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第9話

 昼休みの時間になり、潤はパソコン画面から視線を外した。目を閉じても暗闇のなかに数字の羅列が浮かんでくる。  人件費、買掛金、売掛金、固定資産。  数千円から数億まで毎日金が動くのを正しいかどうか計算し、間違っていたら指摘する。正確な数字を求められるので神経を使うし、なにより単位を間違えたら会社全体に関わる。  同じ姿勢を長時間とっていると血流が悪くなるらしい。肩をほぐし、首を揉むと固まっていた血が再び身体を巡回し始める。  さすがに疲れた。決算が近いのもあって仕事はずっと詰まっているし、休憩の菓子を絶っているのでストレスが溜まる。自分で決めたことではあるが、疲れているときに甘いものが食べたくなるのは人の性だと思う。    「佐久間さん、これよかったら」  郡司からタッパを受け取るとふんわりと甘い香りが鼻腔を擽る。  「これはなに?」  「オートミールで作ったチョコバナナクッキーです」  「でもダイエットに甘いものは」  「蜂蜜で作っているので大丈夫ですよ。それにオートミールはダイエットでよく食べられる食品です」  「そうなんだ。ちょうど甘いものが食べたかったから嬉しい」  蓋を開けるとチョコチップクッキーのように見える。これが本当にダイエット食品なのだろうか。  一口食べるとさくっとした食感のなかにビターチョコの苦みとバナナの甘味が絶妙なハーモニーを奏でている。  「すごく美味しい! 結構手が込んでるんじゃんない?」  「別にすぐできますよ」  仏頂面は崩れなかったが耳がほんのりと赤い。照れているのだろうか。  郡司の言葉はきついしいつも眉間に皺を刻んでいるが、礼儀正しく真面目だ。裏を返せば言葉を飾らないのでいつも本音をぶつけてくれている貴重な存在だ。  「それと昼食はオレの弁当を食べてください」  「弁当まで作ってきてくれたの? なんか申し訳ないな」  「自分のを作るついでなので」  「そうは言っても朝早く起きて作るんでしょ? デザートもあるし。今度ちゃんとお礼させてね」  顔を背けて郡司は弁当袋を潤の前に突きつけられてしまったが、首が真っ赤だ。  食事しているとことは見られたくないということで誰もいない休憩室に向かう。  「昼食一緒に取るの初めてだね」  「四の五の言ってないで早く座ってください」  郡司は長テーブルの上に弁当箱を置いて袋から取り出した。  「すごい彩り!」  ぱっと見ただけで食材の多さがわかる。蒸した野菜、鶏笹身の炒め物、卵焼きとさつまいも。二段目には五穀米がつまっていた。  潤にとって食事とはストレス発散でしかなく、ただ腹を満たせればいい。だが食事は味だけでなく見た目も大事なのだと知った。  「郡司くんは料理上手だね」  「一人暮らしなので」  「こんな美味しそうできれいな弁当は初めてだよ」  「そんな手の込んだものじゃないです」  謙遜にしか聞こえなかったが、これほど多種類のおかずを作るのは大変だったに違いない。  母親は潤の好物を知っているので弁当と言えば生姜焼き、タコさんウィンナー、ミートボールと肉という肉をこれでもかと詰め込んでくれていた。料理の見栄えにこれっぽちも気を向けていなかったことが恥ずかしい。まさに色気より食い気。  「社食は高カロリーのものが多いのでできるだけお弁当にしてください。コンビニ食にするならカロリーと糖質、脂質をチェックしてください」  「わかった」  スマートフォンに言われたことをメモしておく。  「……オレが毎日作ってもいいですけど」  「それは悪いからいいよ」  「一人分も二人分も変わりません」  「でも」  さすがに毎日部下に弁当を作らせるのはパワハラにならないだろうか。平然としているように見えるが無理しているかもしれない。  潤が迷っていると郡司がすかさず言葉を挟んだ。  「決めました。オレが毎日作ります。佐久間さんに任せたらコンビニでスイーツやお菓子を買ってきそうです」  鋭い。いつも仕事中にお菓子をつまんでいるのを見ていたのだろう。  「無理だったら止めていいからね。あと材料費は払うよ」  「そんなの気にしないでください」  「さすがにそれは上司としてメンツが立たないから、お金だけは払わせて」  拝んでみせると郡司は眉間の皺を深くさせ、渋々といった様子で頷いた。  「……わかりました」  「だいぶ時間が経っちゃったね。急いで食べようか」  「その前に注意事項があります」  「注意事項?」  「食事は順番が大事です。最初に水分や食物繊維のある野菜から食べます。その次にメインの肉、そして最後に炭水化物です。食物繊維が血糖値の上昇を緩やかにし、脂質の吸収  つまり脂肪になるのを抑えます。また噛むことによって満腹感を得られるので、食べ過ぎを防ぐこともできます」  「じゃあこの弁当の場合は蒸した野菜、笹身、卵焼き、さつまいもってこと?」  「はい。でも一つ注意点があります」  「まだあるの」  「たくさん噛むことです。噛むことにより脳を刺激し、より満腹感を得られます。最低でも三十回は噛むようにしてください」  ダイエットのことになると饒舌になる郡司は少し得意げな顔をした。それにしても食事をするだけで気をつけることはたくさんある。  いままで飲むように食べていたから咀嚼のことなど考えていなかった。これは帰ってから家族にも教えてあげよう。  「では時間がないので早く食べましょう」  「やっと食べられる……」  蒸したブロッコリーを頬張る。味がしないと思っていたがほどよい塩気が素材を引き立てている。一、二、三と数えていたが、十回目を過ぎたあたりから顎が疲れてくる。早く飲み込んでしまいたい。  郡司の方を見ると平然と咀嚼をしている。毎食やっているのだろう。疲れた様子はなかった。  ようやく三十回になり飲み込むと顎が疲れ、先ほどまでの空腹感は少し減っている。  まだ一口しか食べていないのにいつもより食べた実感があった。  「疲れるね」  「休んでいる暇はありません。急がないと昼休みが終わります」  「それは困る」  促されるままに箸を進めた。いつも味の濃いものを食べていたせいか、少しもの足りない気がしたが噛めば噛むほど食材本来の味が舌に染み込んでくる。  あまりの美味しさに頬が緩む。  顎が疲れるのが難点だが、郡司が作ったものはどれも絶品だった。  「美味しそうに食べますね」  「だってすごく美味しいから」  「作りがいがあります」  うっすらと微笑んだように見えた郡司はすぐに無表情に戻り食べ始めてしまう。  お互い咀嚼している回数が多く無言が続くが、不思議と嫌な感じはしなかった。
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