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第2話
職場の最寄り駅に着き、人波に身を任せながら会社に流れ着くとほっと安堵の溜息がこぼれた。密室から解放されたことが重たくなった気が少しだけ軽くなる。
潤の勤めている会社は全国に何十店舗とあるホテルだ。価格は安く、ファミリーからビジネスマン、旅行客と幅広く使ってもらえている。
店舗によってはレストランや美容サロン、温泉施設、結婚式場や水族館など多種多様に設備されているので宿泊客以外も多い。
そのお陰で売り上げは右肩上がりを更新され上層部はウハウハだが、歯車の一部である潤は仕事に忙殺される日々でストレスが溜まる。
しかもストレスの解消法は食べるでしか発散されないのだ。
仕事帰りにコンビニスイーツを買うのは日課だし、ご飯は三杯食べないと気が済まない。
実家暮らしで栄養士の資格を持つ母親の手料理は美味しく、いくらでも食べられてしまうから質が悪い。
だが年のせいか凝ったものを作るのが面倒になったらしく、ここ数年、毎日のように揚げ物が食卓に並ぶ。
そんなものを毎日食べていたら太るのは必然。入社してから七年目となったいまでは腹はぷっくりと出て手足は丸太のように太い。
入社時に買い揃えたオーダーメイドスーツは一年でサイズアウトし、毎年のようにスーツを新調するので安いものを揃えるようになり、オシャレや流行りなどとは縁遠い量産型サラリーマンができあがった。
従業員用の裏口からホテルに入り、すぐさまトイレへと駆け込む。誰もいないことを確認してから個室の扉を閉め、重たいビジネスバッグを肩から下ろした。
すでに汗を吸って濡れているシャツを脱ぎ、制汗スプレーをこれでもかと身体中に振りかける。そして汗拭きシートで丁寧に首や襟足、耳の裏、脇など匂いの元のなる箇所を拭き取る。
新しいシャツを取り出し、濡れて汚れたシャツを袋に入れてから鞄に放り込む。袋に入れておかないと蒸発した汗が匂いを放つから厳重にしておく。
匂いや汗で同僚たちに不快感を与えないための潤の日課だ。
着替えをする度、自尊心が削られていく。こんな面倒なルーティンはやめたいのに、デブで汗っかきな潤には匂いや汗で周りに迷惑をかけないためには例え自尊心がゴリゴリに削られようとも祈りを捧げる前に身を清める祈祷師のように必要なのだ。
着替えをすませ、経理部へ向かうとすでに部下である岡明日香が出勤しており潤に気づくとぱっと笑顔を向けた。
「おはようございます」
「おはよう。相変わらず早いね」
「仕事好きなので」
高すぎず低すぎない岡の声はハープのように心を潤してくれる。汗だらだらで満員電車でもみくちゃにされ、自己嫌悪に陥っても、岡の笑顔とやさしい声があればすべて吹っ飛んでしまう。
「おはようございます」
「おはよう、郡司くん」
扉の前に仏頂面の郡司康介(ぐんしこうすけ)が立っていた。初夏の日差しをもろともせずスーツのジャケットを羽織り、ネクタイも上まで結ばれているのに汗一つかいていない。
鼻筋がまっすぐ通り、唇は桜色で薄く男らしさがある。短い前髪から覗く鋭い眼光にはいまだ慣れない。
挨拶を済ませると郡司はそのまま壁側のデスクに座り、パソコンを起動させてファイルから書類を出した。一切の無駄がない。
郡司は国立大を卒業したばかりの岡と同期だ。
郡司は見た目の良さからフロントを任されたが、客からアプローチされまくり業務が回らなくなり、一週間も経たずにレストランに異動。そこでは郡司ばかり呼びつける客が殺到し三日で異動、結婚式場では新婦が一目惚れをして破談直前まで話がもつれてしまい異動。そこから裏方の事務では女性社員同士が殴り合いをするほど痴情のもつれが続き、経理部にお鉢が回ってきた。
その噂は異動前から部内では広まってり、どんなチャラ男が来るのだと気を張っていたが、蓋を開けてみたら仕事は真面目にこなすし覚えも早い優秀な社員だった。
だがやはり郡司の容姿は整っており、ハートを射貫かれた女性社員全員は協定を結び、告白など抜け駆けはしないよう冷戦しているらしい。
でもそのお陰で今日まで平和に過ごせている。
デブの自分には縁遠い話だ。
「郡司くん、ここ教えて欲しいんだけど」
岡は緩くカールした毛先を揺らしながら郡司のデスクへ向かう。明らかに自分とは違う甘えた声に扱いの差を感じるが、それだけ岡も郡司に熱をあげているということだろう。
郡司の隣である潤の席に躊躇わず座った岡は書類を広げた。
わからないことがあれば上司である自分に訊いて欲しいし、同期といえども岡の方が経理にいる期間は長い。経理としては後輩である郡司に教えを乞うことなんてあるだろうか、と野暮な真似はしない。
女性社員で協定を結んでいるとはいえ、岡は密かに抜け駆けを企んでいるのだろう。事あるごとに郡司に話しかけてたり、ご飯を誘っているのを目撃するので恋愛ごとに疎い潤でもわかる。
(始業まで時間はあるし、休憩室に行って時間を潰してるか)
足の向きをくるりと変えるとちょうど経理部に入ってこようとした人物にぶつかった。ぽよんとした脂肪で受け止めると歓喜の声があがる。
「おはよ! 俺のぷよぷよちゃん」
「痛い、莫迦!」
萩原拓海(はぎわらたくみ)はぶつかった拍子に潤の腹を摘み、頬ずりをし始めた。ノーフレームの眼鏡がずり上がっているのもお構いなく、悦に入っている表情ははっきり言って気持ちが悪い。
萩原は潤と同期でフロントに所属している。昼夜関係なく不規則なシフトだが時間が合えばこうして会いに来てくれる情に厚い同期に見えなくもないが、本当は潤のぼよぼよの腹を愛でに来ている変人だ。
「おまえまた太ったんじゃない?」
「そんなことない……はず」
「ま、来週健康診断の結果が返ってくるからわかるな」
「うぅー怖いな」
「もっと太ってくれてもいいけどな」
「さすがにこれ以上はマズいよ」
萩原はふくよかな人が好きと公言しているわりに、自分はジムで鍛えたり運動をしてスレンダーな体型を維持している。
フロントは出会いが多く、少しでも見栄えよくして好みのふくよかな人と付き合いたいというなんとも萩原らしい動機からだ。
心のどこかでは痩せなきゃと思いながらも行動に移せないでいる。やはり罵声の一つでも言われないとやる気がでないのだろうなと性根の腐った考えが顔を出す。
結局は自分を甘やかしてきた結果なのだ。
萩原と話していると背中に強い視線を感じた。振り返ると郡司が射抜くように鋭い眼光を潤に向けていて、冷や汗が流れる。
もしかしてうるさかっただろうか。
始業前とはいえ岡と仕事の話をしていた郡司たちの邪魔をしてしまったのかもしれない。
萩原の背中を押して廊下へ追い出すと不思議そうな顔を返された。
「どうした?」
「郡司くんたち仕事の話してるから」
「あーマドンナとね」
「マドンナって」
岡はほっそりとしたモデル体型なので萩原の好みではないらしい。途端に顔が曇るのでわかりやすい。
「そういえば郡司はどう? 経理部馴染めてる?」
「うん。いまのところ順調だよ」
「さすが協定結んだかいがあったな」
他部署にまで協定の話を知られているのか。それだけ郡司の人気があるということだろう。
「でもマドンナは抜け駆けしようとしてるな」
「やっぱりそう思う?」
「誰が見てもそうだろ」
「だよね」
万年人手不足の経理部に来てくれてた大型新人だが、色恋沙汰でまた異動されたら困る。ただでさえ経理部は現場の人間から嫌われているので、やりたい人が少ないのが現状だ。
「いまんとこ問題ないならいいけど、なにかあったら上に報告しろよ」
「心配してくれてありがとう」
変人ではあるがやさしい一面もある萩原に感謝しつつ、潤は郡司が転属してきた日を思い出した。
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