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第6話

春休みの間だけ遊びに来ていた都会の子。 そう思っていた彼はまさかの転校生だった。 そのことが嬉しくて思わず「みっちゃん!」と叫んだら、みんなの前で盛大に無視されれしまった。 「まじでビックリした。青葉怖いもの知らず過ぎ。いきなりみっちゃんはないだろ」 職員室に向かう廊下を歩きながら栄一がため息を吐いた。 「えー!だって俺あいつ知ってるもん!ほら、春休み終わる前に会った迷子だったやつだよ」 「そんなことはわかってるよ。俺も初日の日に話しかけたし。『この間会ったよな』って。そしたらあいつなんて言ったと思う?『さぁ、俺は知らない』だぜ」 「本当に栄ちゃんのことは忘れてたんじゃないの?」 「だとしても言い方!あいつすげー無愛想だぜ。最初はみんな話しかけてやったけど、何聞いても一言で終わるし笑わないしさぁ。青葉のいない3日間で、もうあいつに関わるのはやめようって空気になったんだよ」 「えー。引っ越してきて緊張してるのかもしれないじゃん。わかった!じゃぁ俺が話しかけにいってみる!この間も結構話したんだよ!話すやつだってわかったらみんなの印象も変わるよな!」 「・・やるだけ無駄だと思うけどなぁ」 栄一は両手を頭の上で組むと呆れるような顔をして首を振った。 あの日、初めて深海道耶と会った日。 彼は笑うことはなかったが会話はしてくれた。 きっと転校してきて、まだ慣れない生活に戸惑っているのだ。 ここが道耶にとって居心地のいい場所になって欲しい。 そうなってもらうために道耶と仲良くなろうと青葉は決心した。 「なぁなぁ。俺覚えてるよな?みっちゃん!」 教室に戻るとさっそく道耶の席に行き明るく話しかける。 「みっちゃんのおじいちゃんの家まで案内した民屋青葉!いやぁ、昨日まで熱出ちゃっててさ!やっと今日から復活したんだけど」 「・・・」 道耶は黙ったまま上目遣いで青葉を見つめた。 釣り上がった大きな瞳で見つめられ思わずゴクリと唾を飲み込む。確かに無言でこの瞳で見つめられたら物怖じしてしまうのも分からなくはない。 「あっ!ほら、鈴のキーホルダーあげたじゃん!みっちゃん熊が出るかもって怖がって・・」 青葉がそこまで言ったところで勢いよく道耶が立ち上がった。 それから青葉の腕を掴むと教室の外へと引っ張っていく。 「えっ!?なになに?」 道耶はズルズルと人気のない廊下まで青葉を引っ張っていくと、口をへの字にして睨みつけてきた。 「・・俺は別に、怖がってない」 「へ・・」 「お前が言うほど熊を怖がってない」 「え・・あ、なんだよ!それ恥ずかしがってたの?怖がるのは大事なことだって父ちゃんは言ってたぞ。警戒心のない奴ほど自滅するって・・」 「・・・」 道耶はムスッとした顔のまま黙り込んでいる。 しかし青葉は道耶が話してくれたことに心が軽くなり、ニコリと笑って道耶の顔を覗き込んだ。 「・・なんだよ・・」 「いや、友達一人増えて嬉しいなぁって!な、みっちゃんあのおじいちゃんの家に住んでんの?家族で引っ越してきたとか?」 道耶はギロリと大きな瞳で一瞥すると、ボソッと呟くように言った。 「・・・違う」 「え?」 「俺だけじいちゃん家にきた。親は・・海外飛び回る仕事で落ち着かないから中学卒業まではここにいた方がいいだろうって」 「へぇぇ!海外!?かっけー!なんの仕事なの?」 「父親はカメラマン、スポーツ専門の。ずっと国内の写真だけだったのに今年から海外にも仕事広げたいからって・・母親は英語の先生してたけど通訳として父親の仕事に同伴するから、それで俺は母親の田舎に預けられることになった」 「へぇぇ!カメラマン!すげーー!」 なんだかオシャレな響きに思わず青葉は目を丸くする。 「みっちゃんはついて行きたくはなかったの?」 「一つの国に留まるわけじゃないんだ。子どもの俺がそれについていけるわけないだろ。それに俺は陸上やりたかったから。都大会にも一年生の時出たし。だから続けたくて・・できるなら東京に残りたかった」 道耶は悔しそうに唇を噛んだ。 「でも向こうで俺の面倒見れる人はいないから・・だから高校は寮のある陸上の強豪校に入ってもいいって条件もらって、ここに来たんだ」 「えっ!じゃぁみっちゃん高校生になったらいなくなっちゃうの?」 「受かればの話だけどな。けど俺は絶対に入ってやる。じいちゃん達に面倒かけるのも悪いから」 「えー。おじいちゃん達は孫と暮らせたら嬉しいと思うけどなぁ」 「今まで忙しいって理由で里帰りもしなくて、ほとんど会ったこともない孫だぞ。嬉しいわけないだろ。俺だって何話していいか分かんないし」 「・・そっかぁ・・」 青葉は肩を落として視線を下に向ける。 どうやら道耶がここに来たことは本人としてはかなり不本意なようだ。 萩亥佐を好きになってもらうのは簡単ではないかもしれない。 「なぁ、お前陸上部って言ってたよな」 青葉が俯いていると、道耶がぶっきらぼうに聞いてきた。 「え、うん。俺一人だけど」 「俺も入る。強豪校入るためにもちゃんと記録残したいし」 「っ!本当!?すげー嬉しい!ありがとう!」 パッと表情を輝かすと青葉はガシッと道耶の両手を掴んだ。 「俺さ!将来自分の走りで萩亥佐の名前を全国に広めるのが夢なんだ!」 「・・え、どういうことだ・・?」 「箱根駅伝とかさ!速い選手って出身校とか出身地とか紹介されるじゃん!あれで俺も紹介されて萩亥佐って名前の知名度をあげたいんだよ!だからみっちゃんがいてくれると心強い!」 「・・別に、俺はテレビに出ることは目指してない・・」 「でも速く走りたいって目標は一緒でしょ!だから嬉しいよ!一緒に練習する仲間ができて!」 青葉は力強く道耶の手を握って言った。 去年からずっと一人で活動してきた。 寂しくはなかったが、仲間と切磋琢磨して力をつけることに憧れはあった。 だから道耶が陸上部に入ってくれることは純粋に嬉しい。 それに同じ部活で活動すれば、彼にここの魅力を伝える機会も多くなるはずだ。 「よろしく、みっちゃん!」 青葉は満面の笑みで笑いかけた。 東京の大会に出るほどの実力とはいかほどのものか。 それを知る機会は早々に訪れた。 新学期すぐの体育の授業で百メートル走のタイムを測ったからだ。 「深海、13.1秒」 その数字を聞いて青葉は目を丸くする。 しかし当の本人の道耶は悔しそうに眉間に皺を寄せた。 どうやら彼の中ではベストのタイムではないらしい。 「あいつ、今すげー速かったな」 栄一も驚いた顔で青葉に話をふった。 「青葉は何秒だったんだ?」 「俺は、14秒・・」 声を落として言う青葉に栄一がフォローするように肩を叩く。 「いやいや、青葉も速いって。あいついなけりゃ青葉が一番だろ」 「でも、やっぱり全然ちがうよ。すごいな、みっちゃん。東京の大会出たって言ってたけど本当に速かったんだ・・」 驚きと尊敬、それから少しの嫉妬を滲ませながら青葉は道耶を見つめた。 今まで自分の足の速さには自信があった。 しかしそれは、この狭い世界での話だったのだ。 今まで自信に満ち溢れ満足していた自分が恥ずかしく感じられた。 「ねぇ、どうやったらそんなに速く走れるの?」 放課後、二人きりでの練習が始まった。 顧問の先生は一応いるが、最後に来るだけで基本は生徒だけで練習している。 青葉一人の時は、自分でタイムを測りひたすらトラックを走り続けていた。 「どうやってって・・そんなの練習するしかないだろ」 道耶は靴紐を結びながらぶっきらぼうに答える。 「それはそうだけど、もっとテクニックとかあるじゃん」 「・・陸上部の顧問によく言われてたのは、姿勢。あとは脚の振り方。踏むんじゃなくて跳ねるみたいに走れって」 「へぇ〜。跳ねるかぁ。なるほど」 小さく頷きながら立ち上がると、青葉はその場でピョンピョンと跳ねてみた。 「・・ウサギかよ」 呆れた顔で道耶は青葉を見上げた。 道耶は相変わらずクラスでは無愛想な顔で過ごしている。 青葉が話しかけても返事は一言二言だけだ。 しかし部活で二人きりになると、もう少し会話が増える。 なぜクラスでは口数が少ないのか尋ねたところ「もう出来上がってるところに入るのが得意じゃない」と道耶は答えた。 「ここはみんな小学校の頃から一緒なんだろ。そこに俺が入っていって変な空気にするくらいなら最初から入らない方が気が楽だ。元々俺は自分のこと話すのも得意じゃないし・・」 そう言う道耶の表情は少し寂しそうだった。 東京から引っ越してくる事自体本当に嫌だったのだろう。その上、両親は自分を置いて外国へと行ってしまった。 無愛想でわかりづらいが寂しくないわけがないのだ。 その不器用さがなんだか意地らしく見えて、青葉は道耶を支えてやりたいと思った。 せめて二人でいる時には、東京にいた頃と同じように過ごせるようになればと。 実際、道耶は少しずつ部活では砕けて話すようになっていった。 無愛想なことは変わらないが、全く話さないタイプではない。 聞けば答えてくれるし、青葉がおちゃらけた事をしたら唇の端を上げて笑ってくれる。 その変化が嬉しかった。 「青葉さぁ、あいつと二人で練習するの気まずくないの?」 教室で一匹狼のような顔で座っている道耶に目を向けながら、栄一がこそっと耳打ちしてきた。 「別に気まずくないよ。みっちゃん結構話してくれるし」 「えぇー、まじかよ〜。じゃあなんであいつ教室ではあんなに話しかけづらい顔してんだよ」 「あの顔がみっちゃんの素なんだよ。栄ちゃんも気にせず話しかけてみればいいのに」 そう言いながらも、本当は話しかけなくてもいいと思っている。 あの無愛想な道耶が砕けた表情を見せてくれるのは自分だけがいい、なんて変な独占欲が芽生え始めていた。 この地に馴染んでほしいと思っているはずなのに。 この矛盾する気持ちはなんなのだろう・・ 「青葉、このお弁当蛍見橋の近くのお家まで届けてほしいの」 日曜日の午後、従兄弟達の面倒も見終わり自分の部屋でのんびりとしていると母が風呂敷に包まれた重箱を持ってやってきた。 「お弁当?」 「そう。頼まれちゃってね。奥さんが病気しちゃって作るのも外食もできないって言うおじいちゃんから。今回は特別にってことだけど、こういう仕出し弁当やるのもいいかもね」 母は良い案が思いついたと言わんばかりにウキウキとした口調で言う。 「わかった、行ってくるよ。蛍見橋ね」 蛍見橋。丸み橋のことか。 ということは道耶の家の近くだ。 休みの日に道耶と会ったことはない。彼はスマホを持っているのだが、青葉は高校生になるまではダメだと親に決められている。そのため休みの日は連絡する手段もなく彼がどうやって過ごしているのかは知らなかった。 祖父母の家のことをあまり居心地良くなさそうに言っていたが、慣れてきただろうか。 こっそり道耶の家の近くまで行ってみてもいいかもしれない。 青葉は自転車のカゴにお弁当を入れると少し浮き足立つ気持ちで出発した。 丸み橋までは自転車を使えばあっという間だ。頼まれていたお弁当をお使い先に届けると、青葉は自転車を押しながら道耶の家の方へと向かった。 今は母方のお祖父さんとお祖母さんと三人暮らしのはずだ。お祖父さんは今も近くの山で木の伐採の仕事をしているらしい。 道耶の家が見えてくると青葉は丸み橋の手前で足を止めた。 よく考えたらなんの連絡もなしに行っては嫌がられるのではないだろうか。 それでなくとも道耶はあまり自分のことを聞かれたり探られたりするのが好きではないのだ。 橋を渡るのを躊躇っていると、道耶の家の方で人影が動くのが見えた。 青葉は咄嗟に丸み橋から離れるように後ずさる。 それから少し離れた場所に茂みを見つけると、そっと腰を屈めて隠れるようにして橋に目を向けた。 誰かがリズミカルな動きで走ってくる。 その無駄のない軽やかな姿で遠くから離れていてもすぐに誰だかわかった。 道耶はこちらには全く気がつくことなく、橋の上を走っていく。 半袖短パンに、腕にはストップウォッチ代わりの腕時計がついている。 その雰囲気からこうやって走るのが初めてではないことが窺えた。 思えば初めて道耶に会った時も走っている最中だった。 彼はこうやって時間を見つけては走り込みをしているのかもしれない。 青葉はその真摯な姿をただ茫然と見つめた。 自分にはないその真剣でひたむきな思いの強さに心がジリジリと焼かれていく。 自分が情けなく恥ずかしい気持ちになり、この場から離れたくもなったがなぜだか道耶から目が離せなかった。 彼が見えなくなるまで、その綺麗な姿を見つめていた。 それから、青葉は休みの日になるとこっそり道耶の家の近くまで行くことが多くなった。 何時ごろに道耶が走りに出るのか、彼なりの決まりがあるのか気になって朝から様子を見に行ったりもした。 道耶は一日に二回。早朝と夕方に走りに行くらしかった。 それがわかると青葉はまず朝起きてすぐに丸み橋へ行き近くの茂みに隠れて道耶が出ていくのを見送るようになった。 それから家に帰ると、食堂で働く叔母たちに代わって従兄弟達の相手をし、夕方になるとまた丸み橋の方へと行き道耶が走りに出るのをこっそり見つめる。 気がつくと、それが青葉の休日の過ごし方になっていた。 万が一見つかった時に言い訳できるようにと、母親から借りた使っていないスマートフォンを持ち写真を撮りながら道耶が出てくるのを待つ。 そんなことをしているうちに写真はどんどん貯まり、何かに使えないかと思いついたのが今のSNSだ。 走ることで萩亥佐の名前を広めたいなんて、甘い考えだった。 上には上がいる。道耶を見ていると自分など肩を並べるのも無理だ。 彼の走る姿を見つめているうちに、その現実に気がついた。 だから萩亥佐の名前を広めるための手段は別で考えよう。 誤魔化しのために撮っていた写真をボーッと見ながら考えている時に、SNSで写真を載せることを思いつき始めてみることにした。 これで堂々と外で写真を撮る言い訳にもできる。 あのSNSは萩亥佐のため、と言いながらも自分のためでもあった。 「食堂のSNS始めたんだってな」 夏休みまであと三日となった放課後、いつものように練習前の準備運動をしていると道耶がぶっきらぼうに言ってきた。 「えっ!あぁ、うん。みっちゃんに言ってなかったっけ?」 なんてとぼけた様な顔をしてみせたが、道耶にはわざと言わないでいた。 載せた写真にはあの茂みの近くで撮った写真もあり、隠れて見ていることがバレてしまうかもしれないと思ったからだ。 「お前からは聞いてない。じいちゃんがこの間食堂に行って聞いたって言ってた。萩亥佐を宣伝するためにお前が始めたんだろ。色々頑張るんだな」 「あぁ、まぁね。ほら、やっぱり今はSNSでバズるのが一番話題作りなるかなって。あー・・ねぇ、ところでさぁ・・お前じゃなくてそろそろ名前で呼んでくれない?」 話題を逸らすついでに、ずっと思っていたことを言ってみる。 「・・・民屋・・」 道耶は少し考えるように言葉を溜めてからボソッと呟いた。 「えぇー、距離感!みんな青葉って呼んでるんだから青葉でいいって!なっ、みっちゃん!」 「お前の距離感がおかしいんだよ。俺はそんな変な呼び方していいなんて言ってないからな」 「今更すぎ!俺が急に深海君なんて呼び出したら違和感すごいよ?!」 「・・・もう、勝手にしろ」 ハァと大きなため息を漏らすと道耶は下を向いた。 その横顔を見ながら青葉は頬を染める。 ソワソワと首筋を掻いてから、覚悟を決めると青葉は口を開いた。 「なぁ、みっちゃん。夏休みさぁ、暇な日は遊ばない?」 何気ない雑談のような口ぶりで言ってみる。しかし心臓は今にも口から飛び出しそうだ。 「夏休み?」 道耶が大きな瞳をこちらに向ける。 「そう!夏はさぁ、みんなで橋から川に飛び込みとかしてんの!楽しいよ!みっちゃん泳げるならやろうよ!」 「・・泳げるけど・・」 そこまで言って道耶は口を噤む。それから一呼吸置いてボソッと言った。 「みんなで遊ぶとかはいい。面倒くさい」 「みっちゃん・・」 転校してきて三ヶ月が経つが今だに道耶はクラスでは一人でいる。 必要なことは話すがそれ以外で余計なことは言わない。 クラスメイト達もその距離感に慣れしまったようだ。 「・・あっ!じゃあさ!みっちゃんの家の近くの丸み橋で遊ぼうよ!あそこはみんな来ないからさ!」 「え・・」 「な!二人でならいいじゃん!俺が飛び込み方教えてあげる!」 「・・・まぁ、それならいいけど」 少し考えるような顔をしてから、道耶はふいっと視線を逸らして答えた。 青葉は嬉しくなり鼻から大きく息を吸い込んだ。 夏休みになったら道耶と会える回数が減ってしまう。だから遊ぶ約束を取り付けようと決めていたのだ。 道耶が承諾してくれてよかった。しかも二人きりの方がいいだなんて。 その特別感に青葉の胸はさらに高鳴った。 夏休みは青葉が期待していた以上に楽しい日々となった。 丸み橋近くの川の水は特に綺麗で、太陽の光が反射してキラキラと輝いている。初めて飛び込んだ時、その水の透明度に青葉はとても感動した。 道耶も最初こそ躊躇っていたが、川に飛び込むことに慣れてくるといつもよりも柔らかい表情で笑うことが多くなった。 朝から川で遊び、時々宿題を橋の上でやり、終わったらまた川遊びをしてと、一日中遊んで過ごす。 道耶と二人で過ごす夏休みは、まるで現実味のない夢のような時間に感じられた。 「青葉さぁ、夏休み中従兄弟の面倒見過ぎじゃない?全然遊べなかったじゃん」 「ごめんごめん!夏休みは食堂忙しくてさぁ」 新学期が始まり栄一が不満そうな顔でやってきた。 道耶と二人で遊ぶことを優先したくて、栄一や他の友人からの誘いは嘘を言って断っていたのだ。 「あーあー。せっかく凪ちゃんがスイカとか持ってきてくれたのにさぁ」 「俺がいない分多く食べられたじゃん!」 栄一の頭の中はいつも凪が中心なのだなと、青葉は思いながら笑う。 しかしふと、それなら今自分の頭の中は道耶中心に回っているのではないかということに気がついた。 栄一が凪に夢中な様に、自分も道耶に夢中になっている。 青葉はチラリと道耶の席に目をやった。 道耶は眠るように机に突っ伏していて顔は見えない。 しかしその姿を見ただけでも心臓が速くなるのを感じた。 きっとこれが『恋をしている』ということなのだろう。 そのことに気づてからというもの、道耶との部活は緊張と喜びでいっぱいだった。 よく見られたい、もっと話したい、笑った顔が見たい。 道耶のちょっとした言動に一喜一憂する日々が流れていく。 道耶とどうにかなりたいわけではない。 ただ一緒に、二人で過ごせたら嬉しい。 それ以上に望むものはなかった。 けれど・・ その日々は突然終わった。 もうすぐ冬休みに入ろうという中学二年の十二月、道耶が陸上部をやめると言ったのだ。 「・・な、なんで?どうして?」 青葉は思わず道耶の腕を力強く掴む。 「・・部活やってなくても、授業の記録で大会には出られるみたいだし。推薦通らなかったら自力で受験して入ればいい。部活を必ずやらなくてもいいと思ったんだ」 「で、でも部活やってた方が絶対有利ではあるじゃん!?辞める必要もないだろ?」 「・・・俺が、部活やってるとばあちゃん達に迷惑がかかるから・・俺は居候させてもらってるだけだから、ばあちゃん達の生活に合わせないといけない」 「・・なんか、おばあちゃん達に言われたの?だったら俺から言ってやるよ。部活やらせてあげてくださいって・・」 「いい!余計なことすんな!」 青葉の言葉を遮る様に道耶が大きな声で言った。 「もともと俺がきて無理させてたんだ。俺はあと一年後には出て行くんだから、それまでは迷惑にならないようにここにいる」 「・・・」 眉尻を下げて青葉は悔しそうに下唇を噛んだ。 何とかして止めたいのに、どう言えばいいのかわからない。 そんな青葉を見て、道耶は小さく息を吐くと踵を返してボソリと言った。 「だから、もうお前も俺に構うなよ。あと一年で俺はここからいなくなるんだ。出て行きやすいように、俺はもうあんまり人と関わりたくない」 「え・・みっちゃん・・」 「いいか、わかったな。もう俺に話しかけるなよ」 道耶は反対を向いたまま言うと、そのまま早足で歩き出した。 遠くなっていく背中を見つめる。 何か言わなくては・・そう思うのに、道耶の決心を変える力は自分にはないような気がして、そしてそれを突きつけられるのが怖くて青葉はただ黙ったままその場に立ちつくした。 仲良くなれたと感じていたのは自分だけだったのか・・ 毎日が楽しくて輝いて見えたのも・・ 道耶と過ごした日々の一瞬一瞬を思い出して胸が締め付けられた。 それからすぐに冬休みに入り、道耶に会えない日が続いた。 道耶は今何をしているのだろう。どんな風に過ごしているのだろう・・ 道耶のことを考えては、大きなため息をつく。 青葉は居ても立っても居られなくなり、自転車に乗って丸み橋の方まで行くと遠くから道耶の家を見つめた。 今は正午前だ。道耶は家にいるのだろうか。 ボウっと眺めていると、後ろから自転車のブレーキ音が聞こえた。 ハッとして振り向くと、初老の男性が自転車に跨ってこちらを見ていた。 「あ・・・」 「あぁ、道耶の友達の。たしか青空さんの所の子でしょ」 青葉が言葉を発する前に男性が笑いかけてきた。 「そうです・・こんにちわ・・」 青葉は小さく会釈をした。 夏休み、丸み橋で遊んでいる時に何回か会った道耶の祖父だ。今もまだ現役で働いているため、冬でも肌は黒く腕も力強さを感じる太さだ。 「道耶なら家にいるんじゃない?遊びに来たの?」 道耶の祖父に聞かれ、青葉は慌てて首を振る。 「あ、違います。その・・たまたま通りかかっただけで・・」 それから少し間を置いてから、改めて青葉は道耶の祖父に目を向けた。 「あの・・道耶君、陸上部を辞めるって聞いたんですけど・・その、どうして・・」 「え・・あぁ。ちょっとね、うちの婆さんがまいっちゃってねぇ」 男性は頭をガシガシと掻きながら顰めっ面をする。 「・・具合、悪いんですか?」 「いやぁ、病気とかってのとは違うんだけどね。ほら、うちは娘が18で家を出てってから20年近く二人で暮らしてきたからね。もう暮らしのリズムが出来上がってたわけよ。そこに急にね、中学生の男の子を預かってくれってなって。男の子は育てたことなかったから、婆さんも色々気を遣ってねぇ。親に置いてかれた道耶を可哀想に思ってなんでもしてあげようって最初は頑張ってたんだけど、精神的に疲れてきちゃったもんで・・一回爆発しちまったんだよ」 「爆発?」 「道耶が悪いってわけじゃないんだけどね。部活で帰りが遅くなった日があって夕飯の時間が遅くなってね。そうするとそこから色々後の家事もズレてくる。限界がきてたんだよ。大きな声でね『あんたがきてから生活がめちゃくちゃだ』って叫んじゃって・・」 「・・・」 「少し落ち着いてから婆さんも道耶に謝ったしし、道耶も大丈夫とは言っていたけどね。やっぱり道耶なりに気を遣ったんだろうね。だから部活はやめることにしたんじゃないかな」 「・・そう、だったんですか・・」 青葉は道耶が部活を辞める時に言っていた言葉を思い出す。 あの時道耶が言っていたことは本心だったようだ。 『迷惑にならないようにここにいる』 そのために部活をやめることにしたのだ。 「まぁ、そんなわけだから。ごめんね。でも部活辞めても学校では仲良くしてやってよ」 「・・はい、そうですね」 口元に笑みを浮かべながらも、それももう拒否されているので無理だと心の中で首を横に振る。 道耶は本当に後一年でここから出ていく覚悟なのだ。祖父母に迷惑をかけていると感じたからこそ、その想いはきっと最初よりも強固なものになっている。 けれど・・後一年、ずっとそんな気持ちでいるのだろうか? ここにいると迷惑な存在と思いながら? そんなのは寂しすぎる・・ 青葉は冬休み最中の寒い早朝、自転車に乗って家を抜け出した。もちろん行き先は道耶の家の近くだ。 道耶が部活を辞めると言った日から、こっそり見に行くのをやめていた。 彼の走る姿を見たら『なぜ?』と問い質してしまいそうだったからだ。 青葉は丸み橋に着くと、いつもの茂みの中に身を屈ませた。 道耶が走りに出るのは朝六時半頃だ。 悴むような寒さに手を擦り合わせながら、青葉はジッと橋の先を見つめる。 すると人影が動くのが見えた。 その人影がリズミカルな動きで少しずつこちらに向かってくる。 丸み橋の周りは朝霧に包まれ、そのシルエットはなかなかハッキリとしない。 けれどピンと綺麗に伸びたその姿勢で誰かは明白だった。 青葉はゴクリと一回生唾を飲み込むと、スマホのカメラを構えた。 そして朝霧に包まれながら橋の上を渡ろうとした瞬間、素早くシャッターをきる。 それからほどなくしてまっすぐ前を見据えたままの道耶の顔がハッキリと見えた。 ドクンと心臓が大きく高鳴る。 わかっていた。見てしまったら忘れることはできない。無くすことはできない。 道耶へのこの焦がれるような熱情は、 突き放されたって消すことはできないのだ。 青葉はスマホに保存された写真を見つめた。 自分で言うのもなんだが、とても美しく撮れた。 モノトーンのような風景に浮かぶ白い朝霧。その中で綺麗な姿勢の人影が一つ。 遠目に撮った写真だから誰かはわからない。 けれど、この被写体になった人物自身なら気がつくかもしれない・・ 「・・・」 それは、自分でもちょっとした賭け事のようなものだった。 道耶はスマホを持っている。 青葉のSNSを見ているかはわからない。けれどもし・・もしも見ていてくれているのならば・・ 応援していると、見守ってると伝わったらいい。 そんな小さな願いを込めて青葉はこの写真をSNSにあげた。 新学期が始まると、道耶は相変わらず教室では机に突っ伏した状態か、気怠そうに窓の景色を見ていて視線が合うことはなかった。 SNSにあげた写真も誰からも反応はない。 道耶に届いていればいいと思ってあげた写真だ。 けれどだんだんその写真が侘しいものに見えてきて、数ヶ月後青葉はたまらずそれを削除してしまった。 それからの日常にも何も変化はなく、開いてしまった道耶との距離は埋まらないまま彼は広島の高校への進学が決まりあっという間に卒業となった。 ただ一言、何事もなかったように声をかけたい。最後なのだから。 そう思いながら卒業式を終えた道耶の背中をじっと見つめる。 けれど、どうしてもその一言が出せない。彼の姿を見るだけでこんなにも身体が緊張してしまう。 『元気で頑張れよ』と言いたいだけなのに。 青葉は小さく息を吐くと、くるりと体の向きを変えた。 ーもう、いい加減諦めよう。 そう思って一歩踏み出したところで「なぁ・・」と後方から声をかけられた。 ドクンと心臓が大きく跳ねるのを感じながら青葉はゆっくり振り返る。 大きく釣り上がった道耶の瞳がこちらを見据えていた。 「萩亥佐に、人が集まってくるといいな。食堂のSNS頑張れよ」 道耶はぶっきらぼうにそう言うとすぐに踵を返す。そして青葉の返事を待たずに歩き出した。 「あ・・ありがとう!みっちゃんも、頑張って・・!」 青葉は間に合うようにと大きな声で道耶の背中に叫んだ。 道耶は少しだけこちらに視線を向けるとコクンと小さく頷く。そしてそのまま何も言うことなく行ってしまった。 道耶に会ったのはそれが最後だ。 彼がいつここを出て行ったのかは知らない。 お別れを言いたくて丸み橋の方まで何回か行ってみたが、会えることはなかった。 彼がいなくなって一年が経った。 あんなに夢中で追いかけていた日々が嘘のように今は穏やかに時間が流れていく。 彼がいた日々は幻だったのではないかと思えてくるほどだ。 けれど、ぽっかりと空いたこの胸の虚しさが現実だったのだということを教えてくれる。 今はただ、彼が元気でやってくれていればいい。ここにいた頃よりも自由に、心の重しから解放されてあの綺麗で伸びやかな姿で走っていることを祈っている。 消えることのない自分の寂しさなど、彼は知らなくていい。

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