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第96話

「あゆ……眠いの?」  ダイニングテーブルからソファーに移動して、深々と凭れかかっていた。  起きていたような寝ていたような。  間近に蒼矢の声が聞こえて浮上する。  目の前にある蒼矢は水も滴るいい男。  Tシャツにハーフパンツというラフな姿だ。髪を拭いていたのか頭にタオルを載せている。拭ききれていない雫が頰を伝っていた。 (色っぽい……)  まだほんやりとした意識でもそれだけは感じられた。  風呂上がりの蒼矢なんて初めてだ。  いつもは少し固めているが洗い髪で前髪も全部下りていて、少しだけ幼く見える。 (あ……大学生の頃の蒼兄ちゃんだ……)  もう『蒼矢さん』と呼ぶのが僕の中では普通になってしまったので、子どもの頃のように『蒼兄ちゃん』と呼ぶのは違和感があった。  でもこんな姿を見たら、ちょっと昔に戻ってしまう。 「あゆ〜? あゆ、あゆ?」  目の前に大きな手がゆらゆら動いているのが見えた。 「あ、蒼矢さん!」  やっと完全に覚醒。 「眠いならこのまま寝る? 寝室まで運んで行こうか?」 (寝室……)  そのワードに妙にどきまぎして落ち着かない気持ちになる。 「大丈夫! 目は覚めました! 浴室お借りしますねっ」  ガッと立ち上がる。 「無理しなくてもいいんだよ」 「無理してないですっ。まだケーキも食べてないしっ」  一本踏み出した途端足元のラグに引っかかって転びそうになる。 「うわっ」 「おっと」  背中に手が回わされ支えてくれたのは助かったけど、やけに密着してしまう。 (うわっうわっ)  一人わたわたして叫びそうになるのをどうにか堪えた。 「危ないなぁ、まだ酔ってる? 一緒に入ろうか?」 「えっ」  くすっと笑って軽い口調で言っていたけれど。驚いて見返したその瞳の中に、感じたことのない熱を垣間見たような気がした。 (いやいやいや)  今感じたことは気のせいにすることにした。 「大丈夫ですっ!」  思わず蒼矢の胸を押し返してしまった。ボスッとソファーに尻をついた彼を見ることができず、心の中で「ごめんなさーい」と叫びながら走り去った。  くすくすくす。  後ろから蒼矢の笑う声が聞こえてきた。  頭からじゃかじゃかシャワーの湯を浴びる。  気分的には水でも被りたいけど、それをするほど暑い季節でもない。下手したら風邪をひく。 『俺はあゆに惹かれている。触れたいと思うくらいには』  痛いくらいに水滴に叩かれながら、以前蒼矢の言ったことを思い出す。 『触れたいと思うくらいには』  その部分だけが何度も何度も頭の中で木霊する。 (さっきの蒼矢さんの顔……ちょっとエロかったような……いやいやいや、きっと気のせいだ)  僕は兄みたいに綺麗なんかじゃない。ごく普通の容姿だ。蒼矢にしてみればまだまだ子どもだ。  蒼矢みたいな大人に、触れたいだなんて本気で思って貰えるほど自分に魅力があるとは思えなかった。

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