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【第2部 ヘルボルナ大陸】 第6章 旅の終わり編 第1話

 誰かに呼ばれているような気がする。よく聞き慣れた声にも思えるし、しばらく聞いていなかったようにも感じる。でも、身近で大切な人だ。 「ん……」  目元が眩しい。まだ体が睡眠を欲している。もう少し寝ていたくて目元を腕で覆い隠した。 「……ま、……さま!」  今度は耳元で聞こえる気がする。うるさくて敵わない。眉間に皺を寄せ、布団を頭の先まで覆い隠すようにすっぽり入り込んだ。眩しさからも解放され、薄暗い布団の中でぬくぬくと意識の岸辺で揺蕩っていた。 「ケイ様! いい加減起きてください!!」 「んぅ~……わっ!」  掛け布団を引っぺがされる。それまで包まれていた温もりを奪われ、大仰に顔を顰めながら体を丸めて腕を擦った。  しかし、声の主に気付いてカッと目を見開く。 「ユル!?」  ガバリと上半身を起こせば、呆れた顔をしながらそれまで圭が包まれていた掛け布団を手にしているユルゲンの姿。 「ユル~~~~~!!!!!!」  久しぶりに顔を合わせるユルゲンに感極まり、抱きつこうと勢い良くベッドからジャンプするも、サッと横に避けられる。そして無様に床へとダイブする羽目となった。寝室の床は消音のためか毛足の長い絨毯で覆われているため、怪我をする程ではなかったが、地味に痛い。 「いって~~~~~……。何で避けんだよぉ」 「ケイ様に抱きつかれているところを誰かに見られでもしたら、私の首が飛びます」 「じゃあ、ユルのせいで俺が怪我しても良いのかよ」 「この程度で怪我なんてしないでしょう」  タシタシと足先で絨毯を踏むユルゲンに次の言葉が出なかった。床にダイブした格好のままジト目でユルゲンを見上げる。呆れ顔を崩さないまま、ユルゲンが諦めたように圭を床から起き上がらせた。 「ユル、久しぶりぃ!!」  再会の喜びのままにユルゲンへと抱き着いた。アレクとはまた違う香りと体格。今日まで護衛や世話係はいたが、やっぱり慣れた相手と違って少しばかり気を遣う。  それに比べて、ユルゲンならばシルヴァリアでは勝手知ったる相手であり、遠慮をすることもない。 「お願いですから、このことは陛下にはご内密にしてくださいね」 「分かってるって! 俺も命は惜しいもん!」  ポンポンと軽く数回あやすように背を叩かれた後、体を離された。相変わらず呆れた顔をしているものの、その眼鏡の奥にあるターコイズブルーの瞳は安堵や優しさを湛えている。久しぶりに見るユルゲンのそんな表情にも嬉しくなり、ベッドに腰を掛けながら笑んでしまう。 「さぁ、それではいい加減支度をしますよ! ほら、立って」  ユルゲンに手を引かれながら寝室を出れば、既に昼食が用意されていた。椅子へと座らせられ、早く食べるよう急かされる。圭を座らせると、ユルゲンは忙しそうにしているため、何をそんなに急がされているのか分からずじまいだった。  一人ポツンと食事をさせられた後、着替えや化粧を施される。されるがままに大人しくしていると、そろそろ見慣れ始めた美女の姿へと変身していた。 「さっ、それでは行きますよ」  本などを持ったユルゲンに促され、廊下へと出る。これから何をさせられるのか分からず、圭の前を歩くユルゲンの服の裾を掴んでチョイチョイと引いた。 「ねぇ、どこ行くの?」 「………………ケイ様、私がいない間、陛下に一体何をされたんですか?」 「えっ……」  ジト目で見下ろされて体が強張った。  一体、どのことを指しているのだろうか。心当たりなどありすぎて何を示しているのか分からない。 「良いですか? とにかく大人しくしていてくださいね」 「わ、分かった……」  コクコクと頷き、また前を向いてしまったユルゲンの後を大人しくついて行く。  ユルゲンはそれ以降黙ったまま圭を連れて歩いて行き、しばらくすると大きな扉の前へと辿り着いた。ユルゲンの顔を見ると、扉の傍に立っていた衛兵たちが重厚な扉を開いてくれた。 「わぁ……!」  中は広い会議場となっていた。中央には円形になった机があり、議論が行われている。  その円にはアレクの姿もあった。知った顔を見つけてホッとする。  中央の円の外側には、大勢の文官らしき人たちがいて、卓上の資料を見ながら議論を聞いている。話の内容からするに、報告されているテーマは世界の食料事情のようだ。  ユルゲンはスタスタと歩いて行き、アレクの背後の机へとやって来ると椅子を2脚引いた。 「さあ、ケイ様はこちらに」 「うん」  大人しく椅子に座ると、ケイの前にユルゲンが抱えていた本や文房具などを置かれる。 「え、ちょっと待って? これって」 「勉強道具ですが?」  当然のように言われて首を傾げた。  今、圭たちの目の前では天候不順によって一部の地域で問題となっている食料危機の問題が話し合われている。そんな会議の場において、圭の前には見慣れた文字の書き取りドリル。さっぱり事情が分からず、隣に座ったユルゲンの耳元へと小声で耳打ちした。 「何で俺、ここで勉強させられるの?」 「陛下のご指示です」 「アレクの?」  なおさら意味が分からない。傾げた首を更に深く横に倒す。 「何で?」 「知りませんよ。ケイ様がお目覚めになられたら、陛下がそうしろとだけおっしゃっていましたので、その通りにしただけです。むしろ、私たちの方が知りたいですよ」  キョロキョロと周囲を見渡す。どうやら、圭たちの前の席は各国の主要人物らが座っているようだ。アレクの他にもミシェル国王の姿もある。その他にも婚姻の儀の時に祝辞を述べに来てくれた人たちの姿も見えた。  中央の円の外側にいるのは、各国の文官たちであろう。服装の系統が似通っている。彼らの前には分厚い資料の山が置かれ、皆が真剣な顔でそれらと睨めっこしていた。 「ここ、俺いるのおかしくない?」 「ごもっともです」 「……え? やっぱ、何で??」 「だから、陛下のご指示だと先程から申し上げているでしょう。私だって耳を疑いましたよ。でも、そうしろとだけおっしゃるのですから、仕方がないでしょう」 「ええぇ~~~~~…………」  ユルゲンも溜め息混じりの呆れ顔だ。  圭の前に置かれたドリルを見ながら顔を顰めた。まだまだ書き取りでは危うい部分もあるため、勉強をしなくてはならないことは分かっている。  しかし、こんな所に来てまでしなくても良いだろう。 「待って? だって、他の人たち、多分文官の人たちだよね?」 「ええ、そうですよ。この席は各国の文官たちが発言などへの助言をするための席ですから」  確かに、何か調べものをしては中央の席の人へと耳打ちしている姿が見られる。どの国も大勢の文官たちがいるが、シルヴァリアに関しては記録係のような文官が2人いるばかりでアレクへと近づく者はいない。 「?? いやいやいやいや、ちょっと意味分かんない。俺、みんなが話してることさっぱり分かんないし、アレクのことなんて助けらんないよ?」 「陛下に助言なんて必要だと思いますか?」 「全然思わない」  きっぱりと即答する。アレクはシルヴァリアでも大抵のことは記憶しているし、誰かから何か助言を貰うなんてことはほとんどない。確かにそんな役回りの者は余程のことがなければ必要ないだろう。 「それに、仮にそのような役回りが必要であったとしても、少なくともケイ様にはお願いなんてしません。シルヴァリアは人材も豊富ですし」 「そんなの分かってるって」  当然のように言われて少し拗ねる。しかし、やっぱりここに連れて来られた意味が分からない。  唇を尖らせて不満を顔に出していると、大きな溜め息を一つ吐いたユルゲンが圭の手へと筆記具を握らせた。 「……ケイ様はお一人で部屋の中にいさせると大人しくできないし、ロクなことにならないから。……だそうですよ?」 「うっ……」  何とも耳の痛い言葉である。グゥの音も出ない。しょげ返りながらドリルへと向かった。  圭たちの前では白熱した議論が繰り広げられている。そんな中で一人、子供用のドリルをさせられるというのはなかなかに肩身が狭い。  しばらく大人しく書き取りを続けていると、アレクの声が聞こえてきた。広い議場にアレクの低音ボイスはよく響く。  あまりアレクの仕事風景を見ることがないため、その背中は圭の目に新鮮に映った。ハッキリと力強く発言するアレクの姿はカッコいい。自分の伴侶ながら、惚れ惚れしてしまう。  アレクの背を見ながら圭ははにかんでいた。こんな場所にまで来ていつものようにドリルをさせられているのは大いに不満だが、いつも見られないアレクを眺められるのは嬉しい。ニコニコしながらアレクを見つめていると、隣に座るユルゲンからコンコンと机を指先で叩かれる。ハッとして見惚れてしまっていたことに気づき、愛想笑いを浮かべて再びドリルへと向き直った。  そんなことを何度か繰り返した後、会議は休憩時間を迎えた。 「ケイ!」  休憩を告げる議長の声が響いた次の瞬間、アレクが喜々とした表情で立ち上がり、圭の前へと歩いてきた。 「体は大丈夫か?」 「う、うん」  昨夜のことを思い出し、赤面する。久しぶりに激しいプレイに興じたが、立てなくなるほど腰が痛くないのは、きっとアレクが圭の体に気を遣って昨夜の内に治してくれていたのだろう。そうでもなければ今頃、まだベッドの上でもんどりうっていたはずだ。  圭の頬を撫でながら満面の笑みを浮かべるアレクの手の心地良さに、圭も顔を綻ばせる。大きなアレクの掌に顔を乗せ、うっとりと目を細めた。温かい掌の感触。知らない人ばかりで少し緊張していた圭を安堵させるのにこれ以上のものはなかった。  休憩時間に入って、周囲はざわざわと歓談の声が聞こえてくる。アレクたちのいた中央の席付近では、様々な国の人たちが雑談に興じていた。  ふと、アレクの後ろで話しかけたそうに立っている人たちの姿を見つける。 「あの人たち、アレクに何か用があるんじゃないかな?」  アレクの掌から顔を離す。目が合い、会釈をする姿を見て、その考えは正しそうだと確信する。  しかし、アレクは背後を一瞥すると、つまらなさそうに一つ溜め息を吐いた後、圭へと向き直った。 「必要ない。俺には何もない」 「アレクはそうかもしれないけど、あの人たちは違うんじゃない?」 「ただの機嫌取りだろ。それなりにあることだ。まあ、なかなか俺に会える機会というのも多くないからな」 「えっ、それなら、なおさら話さなきゃじゃん」 「俺はケイと話している方が良い」 「ダメだよ! ちゃんとそういうのしなきゃ」  立ち上がり、アレクの背後にいる男性たちの元へと歩いて行く。アレクは不機嫌面を隠しもしないものの、文句は言わずに圭の後をついて行った。 「すみません、アレクに御用の方々ですよね」 「ええ、少しでもこの機会にお話が出来ればと」 「ほらぁ、やぁっぱそうじゃーん。ダメだよ、そういう態度は」  圭の横に来たアレクを肘で小突く。アレクは面倒くさそうにしながらも男性らと言葉を交わす。話の内容としては、どうやら以前、シルヴァリアが経済援助をした国々らしい。感謝の言葉を述べながら礼をする男性たちに、アレクは鷹揚に頷くばかりであった。  そんなことをしている間に会議再開の声が響く。アレクは少し不満そうに圭を一瞥した後、ポンポンと圭の頭を撫でて元の席へと向かった。 「ありがとうございました。本当に陛下はケイ様の言うことだけは聞きますね」 「普段からアレクってそんなに言うこと聞かないの?」 「聞くタイプに見えますか?」 「あはは……」  曖昧に笑ってごまかした。  少しでも他の誰かの役に立てたのならば嬉しい。ここに来た意味が生まれたような気がするし、自分がここにいても良いと肯定されているように思える。 「でも、ここの綴りは誤って覚えていますよ。勉学の方はまだまだ精進が必要ですね」 「あ、あれ? 本当だ。あはは、頑張る」  正しい綴りを書き記しながら誤魔化し笑いをしていると、ユルゲンが呆れ顔ながらも優しく笑ってくれる。  こんな些細なやり取りも好きだ。シルヴァリアの人たちとの関係性は圭にとって心地が良い。  やっぱり自分のいる場所というのはこの人たちの傍だと再認識する。  生まれ育った世界の全てを捨てても、この世界でなら悔いがないと思える。  眼前の広い背中を見ながらはにかんだ。

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