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第12話

 歩いても歩いても先が見えない。  隣を歩く郡司はあとどれくらいで着くと教えてくれないのでこのまま一晩中歩かされるのではないかと恐怖を覚えた。  「あーもう疲れた」  「口じゃなくて足を動かしてください」  「そうは言っても暑いし、無理」  暦のうえでは立秋になったが、まだまだ夜でも夏の暑さを残している。じんわりと生温かい風が肌に張りつく。  かれこれ二十分以上歩かされているので、体重を支える膝が悲鳴をあげている。  滝のように汗をかいている潤と打って変わり、郡司は涼しそうだ。毎日これだけの距離を歩いていたら慣れるのだろう。  郡司の住んでいる街は駅前に二十四時間スーパーと薬局があるだけの閑静な住宅街だ。  「駅からずいぶん歩くんだね」  「その方が家賃が安いんです」  「そうかもしれないけど」  会社からいくらか住宅手当が出ているので、そこまで切り詰めなくても生活ができるのではないか。自炊もしているようだし萩原のようにギャンブルをやっている様子もない。もっと駅から近い場所に住めば通勤も楽になるだろうに。  「着きましたよ」  郡司の家は四階建ての小さなアパートだった。慣れた手つきで暗証番号を入力し、さっさとなかに入ってしまうので自動ドアが閉まる前に慌てて飛び込んだ。  なかに入ると右手にエレベーターがあり、てっきり乗るのかと思ったら郡司は素通りし奥の階段へと向かう。  「エレベーター乗らないの?」  「階段でいきます」  「もう無理」  「ほら、早くしてください」  座り込もうとした潤の腕を引っ張って階段口へと向かう。  階段を一段ずつ踏みしめていると柑橘系の香水の匂いが前から漂ってくる。  (そうだ、この匂いだ)  潤が倒れたときにシャツから香っていた匂いと同じだ。目の前で倒れた潤を助てくれたときについだのだろう。  郡司の匂いだとわかったら心臓が早鐘を打ち始める。階段で息切れをしているからではなく、心にさざ波が起きたような違和感。  「どこまでのぼる気ですか」  郡司の声に我に返るともう腕は放され、三階で止まった郡司を追い越して四階へと向かおうとしていることに気づき、慌てて降りる。  「ごめん、考え事してて」  「別にいいですけど。ここです」  鍵を開けてなかに促される。新築の匂いのなかに柑橘系の香りがする。  玄関横の下駄箱には全身鏡があり、脂汗の滲んだ自分の顔が映り「うえぇ」と漏らした。  「どうかしました?」  「なんでもない。お邪魔します」  埃一つない廊下を抜けると大きなテーブルと奥にはソファとテレビ台があった。  テレビ台には伏せられた写真立てが目に入り、そこだけが異様に映る。  「クーラーつけますね」  すぐに冷気が出てきて熱くなった身体を冷やしてくれる。  「もうだめ。疲れた」  やっと着いた安堵からその場に崩れるように座り込んだ。人様の自宅というのに遠慮できるほどの余裕がない。日頃の運動不足をこれでもかと痛感した。  「とりあえず水をどうぞ」  「ありがとう」  水がなみなみと注がれたグラスを受け取り一気に飲み干す。  「これだけでへばっちゃうんですね」  「郡司くんはすごいね。毎日こんな距離を歩いて」  「慣れれば平気ですよ」  さらっと言ってのけるところがすごい。天変地異が起こっても潤が同じことをできるとは思えない。  「お腹空きましたよね。なにか作っておきますから、先にお風呂をどうぞ」  「そんな家主をおいて先に入るなんて」  「じゃあ佐久間さんが料理します?」  「……お先にいただきます」  「どうぞ。洗面所はこっちです」  郡司からバスタオルを受け取り、さっきスーパーで買った下着とパジャマ一式を持って案内された洗面所へ向かう。  「ホテルみたいだ」  洗面所のガラスに曇り一つなく、鏡もキレイだ。隅から隅まで清掃が行き届いている。  潤の家も汚くはないが、巨体が四人生活しているので生活感はどうしても出てしまう。  本当に住んでるのかと不安になるほどだ。  さっさとシャワーを浴びて出ようとするとなぜか湯船が湯をはりはじめた。  「な、なんだこれ!?」  『佐久間さん、聞こえますか?』  どうやら給湯器のパネルがキッチンにいる郡司と通話ができるらしい。  「聞こえるよ」  『シャワーだけで済ませるだろうと思ってお湯を張りました。ゆっくり浸かってください』  「暑いからいいよ」  『ダメです。結構歩いたので足のマッサージをしてむくみをとってください』  「……わかったよ」  全身を洗い終わると同時に湯が溜まり肩まで浸かった。湯船に浸かるなんていつぶりだろうか。佐久間家では冬場でもシャワーが基本だった。  郡司に言われた通りふくらはぎや太股を揉む。堅く凝り固まった筋肉が解れるのがわかる。  身体の芯までぽかぽかに温まり風呂からでるとテーブルには豪華な料理が並んでいた。  あじの干物に温野菜、きのこメインの味噌汁と五穀米と相変わらず彩り豊かで品数も多い。  「これはなに?」  「高野豆腐に鶏挽き肉と野菜を詰めて煮たものです」  「美味しそう!」  「基本的に和食はカロリーが低いので夜に食べるのがおすすめです。それにーー」  「ねぇ、早く食べていい?」  潤が期待の眼差しで見つめると饒舌モードに入りかけた郡司はわざとらしくごほんと咳払いをした。  「……どうぞ」  「いただきます!」  高野豆腐は醤油の味が染み込んでいる。なかの鶏肉はふっくらしているし、歯もいらないほど柔らかい。  「おいひい!」  「喋ってないでちゃんと三十回噛んでください」  「そうだね」  つい早食いしそうになる気持ちを押しとどめ、回数を数え始めた。  温野菜にかかっている自家製のごまドレッシングがこれまた絶品だった。ごまの風味と少し辛めの味付けがいい。  あじはふっくら焼かれているし、味噌汁もいろいろなきのこが入っているので食感が楽しめる。  「はぁ食べた食べた。ごちそうさま」  「お粗末様です」  「短時間でよくこれだけ準備できたね」  「ある程度下準備をしておいたので、すぐにできますよ」  「郡司くんの家事能力の高さには恐れ入るよ」  仕事もできて家事もこなせる上にイケメン。結婚相談所に登録したらピラニアのように女性陣が食いつくんじゃないだろうか。  こんなになんでもできるなら彼女がいたら喜ばれるだろう。  ふと岡の顔が浮かんだ。  そういえば以前二人が揉めていたのを思い出す。潤が空腹で倒れてその話を聞く機会がうやむやになっていた。  「この前岡さんとなにがあったの?」  郡司は虚を突かれたように目を丸くし、食後に飲もうとしていたハーブティーのポットを取り落としそうになっていた。  「別に大したことじゃありません」  「でも部の雰囲気があれからちょっと悪いよね。岡さんも元気ないみたいだし」  「……やっぱり岡がいいんですか?」  「どういう意味?」  郡司の問いの意味がわからず首を傾げると群司は口元をへの字にした。  「岡に付き合って欲しいと言われて断った……それだけですよ」  「そっか。またなんだね」  入社してから恋愛ごとのトラブルに巻き込まれ、部署を転々と異動してきた郡司にとって告白されるのが恐怖なのかもしれない。  せっかく経理の仕事を覚え始めてきたのにまた違う部署に飛ばされたら、一から覚えないといけなくなる。  だから気を張りつめて仕事に没頭して、恋愛ごとを避けてきたのだろう。けれどそれが逆にストイックだと評価をあげていく悪循環を生んでいる。  「じゃあ部が明るくなるようにおれも頑張るよ。郡司くんは経理の才能あるし、もっと仕事を覚えてもらいたいしさ」  経理の才能ってなんだよと我ながら突っ込みたくなる言葉だったが、郡司は優秀なのでもっといろんなことをさせて実力をつけさせてあげたい。  昇進したいならなおのこと実績をつくっておけば上層部の受けもバッチリだ。  そういう思いとは裏腹に岡に告白されたという話を聞いたときなぜが潤が傷ついた。潤が振られたというわけではないのに、彼女に自分を無意識に重ねてしまう。  これだけいろんなことを誰の手も借りずにできるなら恋人に求める条件は富士山以上に高いかもしれない。それだけ望んでも叶う見込みが郡司にはある。  これといった特技もない潤が通常なら郡司の隣にいていい立場ではない。上司という肩書きのお陰で郡司の手料理を食べることが許されている。  (そこはきっちり線引きをしておかないと)  自分のなかでラインを書いて気持ちを整理すると少しだけ心のざわめきが落ち着いた。  「佐久間さんはやさしいですね」  「郡司くんのほうがやさしいよ。デブの上司にここまで気を使ってくれて」  「オレのは打算的に行動しているだけですよ」  ポットをテーブルに置いた郡司の長い指が潤の頬を撫でる。かさついた手のひらがじっとりと熱を持った。  郡司の顔が思いの外近づき、驚いて立ち上がった拍子に椅子が倒れた。  「ごめん。びっくりしちゃって」  「運動以外のいい方法があるって言いましたよね。なんだか教えましょうか?」  郡司はネクタイを解き、床へと放った。シャツのボタンを片手で器用に外し、テーブルを回って潤に歩み寄ってくる。  露わになった首筋に色気を感じ、たまらずごくんと唾を飲んだ。  「オレとセックスしませんか?」

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