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第98話

「いいんだよ俺は。もう乾いたし」  そう言いながら前髪を掻き上げる仕草に、大人の男の色香を感じさせる。  心臓が煩くなるのを誤魔化すように、 「そうやって前髪下ろしていると、昔の蒼矢さんみたいですね、『蒼兄ちゃん』」  茶化して言った。 「『蒼兄ちゃん』か……」  懐かしそうに目を細めたのに。 「いや、もうそう呼ぶのはやめて欲しいかな」  そう言われてあれ? っと思った。  「え? なんで? 前に蒼兄ちゃんって呼んでほしそうにしてなかった?」 「あの時はそう思ったけど今は違う」 「んん?」 (いったいどう違うんだろ)  顎に手をかけられくいっと上げられる。蒼矢と視線がかち合った。 「弟に手を出すわけにはいかないだろ」 「……っ」  ぎゅっと心臓を掴まれたような気がして言葉に詰まる。 (手……出すつもりでいるんだ……)  一瞬そんな雰囲気になったけれど、パッと手は離されてしまった。 「髪も乾いたことだし、ケーキ持って二階に行くか」  さっきは確かにその瞳に『色』がちらついていたのに、今はもう僕の勘違いだったかのように消え失せている。 (もうっちょいちょいそういうとこ見せて僕を惑わすのやめてほしいっ。揶揄われてるのかな)  僕のトレイにはケーキ。蒼矢のトレイにはコーヒーと紅茶、それから食べきれなかったオードブル。それぞれ持って階段を上がって行く。  さっきは少し落ち込んだけど、少し浮上した。  今まで何度か蒼矢の自宅に来たことがあるけれど、まだ二階には上がったことはなかった。いつもリビングで過ごしていて、時間的にもそれほど長時間ではなかった。  一晩蒼矢と一緒に過ごす実感がふつふつと湧いてくる。  通された部屋はどうやら普段蒼矢が使っている部屋のようだった。中央のラグの上に脚のないソファーとローテーブル。壁際にぎっしり本の詰まった本棚と、机。そこでいつも作業をしているのだろうか。  外はもう真っ暗だが、掃き出し窓の向こうにはバルコニーがあったはずだ。  蒼矢が先に立ってローテーブルの上に手に持っていたものを並べ、僕のトレイも受け取ってくれた。ケーキはあらかじめカットしてきてくれていた。それを二つの皿に置くと、残りはこの部屋にある小さめの冷蔵庫に入れた。 (なんていうか……優雅な一人暮らし?)  そう感じると共に本当に今まで恋人もいなかったのだと思わせる。  少し嬉しかった。 (蒼矢さんには申し訳ないけど)  ここ桜の森は新興住宅地で建売住宅もけっこうお高め設定だと聞いたことがある。それを注文住宅で一人暮らしは贅沢過ぎる。 (ここに決めたのは、僕を見守る為だと言っていた……)  勿論それがすべてではないにしても、その理由の一旦が自分にあったことに嬉しく感じないはずはない。  

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