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第12話

 主人公には妻も子もいる。夫の親友というだけで、親身になって世話をしてくれる主人公に対し、親友の妻はなんの役にも立たぬ自分が、これ以上世話になるわけにはいかないと、子を連れて彼の元を去ろうとしていた。  主人公と親友の妻の間に身体の関係はない。だが未亡人が周囲から囲われ者だと陰口を叩かれ、辛い目にあっていることも知っている。しかし主人公はかつて恋い焦がれた女性への気持ちを募らせていた。今更手放せるはずもない。主人公はどうにかして彼女がここにいるべき口実を作ろうとするのだ。  画家である主人公は柔らかく瑞々しい少女の絵や玄人の美人画を多く描いてきた。未亡人は自分のような若くもない平凡な容姿の女がモデルを務まるのかと固辞する。だが男はひるまない。 「貴女をずっと、お慕い申し上げていました。一度だけ、一度だけでいい。貴女の全てを私に描かせてください。その思い出を生涯のよすがにします」と熱に浮かされたように告白し、彼女の元に額ずくのだ。 (浴衣の彼女を鏡台の前に膝を崩してしどけなく座らせ、仄暗い明かりの中で柘植の櫛で髪をとかせる。櫛は男が彼女に贈ったものだ。大きく抜いた襟元から覗くほっそりとしたうなじ。張り付く黒髪。こちらを少しだけ振り返る彼女の伏し目がちな目元はうっすらと朱に染まっている。男の目線の尋常でない熱さを感じているからだ)  彼女は主人公の思いに気が付いていたのだろう。憎からず思っていたのかもしれない。でなければ子どもを離れに寝かせたまま、夜更けに男の元を尋ねるはずはない。  やがて関係を持つ二人の描写は、肉感的で生々しく息遣いすら耳元で聞こえてきそうだ。それが今薔太の頬を火照らせた。 (彼女はほだされたんだろうか。男の熱意に……。それとも寂しくて仕方がなくてそれで男に身を許したのだろうか)  ずっと恋い慕っていた相手。男は臆病だから、明かりをすべて消し去って女の顔をわざと見ないのだ。湯上がりで石鹸の香りがするうなじはしっとりとしていて、そこに口づけると少女のように身を震わせる。夫以外に抱かれたことがないのだろう。どうしていいのかわからないという風情が哀れで可愛らしくもあり、その実子を産み育てたことのある熟れた身体は逆にいやらしくて男は嫉妬で逆巻く炎に炙られる。  背後から背骨に沿ってゆっくりと唇で愛撫しながら、身を丸めて時に艶めかしい吐息を噛み殺そうとする、彼女をゆっくりと篭絡していく。  頭の中で、いけないいけないと思っていたのに、薔太はいつの間にか男を紫央に、女を自分に置き換えてしまう。 「あっ」  いつの間にか浴衣の裾を推し開くように萌してしまった自分自身に気が付き、慌てて本を畳に取り落とした。 「ど……どうしよう」 (紫央さんがきちゃう)  焦れば焦る程、ずきずきと痛み浴衣の前がせり上がる。こんなあられもない姿を見せるわけにはいかない。慌てて布団から起き上がり、厠へでも行こうと立ち上がろうとしたが、その前にすっと襖戸が開いた。 ※※※  降り落とされて紫央の足元に転がった本、乱れた布団、火照り真っ赤になった自覚のある顔、そのうえ慌てて掴んだ枕を股間に押し付け隠している。明らかに様子がおかしい薔太を、日頃冷静な紫央ですら、麗しい瞳を僅かに見開いて驚いた様子だった。 「薔太?」  赤い薔薇と紫色のクレマチス花の向こうに影法師の男女が絡み合う。紫仙自身が手掛けたという隠微な表紙の文庫本を紫央は長い指先を伸ばし拾い上げた。 「ふぇっ」  薔太は今日一日の緊張や心労も祟りついに涙をにじませ、その場にへたへたと座り込んでしまった。 「ごめんなさい、ごめんなさい」 「何を謝るっていうんだ? それとも薔太は何か俺に謝るようなことをしたのかい?」  いつも通りの柔らかな低い声がなんだか恐ろしい。これはなんと答えれば良いのか、かあっと頬が熱くなる。  しかし言いづらいことでも今まで薔太が紫央に隠し事をした事など一度たりともないのだ。  はだけた浴衣の裾を直そうともせずあぐらをかき、股の間に枕を押し付けた姿勢で薔太は勢いよく頭を下げた。 「僕……、先生の『甘い束縛』読みました。以上です。ちょっと、厠に行ってきます」  そのまま一度紫央の目の前から見苦しい我が身を隠そうと立ち上がろうとしたが、できなかった。風呂上がり、鉄線柄の手ぬぐいを肩にかけた紫央が膝まずいて行方を阻んだのだ。 「そう、どうして急に?」  そう問われ、まだ視線を泳がせたままの顔を上げさせられる。そしてそのまま顎の下に指を置かれてくいっと目線を合わされた。  紫央の有無を言わさぬ視線は、普段よりもずっと強く妖しい光をたたえていた。 「それは……、僕も成人しましたし」  「……それで?」 「その……」 (聞きたかったんじゃないのか? おじいちゃんと紫仙先生のことを)

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