔をさせないのにと思ってやまなかった」
今度はギョッとする番だった。あの凶悪ハイヒールとコルセット地獄のことを言っているのだろう。顔に出さないように努めていたつもりだったが、出てしまっていたようだ。別の意味で冷や汗が出る。
「いや、その、あれはぁ……」
「そこで確信しました。望まぬ婚姻であったであろうことを。貴方のような純粋な方が、体ばかりを弄んでくるような男に相応しい訳がない。私なら、唯一貴方を救い出してさしあげられます!」
「本当に、あれは違くて……」
あんな情けない事情を話しても良いのだろうか。皇后として失格な気もするが、アレクを誤解されたままで良い訳もない。
しかしながら、クリストフの親戚がアレクに殺されていることも事実である。どう説明したらこの誤解を上手く解けるのか分からず圭は途方に暮れていた。
「この世に私だけです。貴方をあの悪魔から助けられるのは。貴方のような美しい人が性加害に遭っているなんて考えるだけで耐えられません。私なら、貴方をきちんと幸せにしてさしあげられる」
とうとうアレクのことを悪魔呼ばわりし始めてしまった。相手は世界一の大国の皇帝であるということすら忘れていないだろうか。
これはきっとヤバい。あまりにも誤解がひど過ぎる。きちんと釈明しようと決意するも、次のクリストフの行動で頭が真っ白になる。
「ひゃぁっ!」
耳の下に濡れた唇の感触。強く吸われる。
(ヤバいっ!!)
この感触はキスマークを付けられた時と同じだ。アレクでさえ、この外交に向けて見えるような目立つ位置へのキスマークは避けていたというのに。
もちろん、服で見えない場所にはこれでもかとばかりに所有印代わりのうっ血痕や噛み痕などが残っているが。
これでは弁解のしようがない。アレクのように治癒魔法で消せないのだ。
(やばいやばいやばいやばい! え、冷やしたりとかしたら少しは薄くなるかな!?)
アレクに逢わないという選択肢は圭の中にはない。昨夜も寝ていて顔を合わせられなかっただけで、アレク自身は部屋に戻って来ているのだ。突然部屋を別にしたいなどと提案すれば、部屋自体は用意してもらえるだろうが、絶対におかしいと思われる。
「ど、ど、ど、同意のない行為は無理矢理ですー!!」
「なら、貴方こそアレクサンダー皇帝に無理を強いられているではありませんか!」
「いや、確かに、そんな時期もあったけど」
「やっぱり!!」
「あわわわわわ……」
クリストフに抱きすくめられる。アレクと言い、クリストフと言い、どうして感極まると力づくで抱き締めてくるのだろうか。口から臓器が全部まろび出てしまいそうだ。
「だ、だずげで……」
「私がお助けします!」
「ぢ、ぢがぅぅ……ぐぇぇっ」
いよいよ三途の川が見えてきそうだ。
走馬灯こそは見えていないが、代わりとばかりにアレクが圭の名を呼ぶ声が聞こえる気がする。願望だろうか。
「ケイ!!」
ひと際近くで聞こえた気がした。同時に、クリストフが圭を抱く力が更に増す。
もう窒息死だか圧死だか分からないが、あの世行きまではカウントダウンが始まっている気がする。
それも、かなり急速に。
「よく、ここが分かりましたね。まだ会議は終わる頃合いではなかったかと思っていましたが」
「物事をさっさと進めることには定評があってな。つまらんジジイ共の顔を見ているより、俺は愛する妻を愛でることの方が大切なんだ。……さっさとケイを離してもらおうか。そうすれば、苦しまずには殺してやる」
「お断りします。貴方のような方にこの人は相応しくない」
「ぐぇぇぇぇ……」
もう、本当に限界だった。死以外の言葉が脳内からかき消される。
しかし、あと少しで本当にこの世からおさらばという時になり、やっと腕の力を抜いてもらえた。ゴホゴホと咳き込む。
アレクの方を見れば、瞳孔が開いている。怒りに我を失っているのが分かる表情に、圭はゴクリと生唾を飲み込んだ。
どちらかの魔法で小舟を止めているのか、水の流れに逆らうように舟はその場から動かなかった。川の真ん中にある舟と岸は少し離れているが、魔法の使えるアレクにとっては大した距離ではないだろう。
「アレクッ!」
舟から立ち上がり、その勢いのままに川の中へと飛び込んだ。
そんなに深いと思っていなかった。水は澄んでいるし、水底も見える。
しかし、それが判断の誤りだった。思った以上に水深は深い。足が着かなかった。
それに加えて、川の流れの激しさ。小舟の速度はゆっくりだったし、そんなに流れの急な川には見えなかったが、こちらも想像以上に速い。きっと、クリストフが周囲を堪能できるようにと舟のスピードを魔法で緩めてくれていたのだろう。
ガボリと水を飲んでしまう。苦しさに藻掻く。流されていく体。顔を水の上に出すことすら容易でない。
「ケイ!!」
近くから聞こえてきた声に向かって腕を伸ばした。既視感がある。数日前にもこんな光景があった。
必死になって伸ばした腕は、力強い手に引き寄せられる。抱き締められる胸の心地良さを圭はよく知っていた。
圭からもその胸へと必死に抱き着く。背に逞しい腕の感触を感じていると、ザバリと水から全身が浮き上がった。
「ゲホッ、ゴホッ」
大量に飲んでしまった水のせいで噎せる。肺が痛かった。水は想像以上に冷たいし、ガクガクと全身が寒さに震える。
岸へと足が着く。水死の恐怖から逃れ、ドッと肩の力が抜ける。
「ケイ、大丈夫か!?」
コクコクと何度も頷いた。咳き込んでいてまともに会話ができない。それに、寒くて仕方がなかった。今度は凍死の危機だろうか。さすがにそこまではいかないだろうが、風邪をひいてしまうという危険性は否めない。
「意外と無茶をされる方なんですね。それ程までに恐怖で支配をされているのでしょうか」
「馬鹿も休み休み言え。俺の所に戻りたかったからに決まっているだろう」
「それが驕りだと言っているのです。貴方みたいな冷血漢に、どうしてケイ様のような純粋な御方が惹かれるとでも言うんでしょうか」
いつの間にか岸に立っていたクリストフの手には、アレクの物とは違う長剣が握られていた。一体どこから持ってきたのだろうか。あのような剣などさっきまでは持っていなかった。
代わりとばかりに、圭たちが乗っていた小舟も消えている。もう何がなんだか分からなくなってきた。
「クリストフ、貴様にはガッカリだ。もう少し賢い奴だと思っていたんだがなぁ」
「貴方のような者に人生を狂わされる人がいると分かっていて、見過ごすことなどできないくらいには賢人のつもりですよ」
クリストフがアレクへと剣を振りかざす。圭を胸に抱いている分、アレクにとっては不利だ。大怪我をするところを見たくなくてギュッと目を閉じる。
しかし、聞こえてきたのは肉を斬るような鈍い音ではなく、剣戟の響き。こちらもいつの間に出したのか、見慣れた長剣を握っている。
圭を守りながらアレクは器用にクリストフの剣を受けていた。だが、防御一辺倒になってしまっている。アレクと違い、自由に動けるクリストフの方が有利だ。こんな劣勢のままではいつか致命傷を負ってしまうかもしれない。
「アレク、離して!」
「離せば、またどこかへ行ってしまうかもしれないだろうが」
ニヒルに笑ってはいるが、あまり余裕がないように見える。アレクの左腕は圭の背に力強く回されている。これを解くのは生半可な力ではいかなそうだ。
意を決する。この状況を何とかしなければという思いでいっぱいだった。
目の前の胸を力いっぱい押した。アレクがよろけた瞬間、僅かに腕の力が弱まる。その隙を見計らってアレクの傍から抜け出した。
しかし、そのタイミングは圭にとって最悪だった。振り上げられたクリストフの剣がちょうど圭の肩へと振り下ろされる。
勢いのついた動作というのはそう簡単には止められない。それは、アレクたち程の力の者らであればなお更に。
重い剣の衝撃が肩へと落ちる。
痛みよりも先に熱さがきた。肉へと埋め込まれる剣先。
「かはっ」
絶対に切れてはいけない物が切れるような感覚がした。
(やばい…………これ、は……ほんとに、絶ぇっ対、やばいやつ…………)
口から血が出る。
まさか、凍死の恐れの次は斬殺の危機など、誰が思うだろうか。
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