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第5話
ルーチンワークと化している着替えを済ませ、潤は経理部に一歩足を踏み入れただけで異様な空気感を察した。不穏な空気は部屋全体に広まり、朝の清々しさを黒く染めている。
同僚たちの助けを求める視線を受け、潤は部内を見渡すと線を引かれたように壁側のデスク周りだけ人はおらず、その中心に郡司と岡がいた。
明らかに二人の様子が違う。
遠目で見ても岡の肩が小刻みに震えている。そして郡司は険しい表情で岡を見下ろしたまま固まっていた。
これが俗に言う修羅場なのか。
痴話のもつれかはたまた仕事のことでが理由はわからないが、二人が揉めているのは明白だ。
どちらにせよ考えるのも面倒くさい。仕事以外のことで火種を起こすな。このままグミでも摘みながら仕事をして、帰ったら母親の作る料理を食べて寝たい。
だが立場上、無視できない。
岡と郡司の直属の上司であり、チームのリーダーである潤にとって円滑に仕事をするためにはこの空気を打破する責任がある。
年齢イコール恋人いない歴の潤にとって恋愛ごとのいざこざをどうにかできるとは思えないがやるしかない。
潤が声をかけるより先に岡が動いた。デスクに身体をぶつけながら部を飛び出してしまい、あとから女性社員が追いかけていく。
潤の横を通ったとき、その頬に一筋の涙が伝っていた。
郡司は岡の後を追おうともせず、何事もなかったようにデスクに座る。パソコンを起動し、ファイルから書類を出していつも通り仕事をするらしい。
逆に自然すぎて不自然に映る。潤は隣に座り小声で訊ねた。
「岡さんとなにかあった?」
「……別になにもないです」
「でも泣いてたよ。女の子が泣くのってよっぽどのことじゃない? あ、別に郡司くんを責めてるわけじゃないけど」
最後は言い訳っぽくなってしまったが、郡司が悪いことをしたとは思っていない。
郡司は白黒はっきりと言う性格で敵をつくりやすいが、言っていることは正しいのだ。
大方、裏表のないキツイ言い方をした郡司に傷つけられて岡が泣いたのだろう。
「もうすぐ始業だし、昼休みにちょっと話せる?」
「昼はちょっと」
「なにか用事? じゃあ仕事終わったあとでもいいから」
「どうしてそこまでするんですか?」
それは業務に差し障るからです、とは答えるわけにはいかない。ただ純真無垢な黒い瞳は興味深そうにくるりと輝いていて、罪悪感が芽生えた。ただの親切心でないことの後ろめたさを隠すように潤は矢継ぎ早に口を開く。
「じゃあ明日は金曜だし、仕事終わったら飲みに行こうよ」
「明日はちょっと」
「もう決定! 明日絶対だよ」
「……わかりました」
ちょっと強引すぎる気もするがこれくらいじゃないと郡司は頷いてくれないだろう。だてに二ヶ月毎日隣に座っているわけじゃないのだ。
「おっはよ! あれあれ、変な空気?」
まるでタイミングを見計らっていたように萩原が現れ、場の空気が少しだけ和んだ。なにが起こっていたのかわかっていない萩原は近くにいた社員に声をかけていたが、はぐらかされていた。
潤は立ち上がっ萩原の元へ向かう。
「なにかあったの?」
「なんでもない。それよりどうしたの?」
「そうそう、これ! 待ちに待ったものが届いたぜ」
「待ちに待った?」
萩原の手に握られていたのはすでに封が切られていたA4サイズの白い封筒だ。業務での連絡事項だろうかと首を傾げていると萩原はじゃーんと効果音をつけた。
「健康診断の結果! おまえの分も貰っといてやった。ついでに中身も見ておいた」
「プライバシー侵害だ!」
萩原から封筒をひったくり胸に抱えた。しわくちゃになったそれに確かに潤の名前が書いてあった。
恐る恐るなかの紙を出して広げる。身長、体重、体脂肪の他に内診や血液検査の結果や聴覚、視力などの細かく数値化されている。このぶよぶよの身体を数字に表されると途端に危機感が芽生えてくる。
そして総合結果の欄を確認し血の気が引いた。
「C!?」
「BMI値が高くて食生活を見直せって。それに血圧も少し高いな。確かに毎日あの食事だったらそうなるわな」
萩原の声が遠くに響く。
このままでは糖尿病や高血圧になりかねないので食生活の見直しと運動をするようにしてくださいとご丁寧にコメントが書いてあった。
年々太ってきていていたが、いままで健康診断で引っかかったことはなかった。
これはまずい。
通院や入院ということになったら家族に迷惑かけてしまう。そして食べることを制限されたストレスで髪が少なくなってしまうのではないか。
チビ、デブ、ハゲ、持病持ちの四拍子など世間の目はいままでの比にならないくらい厳しいものになるだろう。
さすがに本格的に行動を起こさなければならない。
「おれ、ダイエットするよ」
「いい心がけだ。長生きしたければいまからやっといた方がいい」
「だよね。健康に生きて畳の上で天寿を全うしたい」
それにハゲたくないし、と心のなかで付け加える。
決意したのはいいが、なにからすればいいのだろう。
ダイエットとは真逆の位置にいたため知識がない。健康診断表には食事制限や運動と書いてあったが、詳しいやり方までは記されていない。
とりあえずご飯を食べないでおけば平気だろう。でも明日は郡司と食事に行く約束をしてしまったから、あとで訂正しないといけないな。
「よし、頑張るぞ」
「その意気だ! いまのうちにおまえの腹を摘んでおこう」
「ひゃっ、くすぐったいな」
いつものように萩原に腹を摘まれ、さらにやる気がでる。
さっそく今日の昼食から実行に移した。
いつもは経理部の男性陣とこぞって社食を食べるが、自販機でコーヒーを買って休憩室でダラダラ過ごす。
急に食べないと言って周りは驚いていたが、健康診断の結果を言うと励まされた。
コーヒーをちびちびと啜り、休憩室のソファに横になる。幸いなことに一人なので自由気ままに使えるが、誰とも話せないので気分転換もできず食べもののことばかり考えてしまう。
そうすると空腹を訴えるようにグーグーとお腹が鳴り、慰めるように腹をさする。
「お腹減ったな」
ラザニアやミートボール、パスタ、唐揚げ、ラーメンと好物を思い浮かべる。妄想で味を再現しごくんと唾を飲み込んだが、もちろん味はしない。嗅ぎ慣れた匂いを想像しては空気をめいいっぱい吸ってなんとか耐えた。
「なにしてるんですか?」
目を開けると困惑気味の郡司が立っていた。その手にはお弁当袋をぶら下げている。
「ちょっと昼抜こうかと思って」
「具合い悪いんですか?」
「まぁ、そんなところかな」
健康診断の結果が悪いからダイエットしている、と言うのがなんだか恥ずかしかった。他の社員なら平気だったのに郡司に知られるのがなんとなく後ろめたい。
容姿端麗で仕事もできる郡司に勝っているところなんて役職くらいだろう。そんな太陽のように光輝く後輩を前に情けない自分を晒すのは潤の小さなプライドを鋭く傷つける。
だが腹時計が正確の潤の体内はぐぅと鳴き、慌てて腹を押さえたがもう遅い。
郡司は目をぱちくりさせた。
「腹空いてるなら食堂に行った方が」
「いい! 別に大丈夫だから」
首を振って否定したが違うと言えば言うほどお腹が空いてくる。胃をきゅうと絞られるように訴えかけていた。
(でも食べ始めたら最後だ)
いつものように腹がはちきれるほど食べてしまう。そしてどんどん体重は増加して、不健康ルートまっしぐらだ。
「ちょっとトイレ行くね」
郡司に問いかけられる前に逃げるように休憩室を飛び出し、昼休憩が終わるまでトイレの個室で過ごした。
午後の業務もなんとかこなし、のろのろと帰宅してベッドに横になるとスプリングが重たいと悲鳴をあげる。
「お腹減った……」
あまりの空腹にひもじすぎて泣きたくなった。こんなに食べないで過ごした日は生まれてから一度もない。どんなに高熱を出してもインフルエンザに罹っても食欲が衰えることはなかった。
キッチンからいい香りが漂ってくるのが地獄の業火に焼かれているように辛い。
きっと両親と葵は普段と変わらない食事をしているだろう。熱々のフライドポテト、トロトロの麻婆豆腐、甘くて香ばしいプリン。匂いだけで夕食がわかってしまう自分の能力を呪った。
起きているから気にしてしまうんだ。
布団に潜って目を瞑ってみたが、一向に眠気はやってこず、潤が眠りについたのは空がしらみ始めた頃だった。
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