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第1話

 ──2025年9月 「……じゃあ行ってくる」 「うん、また帰りに迎えに来るからね。今日は初日だし午前で終わってもいいんだから。何かあったら連絡してね」  運転席に座る母の言葉に頷きだけを返し遼は車から降りた。送迎用駐車場に停まっているのは自分達の車だけ。校舎側から微かに人の声は聞こえてくるものの周囲には誰もいないことを確認し助手席のドアを閉めた。  せっかく新しい学校に行くんだから、と数週間前にブレザーの制服と共に両親が買ってくれた新品の靴をじっと見つめながら昇降口へ向かう。一歩、また一歩と校舎に近づくにつれ遼の動悸は激しくなり変な汗が背中を伝っていった。不安を振り払おうと遼は約1ヶ月前に母親と共に受けた個別の学校説明を思い出す。 ***  説明会の日、4つの机が向かい合わせに並べられた教室に遼と母親は案内された。 「はじめまして、黒崎遼くん。2年A組の担任をしている一誠です」  遼の正面に座る若い男がそう自己紹介し、『2年A組担任  一誠 優(イッセイ ユウ)』と書かれている名札を遼に見せた。1番上まできっちりとめられたワイシャツのボタンに、シワひとつないスーツ。黒縁眼鏡のレンズには正面に座る遼の顔が綺麗に映っていた。几帳面で身だしなみに厳しそうな雰囲気だがその口調と表情はとても穏やかで遼はほっとする。一誠の隣、母親の正面に座る男はB組の担任で荒木と名乗った。一誠は176センチの遼とほとんど同じくらいの背丈だが、荒木は頭ひとつ分高い。ガタイも良く強面な雰囲気を醸し出している。  簡単な自己紹介を終えた後、この学校はどの学年も1クラス5人以下の少人数制の学校であることや1年生は黄色、2年生は赤、3年生は青と学年によってネクタイの色が分かれていること、学校指定のブレザーの制服があるものの申請し許可を得れば制服以外の服装で過ごすことも可能なこと、国語や数学などの基礎的な科目の授業はクラス単位で行われるが体育や家庭科などの科目はA組B組合同の学年単位で行われる等の説明を受けた。 「何か不明な点や聞きたいことはありますか?」  一誠の言葉に遼が首を横に振ると「よし、じゃあ今から校内を案内するから一緒に来てくれ」と荒木が立ち上がる。遼もつられて立ち上がったが母親は座ったままだった。   「……母さんはまだここで一誠先生とお話することがあるから遼は荒木先生に校内を案内してもらいなさい」  ほら学費のこととか…と無理矢理作ったような笑顔を浮かべる母の顔を見て、自分の話をするのだと察した。  本音を言えば言われたくはなかったが、仕方ないと遼は自分に言い聞かせる。転校する事情が事情である自覚はあった。小さく頷き荒木と共に教室をあとにする。  扉が閉まる直前小さく振り返ったが、母親の顔からは笑顔は消え真剣な眼差しで一誠と話を始めていた。 「黒崎は趣味とかあるのか?何が好きなんだ?」  1階から3階まで順に案内され、校内の大まかな説明を受けた後、もといた教室にふたりで戻りながら、荒木は遼にそう尋ねた。  一瞬考えたものの何も思い浮かばず、「……特にないです」と首を横に振った。小中学生の頃は友達と流行りのゲームをやっていたような気がするが、高校に登校出来なくなった昨年の夏頃からこの1年、何かを心から楽しめた記憶は全くない。  根暗な奴だと引かれるかな、と不安がよぎったが「そうか。これからいろんなこと経験して好きなものたくさん見つかるといいな」と荒木は特に気にした風もなく続けた。  これから。  荒木の言葉を脳内で反芻する。  学校にすらまともに通えない自分に、これから先楽しいことが待っているなんてとても想像出来ない。  それなのに、目の前の教師が当たり前のように未来の話をすることが少し不思議だった。   *** 「…………。」  説明会の日のことを思い出すうちに動悸は弱まり少しだけ呼吸は楽になった。  駐車場では微かだった校内の人の気配と音がどんどん鮮明になっていく。 「黒崎くん」  聞き覚えのある声に顔を上げる。昇降口に立つ担任の柔らかい笑顔が遼の目に眩しくうつった。
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