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第3話
『今回もすごく評判いいよ』
その一言だけのメッセージに目を通すと、志朗は親指を立てた絵柄のスタンプを送信してスマホを放り投げた。
それから再び枕に顔を埋めて目を瞑る。
先ほど廊下からパタパタと足音が聞こえた。
隣の部屋の椎名が下に降りていく音だろう。
彼はこの寮の生活時間を規則正しく守っている。
なぜ椎名がこの寮に入る選択をしたのか聞いたことはないが、彼を見ていればなんとなく想像はつく。
親元を離れて、縁もゆかりもないこの地に一人でやってきたのだ。
それだけで察してあげるべきで、余計な詮索はする必要はない。
そう志朗は思っているがそういう考えに及ばない者もいる。
初めて民屋青葉を見た時、彼はまさにそのタイプだろうと判断した。
明らかに人と会話することを苦手そうにしている椎名を見て、思わず助け舟を出してしまったのが一年前の春。
明るく無遠慮に自分の考えを押し付けてくる青葉に、これが田舎の距離感なのかと内心気持ちが冷めていくのを感じていた。
別に楽しい友達ゴッコをしたくて来たわけではない。
どちらかと言えば、煩わしい他人の声を聞きたくなくてここに来たのだ。
自分のペースで人に振り回させることなく過ごせればいい。
そう思っていたのだが、今のとなってはすっかり青葉のペースに巻き込まれているのが不思議だ。
放り投げていたスマホが音を立てた。正確には振動する音だ。
手を伸ばして画面を見ると青葉の名前が表示されている。
「もしもしぃ」
気怠げな口調で出ると、『あっ!』と電話の向こうから怒りを含んだ声がした。
『志朗まだ寝てるだろ?!もう学校出なきゃいけない時間だぞ』
「うん〜知ってる。そろそろ起きようと思ってたところ」
そう言いつつも、体はまだベッドの上だ。
『あと5分して寮から出てこなかったら迎えに行くからな!早くしろよ!』
青葉がそう言うとプツッと電話は切れた。
どうやらもう近くまで来ているらしい。
彼の家はここから自転車で十分ほどのところにある。青空食堂の近くだ。徒歩でも三十分くらいで着くので雨の日は歩いて来ている。
彼がやたらと面倒を見てくるようになったのは、去年の梅雨に入った頃だった。
学校生活にも寮生活にも慣れ始め、雨続きで体も怠く、それまでとりあえず保っていたやる気が下がったこともあり遅刻が増え始めた。
それでも授業にはギリギリ間に合っていたので自分としてはあまり気にしていなかったのだが、青葉が朝電話をかけてくるようになったのだ。
彼の撮影について行くことで距離は少し縮まっていたが、それでも全面的に頼るような間柄ではなかった。
他のクラスメイトよりかはよく話す、といった程度だ。
ーそれなのに朝から電話をかけてくるなんて。
勘弁してくれよ。
そう思った志朗は電話に気づかないふりをすることにした。すると今度は寮の部屋まで迎えにくるようになった。
「・・なんで来たの?」
さすがの志朗も笑顔で対応する気力がなく苛立った声色で聞くと、青葉は「心配だからじゃん?」とケロッとした顔で言った。
おそらく本気の善意で言っているのだろう。
あまりの自分との価値観の違いに脱力した志朗は、呆れた気持ちでそんな青葉の行いを受け入れることにした。
適度にそして適当に。向こうだってその善意は気まぐれかもしれないのだ。わざわざエネルギーを使って感情的になる必要はない。
それに青葉は『あの写真』を撮った人物だ。彼の目に映るもの、考えていることには少し興味がある。
そう思い彼と一緒にいるようになってあっという間に季節が巡っていった。
面倒を見られることもすっかり慣れたものだ。
ノロノロと起き上がり制服に着替えていると再びスマホが振動した。
青葉かと思ってスマホを手に取ったが、相手は先ほど親指を立てた絵柄のスタンプを送った人物だった。
『今年の夏休みはいつ戻ってくる?』
志朗は頭をポリポリと掻きながら画面を見つめる。
それからすぐに『わからない』と五文字打って送信した。
志朗の家は父と母と十歳年の離れた兄がいる。
家族仲は悪くないが共働きの両親は忙しく、家族でどこかに遊びに行ったという記憶もあまりない。小さい頃に一泊で関東近郊の温泉に行ったのが唯一の家族旅行だ。
両親は東京生まれ東京育ちのためお盆もお正月も帰省というものをしたことはなく、小さい頃は友人達の帰省話を羨ましく聞いていた。
毎日海に行っただとか山に昆虫採集に行っただとか、志朗にとってはファンタジーの世界のようにすら感じた。
そのためか、昔から不思議と行ったことのない田舎への憧れが強かった。
青い空に広がる入道雲、くっきりとした緑色の山々。畦道に伸びる一本道。
絵に描いたような田舎の風景が好きで、気がつけばそれを自分で描くようになっていた。
テレビで見たものや本で見たものを思い出して空想の風景を描く。
その時間が好きだった。
それから自分のスマートフォンを持つようになると、色々な田舎の写真を検索して見るようになった。
自分の理想の風景はどこだろう。
そんなことを考えながら画面をスクロールする。
そうして目に留まったのが『あの写真』だった・・
「おーい!志朗!」
部屋の外から声が聞こえた。
いつの間にか青葉が部屋の前まで来ていたらしい。
「もう着替え終わるから待ってて」
志朗はそう言うと、急いでシャツのボタンを留めブレザーに腕を通した。
ガチャっと扉を開けると、青葉が上目遣いで睨んで立っている。
志朗が寝坊した日はいつものことだ。
「ごめん、お待たせ〜」
眉尻を下げて笑いながら言うと青葉はハァと小さいため息を吐いた。
「なんか俺、いつも志朗にお待たせって言われてる気がする」
「それは、青葉がいつも俺を待ってるからでしょ?」
「はぁ〜!?別に俺は待ちたくて待ってるわけじゃないぞ!」
「あはは!いつもありがとうなぁ〜」
少し不満そうにプクッと頬を膨らませた青葉を横に見ながら寮の階段を降りる。
それから外に出ると、暖かな日差しが目に飛び込んできた。
空気も澄んでいて気持ちがいい。志朗はスゥと深呼吸をすると学校の方へと向かいながら言った。
「青葉、GWって予定ある?」
「GW?そりゃ毎日店の手伝いだな。なんたって1年の中で2番目くらいのかき入れどきだぞ」
「そっかぁ。確かにそうだよね」
「・・なんかあるの?」
「うん?いや、絵を描こうかなぁって思ってさ。それの場所探しをね、青葉と行けたらと思っただけ」
「あ、そっか。そうだよな!」
青葉は目を見開いてポンと右手を自分の左手に打ちつけた。
桜の絵を使った動画を投稿してから、まだ次の作品は出来ていない。
青葉と何回かモデルにする風景を探しに行ったのだが、納得できる場所は見つからなかった。
桜の花ももうまだらで、ならいっそ全部桜が散り終わり新緑の季節になってからにしようとなったのだ。
「ちょっと待って!父ちゃんに余裕のありそうな日確認してみる。それかお客さんが落ち着いたタイミングでちょっと抜けるか・・」
青葉が考えるように頭を捻る。それを見て、志朗はふと思いついたことを言った。
「ねぇ。俺も店のお手伝いしちゃダメ?」
「・・へ?」
「あんまり役には立たないかもしれないけど。どうせ俺GW中は暇だし、少しでも手伝えれば青葉の時間もできて仕事の合間に風景探しもできるかなって」
「・・え、いいのか?多分すっごい助かるとは思うけど・・」
「うん、俺は平気。よければお父さんに相談してみてよ」
「あ、ありがとう!今日帰ったら早速聞いてみる!」
ピョンと嬉しそうに青葉が跳ねた。そのタイミングで学校のチャイムが鳴る。
「やべ!急ごう志朗」
「うん」
慌てて走り始める青葉の後を志朗は楽しそうに笑いながらついて行った。
——
「いらっしゃいませ〜」
「志朗君、2番にお水お願いしていい?」
「はぁい」
志朗は明るく返事をすると、水の入ったグラスをお盆に乗せ客のいるのテーブルへと運んで行く。
「お水です」
そう言ってニコリと笑ってグラスを置くと、男女四人組で座っていた中の女性達が目を輝かせて志朗を見つめた。
「今の子、かっこいい〜」
志朗が去った後、ヒソヒソと彼女達が話し始める。
「ね!地元の子?バイトかなぁ」
女性達が笑いながら言うと、同じテーブルの男性達は呆れたような顔で肩をすくめた。
「こんなとこまで来てナンパとかするなよ。今日の目的はカヌーなんだから」
「わかってるわよ!」
「ほら!早くメニュー決めて!」
彼らは楽しそうに騒ぎながら、年季の入ったメニューのファイルを広げた。
「志朗君手伝ってくれて助かったわ。お客さんからのウケもいいし!」
青葉の叔母の聡美が志朗に笑顔で話しかけてきた。その手には食べ終わった皿の山が重なっている。
お昼のピーク時間は過ぎたが、お客さんはまだ絶えない。ゴールデンウィークがかき入れ時というのは本当のようだ。
「いやいや。こっちこそバイト代もらえて助かります」
志朗はニコリと笑うと聡美の手からさりげなく皿の山を受け取りキッチンへと持って行った。
青葉の家族が営む『青空食堂』は巳千川のすぐ近くにある。大体の利用者が巳千川にカヌーやキャンプをしに来た人達だ。
「ゴールデンウィークが始まるとそこから秋までは結構忙しいのよ」
聡美はお水をピッチャーに補充しながら言った。
「まぁ、忙しいっていっても休みの日だけだけどね」
「それでも冬に比べればマシよ!冬なんてまさに閑古鳥が鳴いてる状態!」
横から青葉のもう一人の叔母、明美が話に入ってきた。
「だから去年から仕出し弁当なんかも始めたのよ。高齢者は結構多いからね、この地域」
「へぇ、そうなんですか」
志朗達が雑談をしていると「はい、3番テーブルよろしく」とキッチンからカウンターに料理が置かれる。置いたのは青葉の母だ。その奥では青葉の父が料理を作り続けている。
志朗は料理をお盆に乗せると「いってきます」と言って、再び店の中を進んで行った。
この食堂では配膳や接客を叔母二人が、キッチンの中での調理を青葉の両親が担当している。
志朗は今回、叔母二人と共に配膳と接客をすることになった。
青葉はキッチンの奥でひたすら洗い物をしている。
そのため仕事中はほとんど青葉と話す機会はない。
—早く風景探しに行きたいな。
そんなウズウズとした気持ちを抑えつつ、志朗はお店の中を笑顔で歩き回った。
「お疲れ、志朗〜。ありがとうな!」
「こちらこそ。賄いまでもらえて助かるよ。休みの日は昼、寮の食堂やってないからさ」
午後三時、やっと客足が落ち着くと志朗と青葉は食堂を出て近くの橋に座った。もちろんその橋にも欄干はない。ブラブラと橋から足を出していると、その下をカヌーが通っていく。とても気持ちよさそうだ。
「しかし、今日はポカポカしてるから眠くなるねぇ」
「ポカポカって、おじいちゃんみたいだな志朗って。昼寝するか?」
「えぇ、しないよ。それより早く良い所ないか探しに行こう」
「何か描きたいものとかあるか?そういう目的みたいなものがある方が探しやすいじゃん?」
青葉はポケットからスマホを出すと、この辺りの地図を表示した。
「今いるのがこの辺な。少し下流の方に行くと、大きな公園があって花がいっぱい咲いたりしてるけど」
「・・うーん」
志朗は口元に手を当てて考える。
それから青葉に目を向けるとボソッと言った。
「・・あの橋・・」
「え?」
「青葉が撮った写真の中で、橋が写ってるやつがあったんだけどその橋が描きたいな」
「橋〜?橋なら俺結構撮ってるよな?どれだろ」
青葉は地図の画面から自身のSNSのページに画面を変えると、指でスクロールし始めた。
「いや、もう載ってないはずだよ。俺も見たのは数回だけだけど、気がついたらその写真無くなってたから」
「えー。俺基本的に一回載せたら削除はしないようにしてるんだけどなぁ」
眉毛をハの字にしながら青葉は画面をどんどん下げていく。
「橋のどんな写真?遠くから撮ったやつかとか、季節とか」
「・・冬。冬の写真」
青葉の指がピクリと震えて止まった。
「・・・」
「それから遠目から橋を撮ってた。橋の上には人影があって」
「あ、あー。それな!」
パッと顔を上げると、青葉は明るい笑顔で言った。
「寒そうな感じしか伝わらないから人呼ぶには向いてないと思って消したんだ!忘れてたわ!」
「そうなの?俺は、あの写真がキッカケで青葉のSNS見るようになったんだけど」
「え・・ま、まじ?」
「うん。田舎の風景を検索してた時にたまたまあの写真が出てきて。寒そうで寂しそうで、でも綺麗だなって思ったんだ」
「・・・」
「でもいつの間にか無くなってたから、何か理由があって消しちゃったのかなと思って青葉には聞かなかったんだけど」
「あ、いや。本当消したことには大した意味は無いんだけど・・でも、そっかぁ。あの写真志朗が見てたのかぁ」
なんとなく困ったような顔をして青葉が頭を掻く。
「もう一回見たいなって思ってた。今、青葉のスマホにあの写真入ってる?」
「・・いや、あれ2年くらい前の写真だからもう消しちゃったかも。俺的にも失敗だなって思ったし」
「・・・そう、なんだ」
志朗は肩を落とすと、残念そうに下を向いた。
薄く朝靄のかかった先に一本の橋が写った写真。
後ろに広がる山々には色味がなく、橋の下を流れる川の水も灰色でまるでモノクロ写真のようだった。
あの写真を見たのは確か中学二年の終わり頃。周りの声に愛想笑いをしながら煩わしさを感じていた時。
ピンと張り詰めた寒い冬の朝に橋を渡る一人の人影は、寂しそうだけれど綺麗でとても印象的だった。
自分も、この写真の人物のようにこの場所で一人になりたいと思った。
それから気がつけばあの写真に付けられていたキーワードの『萩亥佐』で検索することが増えていった。
いつか行ってみたい、ここに。
そう思うようになったのだ。
「写真はないけど、あの写真の橋のところに行ってみるか?」
俯く志朗を覗き込むようにして青葉が言った。
「ここからなら歩いて20分くらいだし。もう少し上流の方なんだけど」
「・・うん。行ってみたい」
志朗は顔を上げると、ニコリと笑って頷いた。
「て言うか、ここに来てから探しには行かなかったのか?あの橋」
二人で横に並んで歩きながら青葉が聞く。
「探そうとは思ったんだけど、どの橋も似ててよくわからなかったんだ。写真もうろ覚えだったしね」
「あぁ。まぁ、そうか。わかりずらいよなぁ!」
ははっと笑いながら青葉はドンドン大股で歩いて行く。
それから少し行くと、一本の橋が見えてきた。
全長は三百メートルくらいだろうか。丸みを帯びた橋桁がそれを支えるように川から生えるように並んでいる。
「この橋だよ。ここは幅が狭いから車は通行禁止なんだ」
「へぇ、たしかにこの幅だと車はギリギリだね」
志朗は青葉の説明を聞きながら橋へと近づいていった。
「・・水が綺麗だ」
「おう。この辺りが一番水の透明度が高いって言われてるんだぜ。でも見栄えが良くて観光客に人気があるのはもう少し下流にある長い橋の方なんだけどな」
「あぁ。青葉と何回か写真撮りに行った橋だね」
「市のホームページとかに使われる写真もあっちの橋な。でも俺はここの方が好き。自然に馴染んでる感じがする」
青葉はそう言いながら橋に座る。志朗も同じように横に並んで座った。
橋全体が丸い曲線のフォルムで柔らかい雰囲気だ。青葉の言うとおり、人工物だがこの大自然に溶け込んでいるように感じる。
「今まで写真撮る時にこの橋は来たことなかったよね?なんで?」
「え・・あぁ、それは・・」
言い淀みながら青葉が目を泳がせた。
「・・ほら、やっぱりアピールするなら見栄えのいい橋の方がいいじゃん!ここは穴場みたいもんだし」
「・・えー。そうかなぁ」
「そうだよ、ここは他の橋に比べたら地味だからな」
青葉は視線を高くあげて大きく息を吸い込む。それからフーと長く息を吐くと懐かしむような顔をした。
「ここ来たの久しぶり。昔夏休みにこの橋から川に飛び込んで遊んだりしたけど、高校入ってからは来なくなったなぁ」
「へぇ、いいね」
橋から水面までは三メートルほどといったところか。確かにこの高さなら飛び込みも楽しめそうだ。
「じゃぁさ、今年の夏は遊びに来ようよ」
「え・・」
にこやかに言う志朗を青葉が見つめる。
「橋から川に飛び込むの、俺やってみたいな。去年の夏休みは実家に帰っちゃったから遊べなかったし。今年はなるべくこっちにいようと思ってるんだ」
「・・・」
「ね?飛び込み方教えてよ、青葉」
「・・お、おう!いいよ!来よう!」
青葉は目を見開いて笑うと力強く握り拳を作った。
昔なにかのテレビ番組で、橋から川に飛び込んで遊ぶ田舎の子ども達の映像を見たことがある。
子ども達のバックに広がる青い空とそこに湧き上がる白い入道雲のコントラストが綺麗だった。
それ以来、田舎の夏に憧れはあったのだが、去年の夏休みはほとんどの間東京に戻っていた。向こうからの強い要望があったからだ。
今年も帰って来て欲しいとは言われている。
けれど・・今年はここで、夏を過ごしてみたい。
「あれ?青空さんとこの子じゃない?」
後ろからキキっというブレーキ音と共に声が聞こえた。
振り向くと自転車に跨った一人の男性がこちらを驚いた顔で見つめている。
顔の皺や雰囲気を見たところ七十歳近くだろうか。しかし背筋はピンと伸びており、肌も健康的に日焼けしていて老人という言葉は似合わない。
「あ・・こんにちわ」
青葉は立ち上がると、男性の方へ近づいていく。
「久しぶりだねぇ。道耶が広島行っちゃってから、この辺り来なくなっちゃったでしょ」
男性は自転車に跨ったまま話し始めた。
「いやぁ、まぁ店の手伝いとか忙しくて」
珍しく青葉が遠慮がちな愛想笑いを浮かべている。
「そうそう、青空さんのところで仕出し弁当始めたでしょ。今度お願いしようと思ってね。ばあさんを少し楽させたくてさ」
「・・おばあさん、体調悪いんですか?」
「いやいや、買い物や料理する回数を減らしたいってだけの話だよ。道耶がいなくなって作る量は減って楽になったけどね」
「はは、そうですよね」
「じゃぁ、お父さん達によろしく。近々お邪魔させてもらうよ」
「はい、お待ちしてます」
青葉がペコリとお辞儀をすると、男性は自転車を漕いで橋を渡って行った。
それから再び青葉は志朗の横に座り直す。
「ごめんな、お待たせ」
「ううん、大丈夫。お店のお客さん?」
志朗が聞くと、青葉は頬をポリポリと掻きながら言った。
「中学の時の同級生のおじいちゃん。この橋渡ったところの先に住んでんの」
「そうなんだ。この辺りも同じ学区になるのかぁ」
志朗は青葉の家からここまでの道のりを思い出す。ほぼ一本道だが、ひたすら川に沿って坂道を登ってきたので遠くに感じた。
「この辺り中学1つだからなぁ。遠い奴は1時間近く歩いて来るのもいるよ」
「へぇぇ、それは大変だぁ」
徒歩通学一時間など志朗の地元では考えらない。思わず口の端を上げて笑う。
しかしその反応がまるで小馬鹿にしているようだと思い、志朗はすぐに口元を手で押さえた。それからチラリと青葉の方を見る。青葉は特に気にしていないような顔でスマホの画面越しに川を見つめている。
写真を撮る気だろうか。
志朗はホッと一つ息を吐いた。
今まで、自分の世界が常識だという顔をして無意識に驕り高ぶって暮らしていた。
それがなんて狭くつまらない世界だったかということを、ここに来て実感している。
けれどきっと、それもまた戻ってしまえば薄らぐのだろう。
貧しい価値観に固められたあの暮らしに。
「よし、あの辺りからこの橋見てみようか!」
青葉は橋から少し離れた茂みの方を指差す。
「え?」
「この橋全体と川が綺麗に見えるのがあの辺りなんだよ!ほら、行ってみようぜ」
そう言うと青葉は立ち上がって勢いよく歩き出した。
青葉が指差した辺りに来てみると確かに橋全体が見渡せる。
そしてふと、あの冬の日の写真が脳裏に甦った。
「あの写真もここで撮ったの?」
「・・うん。ここから撮った。寒かったなぁ、あの時」
懐かしそうに青葉が答える。
「やっぱりそうかぁ。うん、季節は違うけど、ここから見える景色はあの写真と一緒だ。思い出してきたよ。確かにあの橋だった」
志朗も改めて橋の方を見ながら嬉しそうに言った。
消されてしまったあの写真にもう一度会えたような気持ちだ。
ここから見た景色が、自分をこの場所に呼び寄せた。
「この橋の絵を描きたいな。ダメ?」
「・・・え」
「今の季節なら山の緑が川に写って暖かみもあるし、いいんじゃない?」
「・・・」
青葉は遠くの山々に目を向ける。それからコクンと小さく頷いた。
「うん。そうしよう。よし、そうと決まれば撮影だ!」
青葉はスマホを取り出し、カメラ機能を起動させる。
「志朗の描く絵、楽しみにしてるよ」
スマホの画面を見つめながら青葉が言った。
「うん、ありがとう」
志朗も隣から画面を覗き込むようにして答えた。
ーー
A4サイズの真っ白な紙に、少しずつ色を乗せていく。
見たままの色をだ。
一見、緑でしかない色もよく見ると複雑な色が混ざっていることがわかる。その複雑な組み合わせをそのままに乗せていく。
けれど塗りすぎないように、必要なところだけを。塗らなくていいところはそのまま残して、実際目には見えない光を作る。
そのままを描けばいい。
そう気づいたのは何歳の頃だったろうか。
フゥと息を吐いて色鉛筆を置くと、机の上の時計に目を向けた。
いつの間にか夜の十二時を回っている。
ーそろそろ寝ないとまた明日寝坊してしまう。
まぁ、そうなったら青葉が起こしに来てくれるだろうけど・・
そんなことをぼんやりと思いながら、描きかけの絵を見つめた。
空と山はほぼ描き終わった。
あとは橋と川の色塗りだ。
今回の風景はあの青葉が消してしまった冬の写真とほぼ同じ構図になっている。
違うのは季節と、人が写っていないことだ。
この橋にはモノクロな世界のイメージしかなかったのだが、改めて春に見てみると色鮮やかな場所であったことに気がつく。
手前には黄色い花も咲いていたので、それも後から描き込む予定だ。
モノクロの世界に色をつけていく。
あの寂しそうな写真に春を芽吹かせる。そんな作業をしているみたいでワクワクする。
けれど・・
そうしたらあの写真はどうなるのだろう。
上書きされて、自分の記憶からも本当になくなってしまうのではないだろうか・・
「どうかな?」
ゴールデンウィークが明けて数日後。
志朗は出来上がった絵を青葉の方へと差し出した。
自分の机に座ったまま青葉はそれを受け取る。
それからジッと絵を見つめていたが、次第にその目がキラキラと輝いていくのがわかった。
「すっ・・げぇ・・」
言葉を溜めるようにして感嘆の声を上げる。
「志朗すごいよ。本当すごい!綺麗に描けてるなぁ」
「ありがとう。青葉の写真のおかげだよ」
「いやいや、俺はただ撮っただけだから。マジで何もしてない」
顔の前で片手をヒラヒラとさせながら青葉が笑った。
「これで大丈夫ならまた動画撮りに行こうよ。梅雨に入る前にさ」
「え・・」
志朗の言葉に青葉の表情が一瞬固まる。
「あれ?これは青空食堂のSNSに載せない?」
「あ、いや!そうだよな!載せる載せる!ありがとうございます」
慌てたように深々とお辞儀をすると、青葉は顔を上げて言った。
「今日か明日の放課後どう?天気もいいし」
「今日でいいよ。何も予定ないし」
「なになにー?どこか行くん?」
二人が話していると後ろから栄一が入ってきた。
「うん。食堂のSNSにのせる動画撮りに行こうと思って」
「おぉー!また守月が描いたやつ?」
クラスメイト達は青空食堂のSNSを知っている。
桜の絵を載せてからすぐ、栄一達からあの絵は誰が描いたのかと青葉に質問があった。
絵を描くことを秘密にしていたわけではないので志朗が名乗り出ると、皆驚きと称賛の声を上げながら応援すると言ってくれた。
「今度はどこの絵描いたん?」
栄一が青葉の手元を覗き込む。
「この橋。栄ちゃんわかる?」
青葉は志朗の描いた絵を栄一に見えるようにかざした。
「うん?あー、あそこか!丸み橋!」
「丸み橋?」
志朗が青葉の方を見ながら首を傾げる。
「あそこの橋、丸み橋って言うの?」
「いや、正式名は違うけど俺らはそう呼んでる。なんか丸っぽいから丸み橋」
「なるほど・・」
志朗は自分の描いた絵を見ながら頷いた。
確かにシルエットは他の橋に比べたら丸みがある。
「丸み橋の方までわざわざ行ったんだ。あっちの方は店とかもないし用がないとあんまり行かないよな」
栄一がいつの間にか隣に来ていた風香に話しかける。
「そうだねぇ。私何年も行ってないかも」
「え、でも、夏はこの橋から飛び込んで遊んだりするんでしょ?」
「え?」
風香が驚いたように目を丸くした。
「丸み橋ではしたことないなぁ。飛び込んで遊ぶなら月見橋だよね!」
月見橋は志朗も知っている。高校からも比較的近く川の流れが穏やかな所に掛かっている橋だ。
「月見橋は広いから夏は地元の子ども達の溜まり場みたいになるんだよ。家や店も近くて大人の目が届きやすいから遊ぶなら月見橋って言われてたし」
「え、でも・・」
青葉は夏休み丸み橋で遊んでいたって・・
そう思い青葉の方に目をやる。
彼は眉尻を下げて笑うと、言い訳なのか誤魔化しなのかよくわからないことを言った。
「丸み橋は地味だもんなぁ」
それから仕切り直すかのように勢いよく立ち上がる。
「よし!とりあえず今日の放課後撮影な!きっとまたフォロワー数増えるぞー!」
「なんだよそれ。フォロワー増やすためにやってるんじゃないだろー?」
栄一が呆れたように肩を上げた。
「食堂と萩亥佐の宣伝のためだろ。自分の承認欲求のために守月利用するなよなぁ」
その言葉に志朗の心臓がズキンと音を立てた。
「何言ってんだよ、そんなわけないだろ」
青葉が眉間に皺を寄せる。
「大切なのはたくさんの人の目に留まることだから。志朗の絵の方が写真より見てもらえるから、だから協力してもらってるの。な、志朗」
「・・・うん」
口元だけ微笑みながら志朗は頷く。
先ほど痛んだ胸の辺りがまだモヤモヤとしている。
何を今更気にすることがあるのか・・今までだって当たり前のように割り切って過ごしてきたのに・・
「まぁ、それならいいけどさ」
栄一はフゥと鼻で息を吐くと、青葉の手元の絵を見つめた。
「萩亥佐が何かでドカンと話題になったらいいのになぁ」
「だからー、そのためにSNS頑張ってるんじゃん」
不貞腐れたように青葉が下唇を突き出す。
「今の時代、そうとう頑張らないとSNSもバズらないよな。だれかが芸能人にでもなるとかさぁ。あっ、そういや青葉、昔駅伝に出て有名になるって正月騒いでたよな!」
栄一がポンと手を叩いてニヤニヤと笑った。
その顔を見て、青葉は面倒くさそうに答える。
「あー。箱根駅伝見てね。出身校が出るからこれで注目されたら有名になるんじゃないかと思ったんだよ」
「青葉、昔足速かったもんね」
風香が机にぴょんと飛び乗るように座りながら言った。
「小学校の県大会も1回出たことあったし」
「1回な。上には上がいるってわかったから。陸上で名を馳せる野望はすぐに諦めた」
青葉が両手を上げてお手上げのポーズをすると、栄一が指をパチンと鳴らした。
「あれだ。あいつに期待しようぜ。深海!」
「ふかみ?」
聞きなれない名前に志朗が首を傾げる。
「そう。中学生の同級生で広島の陸上強い高校にいったやつがいんの。ほら、前に話した東京からきた転校生だったやつ」
「あぁ、なんかそんな話してたねぇ」
二年生になってすぐの教室で、栄一達が話をしていたことを思い出した。
とはいえ、その時はあまり興味がなく聞き流していたのだけれど。
「深海が転校してきて青葉無双も終わったよな」
「そうだったねぇ。それまでは青葉に勝てる子誰も居なかった。栄一なんていっつも鬼ごっこすぐ捕まってたし」
風香がクスクスと笑って栄一を肘で突いた。
「へぇ。青葉そんなに足速かったんだ。知らなかった。去年の体育祭は雨で中止になちゃったもんね」
志朗は青葉に向かって話しかける。
しかし青葉からの反応はない。どこか一点を見るようにしてやや視線を下げて黙っている。
「青葉?」
志朗が青葉の前で手をかざした。
するとハッと気がついたように青葉が顔を上げる。
「えっ!あ、そう!深海ね!足速かったんだよ!」
「ふかみ君の話じゃなくて、青葉が足速かったの知らなかったって話だよ」
ニコリと笑って志朗が言う。
「え・・あー、はは。いや、まぁ高校生になってまで体育で本気で走るのもなって思ってさ。それより、俺は早く免許取りたいかなぁ。あ、栄ちゃん春休みに取ったんだよな?」
話題を変えるように青葉が栄一に話を振った。
それからはみな原付バイクの話で盛り上がり始める。
この辺りでは移動手段が限られているので、原付バイクに乗れるかどうかは重要なようだ。
志朗はその様子を黙って見ていた。それから楽しそうな笑い声を上げる青葉に目をやる。
先ほどの様子はなんだったのだろうか。
『走るのが速かった』ことは、彼にとって楽しい話題ではなさそうだった。
あまり触れてほしくないのかな・・どうしてだろう・・
そこまで考えて志朗は小さく首を振る。
誰にだって話したくないことはある。明るく距離感の近い青葉でもあるのは当たり前だ。
それを詮索しようなんて自分らしくない。
深入りしようとするなんて、以前の自分なら考えられないことだ。
ブーブーとポケットの中のスマホが振動した。
画面を見るとメッセージがきている。
『志朗君のお兄さんのSNS見たよ!友達にも見せたらイケメンじゃんだって〜。東京戻ってきたらみんなでいいから遊ぼうね。』
そのメッセージに志朗は親指をたてたスタンプを送った。
最近、この手のメッセージには全てこれだ。
可もなく不可もなく。
感情があるようでない、ただの反応。
それでもこちらが何か返せば向こうは満足するのだ。
それでいい。
下手な好意も悪意も必要ない。
そっちの方がずっと上手くいく。
「あはは!やっば!栄ちゃんすげー!」
青葉の大きな声が聞こえて、再びそちらに目をやった。
目を細めて楽しそうに笑っている。
『利用するなよなぁ』
先ほどの栄一の言葉がふと蘇った。
その言葉に対して青葉は否定していたけれど、これから先どうなっていくのだろう。
知名度を上げるためだと欲が増していったとしても、変わらず彼はちゃんと否定するだろうか。
—明るくまっすぐで真面目な彼との関係が『利用』になるのは嫌だな・・
東京では思わなかった感情が湧き、志朗は胸を押さえた。
なんのためにここまで来たのか。
そうだ。ここではそういう煩わしいものから離れたくてきたのだ。
だからもし・・
もしも、青葉との関係がそういう物になってきたら離れなくては。
そうでなくてはここまできた意味がない。
でも・・
離れられるだろうか。
例えば『利用』されていると思ってしまったとしても。
彼が隣にいることが当たり前になり、居心地の良さを実感してしまった今、自分から離れることができるだろうか・・
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