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第7話
物音で意識が浮上し、瞼を開けると見知らぬ白い天井があった。これがよく漫画や映画であるシーンかとどこか冷静の自分がいる。
白いカーテンに囲われてはいるが消毒液や薬品の匂いがするから病院だろうか。カーテンの外には人の気配があった。
左腕には点滴針が刺さっていて、ベッド横の輸液ボトルから規則的に液体が下へと落ちていく。それを眺め、これは大事になったぞと頭がクリアになる。
寝不足の身体を引きずって会社へ行き郡司の前で倒れた。意識は時々浮上しては沈みを繰り返し、郡司の慌てた声や同僚たちの悲鳴、救急車のサイレン、ストレッチャーに乗せられる感覚などが呼び起こされ、多大なる迷惑をかけてしまったことを思い出す。
本日付けの納期はなかったかと仕事も気になる。大事な会議が二本ほどあったがそれはどうなったのだろうか。
「安静中ですので外でお待ちください」
「せめて顔だけでもみたいんです」
「まだ患者さんは眠ってますから」
看護師と思われる女性と郡司の声。普段は抑揚のない低い声なのに、いまは少し苛立っているように荒く、こんなに感情を露わにしていることに驚いた。
(仕事でなにかトラブルがあったのかもしれない)
潤は起き上がり、点滴スタンドにもたれながらカーテンを開けた。
「なにかトラブルでもあった!?」
押し問答をしていた二人の目が潤に向けられたまま固まってしまった。そして次第に郡司の額に青筋が浮かび般若のような形相になる。
「あなたは莫迦ですか!」
耳がきんとする大声に身体が竦む。眉間の皺がこれ以上ないほど寄り、郡司の顔がどんどん険しくなる。
看護師が必死に止めようと間に入ってくれたが、郡司はお構いなしに潤の方へ歩みを進めた。
「熱中症に貧血、おまけに脱水症状までなってる病人が仕事の心配より、他に気にすることがあるだろ!」
至極真っ当な正論に言い返す余地はない。郡司はぶつくさと文句を言いながらもベッド脇のパイプ椅子に腰かけると看護師は諦めて外へ行った。
項垂れる郡司の頭に形のいいつむじがよく見える。
「だ……大丈夫?」
「大丈夫なわけないでしょ!」
肩で呼吸している郡司が額にびっしりと汗をかいている。こんなに乱す姿は初めて見た。
「ふふっ」
「なにが可笑しいんですか?」
「郡司くんがそんな取り乱してるの初めて見たからさ」
「佐久間さんのせいですよ」
「迷惑かけてごめんね」
背もたれに頭を預け、長い足をだらっと伸ばした郡司に驚きつつも、それだけ潤のことを気にかけてくれたのかと嬉しさが勝る。
「目の前でいきなり倒れたから脳卒中にでもなったのかと」
確かにそうだよなと郡司に同情した。ここまで迷惑を心配をかけてしまったからには白状するしかない。
「……実はダイエットのために食事を抜いてて」
「はあ?」
郡司の表情がこいつなに言ってるんだ、と莫迦にするような表情に変わり事実だけに決まりが悪い。自分でもダイエット=食事を抜くというのは浅はかな考えだったと思うが、それ以外の方法を知らなかっというのもある。
郡司は姿勢を正した。
「ダイエットは食事をしなければいいといいうわけではありません。適度な運動、適切な食事、そしてなにより睡眠が大事なんです。この三つがそろってこそダイエットということになります」
珍しく饒舌に語る郡司に呆気に取られた。一息でこんなに話す姿は初めてかもしれない。
「随分詳しいんだね」
「まぁ人並み程度ですけど」
どこか深く追求してなさそうな空気を感じ、それ以上触れずにおいた。
「ダイエットのつもりで断食してたんだけど、倒れちゃ意味ないよね」
「プチ断食というやり方もありますが、人によって合う合わないはあるのでオススメしません」
「おれには合わなかったということか」
「確かに一般的なダイエットのイメージですよね。でもそれをまさか実行するほどば……素直な人だとは思いませんでした」
「いま莫迦って言おうとしたよね?」
「まさか。上司に向かってそんな失言しません」
首を振っていたが怪しすぎる。けれど確かに自分でも莫迦だったと思うので責める筋合いはない。
「そもそもどうしてダイエットをしようと思ったんですか?」
「健康診断の結果が悪くて」
「なるほど」
しばらく思案顔だった郡司が伺うように潤に視線を向けた。
「よかったららオレがダイエットについて教えましょうか?」
「え、いいの?」
「また倒れられると迷惑なので」
「ありがとう!」
手を握ると郡司は目を泳がせた。動揺しているのが珍しい。
「でも今日はこのまま休んでください」
「もう大丈夫だよ」
「だめです。部長からの命令です」
「それなら仕方がないか。でも今夜ご飯の約束してたよね」
昨日岡と揉めている郡司に食事に行こうと一方的に約束を取りつけた。だが仕事を休んだのに食事にだけは行くというのは気が引ける。
郡司と岡の関係も気になるところだ。
「その件に関しては提案があります」
「提案?」
「仕事終わりに佐久間さんのお家に伺わせてください」
「どうして?」
「さっきダイエットについて教えると言いましたよね」
「うちに来てどうするの?」
「佐久間さんの普段の食生活を知るためです」
「普通だと思うけど」
「普通じゃないから太るんですよ」
「うっ」
痛いところを突かれてしまい、言葉が続かない。確かに食べ過ぎているという自負もあり、いまはなにを言っても説得力はないだろう。
一日食べなかったくらいではなんの変化もない腹を撫でた。
このままなにもしないで特大四セットになる未来はどうしても避けたい。
郡司は席を立ち、パイプ椅子を畳んだ。
「では家に伺う前に仕事を片づけてきます。お大事にしてください」
礼儀正しく一礼をしてから郡司はカーテンの向こう側に消えた。
ベッド脇には潤のビジネスバッッグが置いてある。郡司が一緒に持って来てくれたのだろう。なにからなにまで迷惑をかけっぱなしだ。
この恩を今夜おもてなしをしてきっちり返そう。
よれたシャツを直すと香水の匂いが鼻をかすめた。どこかで嗅いだことのある香り。ブランド名まではわからないが、いつも傍にいたような気がする。葵の香水だろうか。
誰のものかわからないが、なぜだか胸が騒ぎだした。
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