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第19話
通い慣れた道を一人で歩くと変な気分だ。いつも隣には郡司がいて、ぽっかり空いた左側がよけいに彼の存在の大きさを主張する。
玄関のインターホンを押す手が震えてしまったが、どうにか自分を奮い立たせた。
『はい』
「佐久間です」
『ちょっと待っててください』
数秒とおかずに郡司は扉を開けてくれた。
額に冷却シートを張り、少し赤いが顔色は悪くなさそうだ。
「ごめんね、急に来て。熱だしたって訊いたから。これお見舞い」
「ありがとうございます」
スーパーでおかゆや飲むゼリーなどをありったけ買ってきた。
「じゃあこれで失礼するね。温かくして寝てね」
「待ってください」
引き返そうとすると潤の腕を掴まれた。いつもより少しだけ高い体温は郡司の体調の悪さを表している。
「少しあがっていきませんか?」
「でも」
「看病してください」
郡司の言葉に笑った。病人から看病をして欲しいと申し出るのか。
「すいません、そうじゃなくて」
「いいよ。じゃあちょっとだけお邪魔しようかな」
「はい」
ふわりと眦を下げる郡司が幼く見えた。寝起きのボサボサの髪やジャージ姿はまだ大学生の名残がある。
(いつも大人びているけどまだ二十三歳だもんな)
そんな当たり前のことを今更思った。
熱を出したというわりには部屋はいつも通り整頓されていた。ただ台所の水場に飲み終わったペットボトルが山のように積まれているのが新鮮に映る。
「すいません、汚くて」
「大丈夫だよ。よかったら片付けるから郡司くんは寝てて」
「そんなこと佐久間さんにやらせるわけには」
「看病して欲しいんでしょ?」
「……ではお願いします」
郡司がリビングのソファで横になったのを見てからペットボトルを洗い始めた。
いつもホテルのようにキレイな部屋に生活感があると郡司の心の奥を覗かせてもらえた気がする。
手を伸ばせば届く距離にいるのにその心には触れいけない。自分で終わらせたのにまったく気持ちがついてきていなかった。
(なにが上司だ、大人だ。そんなのただの見栄だ)
本当は郡司から切られるのが怖かった。ただの昇進試験のためですと言われたら、またデブロードに真っ逆さまに落ちる。
だから怖くて切ったのにそれも悲しいと心が潰される。
もうどっちにいけば潤が救われるのかわからない。
「どうかしました?」
ペットボトルを洗う手が止まっていたせいで寝っ転がっていた郡司がすぐそばまで来ていた。
黒目がちな瞳に自分の顔が映る。
「……郡司くんのこと考えてた」
「オレ?」
わけがわからないといった様子で郡司は首を傾げる。
「もうこの関係は終わりなんだなって」
「そう思ったら悲しくなったんですか?」
小さく頷くと郡司は口元を綻ばせた。どこか楽しそうな様子にこっちは地獄にいるのにいい気分だなと恨めしい。
「嬉しい。ようやくオレのこと意識してくれたんですか?」
「意識って」
「オレのこと好き? いや、この訊き方はずるいな」
郡司は眉間に皺を寄せてなにかを考え始めた。そして長い腕が潤の腰に回る。
「オレと恋人として付き合ってください」
言っている意味がわからず、顔をあげて数秒郡司を見つめた。彼は落ち着かなさそうに視線をさまよわせたあと、目尻をめいいっぱい下げて笑顔を向けてくれた。
その顔に心を鷲掴みにされる。
どんな言葉よりも雄弁に郡司の気持ちを表していたから。
「最初が最悪でしたけど、萩原さんに取られるんじゃないかと必死でした。でも痩せたら今度は女にモテるし、佐久間さんは魔性です」
「魔性って。それは郡司くんだろ」
「オレはずっと佐久間さん一筋です」
「ずっと?」
出会ってまだ半年足らず。ずっとというのにはまだ足りない気がする。
それを察した郡司はこっち来てくださいと手を引かれ、ソファに座らされた。
テレビ台にある伏せられた写真立てを潤に渡した。
「見ていいの?」
「引かないでくださいね」
くるりとひっくり返すと潤と同じくらい太った男の写真だった。ポロシャツははちきれそうなくらいピチピチで襟にたぷたぷの頬が乗ってしまっている。
でも背の高さや凜とした目鼻立ちはどこかで見たことがある。
「これって」
「一年前のオレです」
「嘘?!」
「実はオレもとても太ってたんです」
「そうは見えないけど」
頭から爪先まで観察したがどこにも名残りがない。きゅっと引き締まった腹筋や細い手足は誰よりも知っている。
「就職面接のとき佐久間さんに出会ったんですよ」
「ごめん、全然覚えてないや」
「たくさん人がいましたからね。そこで佐久間さんにやさしくしてもらえて、絶対この人と一緒に仕事をしようと思ってダイエットをしたんです」
そういえば去年初めて面接官をした。確か圧迫面接で有名な部長と同席したのだ。
記憶の糸を辿り、確かに部長は郡司の容姿を卑下して恥をかかせるばかりだったが、それを見かねた潤が間に入った。
「見た目は関係ありません。彼の伸びしろの話をしましょうって言ってくれたんです。それが好きになったきっかけです」
自分もデブだったから当時の郡司が重なって見え、居ても立ってもいられなかった。面接中に上司に楯突いてあとで問題になったが、それは黙っておこう。
「そこから一年かけて二十五キロ落としました。そしたらいままで見向きもされなかった女性たちに声をかけられ、トラブルになり参りました」
「入社当時は散々だったね」
「そしてやっと念願だった佐久間さんと一緒に働けて嬉しかったです。なのにまたトラブルになりそうで岡さんにはきつく言い過ぎました。だから反省を込めて最近はよき同僚としての距離感でいます」
フロント業務のとき、二人が親しげに見えた理由はそういうことだったのかと納得した。
「言い訳ですけど、なに振りかまっていられなかった。人に気遣いができて、やさしくて、仕事を教えるのも上手な佐久間さんがいつか誰かに取られるんじゃないかと怖くて」
「なんか別の人の話してない?」
「そんなことないです。あなたは自分を過小評価しすぎです」
語気を強めた言葉が胸のなかに入ってくる。それだけ潤を想ってくれていたということだろう。
膝の上で震えている郡司の手を握った。ゆっくり撫でると指を絡ませて繋いでくれる。
指と指を絡ませただけなのに言葉より明確に想いを伝えてくれる。キスをするよりよっぽど恥ずかしいかもしれない。
潤の手を顔のところにもってきて唇を当てた。
「佐久間さんが好きです。オレと付き合ってください」
「いいの?」
「返事は?」
「……おれも好き。お願いします」
「やっと手に入れられた」
背中に腕を回されぎゅうぎゅうと抱き締められ、その強い力に苦しくなる。でも幸せだ。
そこではたと気づく。
「郡司くんは昇進するためにおれを利用してたんじゃないの?」
「……まだ引きずってるんですか、それ」
「だって郡司くんみたいな子がこんなおっさんに弁当作ってきてくれたり、ダイエットに付き合う理由は昇進の推薦が欲しいのかと」
「違うって言ったでしょ」
「違うとは言ってないよ。わからせるって」
「いつも佐久間さんが好きって気持ちで抱いてたのに全然伝わってないし。今夜は寝かせません」
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