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追いかけたい 9
「サナギさん…」
後ろから名前を呼ばれた。
振り返ることなんてできるわけがなく、沙凪は両手を握り締めて歩き出そうとした。
しかし彼に後ろから抱きしめられて、そのままトイレの個室に引き摺り込まれてしまった。
「…はし、…」
閉じられたドアに身体を押し付けられて、唇を奪われる。
その一瞬の出来事に、沙凪は困惑しながらも
彼の唇の感触が、あまりにも鮮やかに印象付けられて、身体の内側が熱を帯びてしまう。
「っ…ん、…」
貪るように深く深く口付けられて、呼吸もままならないくらいだった。
彼に体を抱き竦められて、その香りや感触を感じると
心臓がありえないくらいうるさく騒ぎ出して、余計に息苦しくなる。
「…ッ…は、ァ…っ、待っ…」
止めようと腕を突っ張ってみたりするのだけれど彼の身体はびくともしない。
ようやく唇を解放してくれたが、橋名は濡れた瞳を鋭く光らせてこちらを見下ろしてくる。
「……サナギさん…どうして、コマンド使わないんですか?」
「…っ、…」
沙凪は思わず彼から目を逸らしてしまった。
「サナギさんは…、優しくて…、
俺なんかのわがままも聞いてくれて…、守ってくれて…、
傷付けないようにしてくれてる…、違いますか…?」
彼の言葉に、沙凪は小さく首を横に振った。
自分はただ怯えているだけだ。
その真剣さに釣り合えるほど自分を明け渡せない臆病者だから。
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