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第7話
不快な振動音で目を覚ますと、志朗はまくらに顔を埋めたまま音の先を手で探った。
冷たく硬い板に指先が触れると、ぼんやりとした頭で画面に目を向ける。
それから小さく息を吐いて通話のボタンをタップした。
「もしもーし・・」
『まだ寝てたのか?今日は土曜日だろ、どっか行ったりしないのか?』
少し不機嫌そうな声がスピーカーから聞こえてきて、志朗は目を瞑ったまま答えた。
「土曜日だからゆっくりしてるんだよ。兄貴こそ仕事中じゃないの?」
『仕事の合間をみて電話してるんだよ。母さんから聞いた。本当に今年の夏休みは1日も戻って来ない気なんだって?』
「うん。今年の夏はこっちで過ごしてみたいなぁと思ってさ。川とかめっちゃ綺麗だよ。兄貴も来てみなよ」
『そんな暇あるわけないだろ。なぁ、数日でもいいから帰ってこいよ。みんな寂しがってるぞ。母さんなんて最近食欲ないって言ってるし』
「・・うーん。でもなぁ」
さも親思いの発言をしているが、本心はわかっている。
『店長も志朗に頼みたいって言ってんだ。志朗がモデルやってくれると来店率上がるんだよ』
やはりそっちか。そう思いながら志朗はゆっくりと起き上がり、頭を掻きながら言った。
「春休みにやったじゃん。そろそろ俺恥ずかしくなってきたしやめ時じゃないかなぁ」
『え、本気で言ってる?頼むよ、ちゃんとモデル代も出すからさ。それにそっちじゃカットモデルしてることはバレてないんだろ、ならいいじゃないか』
「・・ちょっと考えるけど・・期待はしないで」
食い下がる兄との会話が面倒くさくなり、志朗は一方的に電話を切った。
それからノロノロと部屋を出て、寮の洗面所で顔を洗う。
正面の鏡を見つめると、髪の毛は寝癖でピョンと跳ねていた。
春休みに兄の働く東京の美容院で染めてもらった髪の毛は、だいぶ色も落ちてきた。
別にこの色にして欲しかったわけではないから、どうでもいいのだけれど。
兄が美容院の先輩の独立に付き合い、引き抜きされる形で今の店で働くことになったのは四年ほど前のことだ。
少人数のスタッフで始めた店舗を宣伝するためと、兄からSNSであげるためのカットモデルを頼まれたのもちょうどその頃だった。
最初は軽い気持ちで受けてしまった。それが間違いだった。
何をキッカケに広まったのかはわからないが、気がつくと志朗の写真は多くの人の目に留まり兄の美容院にはSNSを見てやってきたというお客さんが増え始めたのだ。
学校でもクラスメイト達からまるで芸能人のような扱いを受けるようになり、今までただ平穏に過ごしていた日常が落ちつかないものとなった。
『かっこいい』『素敵だね』と素直に褒めてくれることも多かったが『ナルシスト』『承認欲求の塊』と悪意ある声も聞こえた。
それが今まで仲がいいと思っていた友人達の陰口だった時には志朗も落ち込んだ。
それでも怒るよりは聞き流すほうが楽だと思い、志朗は聞こえないふりをして笑うことにした。そうやってあえて一見壁を作らないようにして、自分の立ち位置を守ったのだ。
それから『好きでやっているわけではない、仕事を頑張っている兄のためだ』ということをアピールすると悪意ある言葉は減っていった。
しかし今度は少しずつ私欲のために近づいてくる友人が多くなった。
まるで自分は『客寄せパンダ』か『アクセサリー』にでもなったのかのような気分だった。
みな『守月志朗と遊びたい』とのではない。『守月志朗と遊んでいる自分』をアピールする機会が欲しいのだ。
けれど、それだって自分としてはやることは何も変わらない。ただ自分は友人と遊んでいるだけだ。
自分がそれで楽しいのならば、友人が求めているものはどうでもいい。
『利用』されていても、そんなことには気づいていないふりをして笑っていればいいのだ。
それで全て上手くいくのだから・・
そう自分に言い聞かせて過ごしていた。けれどそうやって過ごしていたら、周りの声が表情が、全て嘘のように思えてきた。
だからあの煩わしい場所から抜け出した。
もう一度、まっさらな状態に戻るために。
そしたらきっと、誰かがまた、嘘のない笑顔を向けてきてくれると・・
部屋に戻ると、またもやバイブレーションの音が響いていた。
また兄貴かと思いスマホを手に取ると、そこに表示されていたのは別の名前だった。
その文字を見て思わず頬を緩ませながら志朗は電話に出た。
「もしもしー。なに?」
『あれ?今日はもう起きてたのか?』
青葉が意外そうな声をあげる。
「俺だっていっつも寝てるわけじゃないよ〜」
とはいっても数分前まで寝ていたのだが。
『なぁ、志朗今日暇?今から遊びに行かない?』
「今から?」
『おう!天気見たか?今日は真夏日だって!梅雨も多分今日には明けるっぽい!だからさ!
夏休みまだだけど、やりに行こうぜ』
「やりにって、何を?」
『だから!飛び込み!』
電話の向こうの青葉の声はやけに高揚していた。
ドボンと大きな音と共に冷たい水が降りかかった。志朗は一瞬目を細めたが、すぐに川面に目を向ける。
一瞬姿が消えたかと思ったが、すぐに水の中から青葉が顔を出してきた。
「ほら、志朗もこいよ!」
青葉は楽しそうに立ち泳ぎをしながら手招きする。
志朗は橋のギリギリの所に立ち下を見つめた。
泳ぐことは出来るが、飛び込みはしたことがないことに気がつく。
それどころか、プール以外で泳ぐこと自体初めてかもしれない。今日は流れも穏やかで、川で泳ぐことに問題はないようだが少し緊張してしまう。
「大丈夫だって!まずは足から真っ直ぐ飛び込んでみな!」
青葉の言葉に志朗は小さく頷く。確かに足からなら怖くない気がした。
呼吸を整えてから、一回大きく息を吸う。
そして覚悟を決めると、強く地面を蹴って勢いよく前へ飛び出した。
一瞬のうちに体は冷たい水の中に落ちていき、頭まで沈んだところで志朗はパッと上を向く。
そして水をかいて空気を求めるように川面から顔を出した。
横を見ると青葉が嬉しそうに笑っている。
「やったー!志朗いけたじゃん!どう?気持ちよくない?」
「・・うん、すごく気持ちいい・・」
口ギリギリに冷たい水を感じながら、志朗は呆然とした表情で言った。
初めての体験に思考が追いつかない。
取り繕う必要のない興奮を感じて、志朗は空を見上げた。
青く澄み渡った空だ。気がつけば蝉の鳴き声も聞こえてくる。
確かに梅雨が終わり、夏が来たのだと志朗は思った。
「あー。楽しかったなぁ」
まだ濡れたままの上半身に半袖シャツを羽織ると、青葉は足を投げ出して橋に座った。
あれから二人は何回も飛び込みを繰り返し、終わる頃には志朗は頭から余裕で飛び込めるくらいになっていた。
「うん。すごい気持ちよかった。誘ってくれてありがと青葉」
「よかった、志朗が大丈夫そうで!夏の間はいっぱい遊びにこようぜ!」
「うん」
志朗は目の前に広がる巳千川を見つめて頷いた。
何もかもが輝いて見える。こんな気持ちになったのは初めてだ。
「・・・」
ふと思い出したことがあり、志朗はチラリと隣に目をやった。いつの間にか大の字になって青葉がゴロンと橋に寝そべっている。
数日前、青葉から『深海道耶』についての話を聞いた。
『男の同級生のことが好きだった』と聞いて、全く驚かなかったわけではない。ただそれで不快に思うことはなかった。誰を好きになるかなんて、他人が口を出すことではないと思っている。
青葉は余程のことがない限り、人に嫌悪感を抱くタイプではない。誰のことも好きで誰もが平等で、そして誰も特別ではないのだ。
そんな青葉に夢中になられること。
それが羨ましいとすら思ってしまう。
青葉は道耶とこの橋から初めて飛び込んだ日のことを楽しそうに話していた。
きっと、今の自分と同じような気持ちだったのではないかと思う。
楽しくて輝いていて、まるで現実味のない時間。
ずっと続いて欲しいと願わずにはいられない瞬間。
けれど、青葉にはそれは叶わなかった。
青葉が今、道耶のことをどう思っているのか。それはハッキリとは聞いていない。彼の中で、寂しくとも思い出として変わっているのならいいのだが・・
そして、その寂しさを忘れさせてあげることが、自分に少しでも出来たらいいのに。
ーー
「なぁなぁ。夏休みバイトしたいやついる?」
あと三日で夏休みが始まるというタイミングで、三登栄一がクラスメイト達に呼びかけてきた。
その声にいち早く反応したのは青葉だ。
「なに?栄ちゃんのお父さんの所?」
「そう。しかも今年は長期の団体利用が入りそうだから給料はずむって言ってたぜ」
「三登のお父さんどこで働いてるの?」
志朗が首を傾げて質問する。
「あれ、志朗知らなかったっけ?栄ちゃんのお父さんこの近くの宿泊所で働いてるんだよ。ほら、廃校を改装してやってるところ」
「あぁ、あるね。あそこかぁ」
志朗はぼんやりと記憶にある建物を思い浮かべた。
この学校から歩いて数分のところに、少し古びた建物がある。一見昔からよくある学校そのものなのだが今は改装して宿泊施設となっている。
旅館やホテルとは違うので、普段は学生の林間学校や合宿で使われることが多いと聞いた。
「三登のお父さんそこで働いてるんだ。バイトの募集は夏休みの間だけ?」
「そう!夏休み期間は合宿利用とかカヌーしにくるお客さん多いから忙しいんだよ。俺も去年は夏休みの間バイトしたんだぜ。今年も頼まれたんだけどさぁ・・今年はさぁ・・」
栄一はそこまで言うとモゴモゴと言葉を濁す。
すると栄一の言葉を代弁するように青葉が笑顔で言った。
「今年は凪ちゃん戻ってくるからたくさん遊びたいんだよな!」
「えっ!まぁ、まぁそうなんだよ!そう!だから俺の代わりに入れる奴探さなきゃで」
顔を真っ赤にして栄一が頭を掻く。
「青葉は食堂の手伝いがあるから無理だしさぁ。風香にはもう断られてるし。他に誰かお願い出来るやついないかなって思ったけど、みんな地元帰っちゃうよなぁ」
栄一はクラスメイト達の顔をぐるっと見回す。
少し困ったような顔をする栄一を見て、志朗はボソッと呟くように言った。
「・・俺、やろうかなぁ」
「えっ?!マジ?」
「うん。俺今年は地元帰るつもりないから。寮からも近いしお金稼げるならちょうどいいなぁ」
「おぉ!本当か守月ー!ありがとう〜!」
栄一が嬉しそうに志朗の腕を掴む。
「本当に今年は地元帰らなくて大丈夫なのか?志朗」
青葉が上目遣いでこちらを見てきた。
「うん、もう決めたから。大丈夫!」
志朗は青葉に満面の笑みを向けた。
この夏は、この場所で青葉と過ごしたい。
そして楽しい夏の思い出を作ってあげたい。
『深海道耶』のことを上書きできるくらいの・・
ーー
「なぁ、バイトは明日から始まるんだよな?」
青葉はびしょ濡れの体のまま丸み橋の上に胡座をかいて座った。
昨日から夏休みに入ったので、さっそく丸み橋に遊びに来たのだ。
待ち合わせは午前中の涼しい時間を選んだのだがすでに日差しは強く肌が痛い。
今日は飛び込む前にどんな絵を描くかだいたいの構図を決めようと話していたのに、青葉は我慢できず既に二回飛び込んでいる。
「うん。明日が初日。ちょっと緊張するなぁ」
志郎はまだ乾いた体のままスケッチブックを持って笑った。
「志朗なら大丈夫だって!うちの食堂の仕事もすぐ慣れてたじゃん!うちにも手伝いに来て欲しいっておばちゃん達言ってたぜ」
「本当?じゃぁ宿泊所のバイトがない日に行くよ〜」
「マジで?おばちゃん達喜ぶよ。でも働きすぎにならないように気をつけろよ。宿泊所のバイト結構入ってるんだろ」
「うん。でも基本的には朝と夜の食事のお世話らしいから。日中は予定があれば抜けてもいいって三登が言ってたよ」
「へぇ。結構融通きくんだな。じゃぁ昼はうちのランチのピーク過ぎたら遊ぼうぜ」
「うん。絵も描きたいしね」
志朗は橋に座りながら遠くの景色に目をやる。
大きく蛇行しながらゆったりと流れていく川が目の前に広がっていた。
「空の部分を多めにして、ここから見える川の絵を描きたいなぁ・・」
「え・・?」
ボソッと呟いた志朗の言葉に青葉が反応する。
「ここからの絵?」
「うん。今回は川と空がメイン。なるべく青を多く使った絵が描きたいなぁって」
「・・うん。いいんじゃない?夏っぽい気がする!」
「本当?じゃぁそうしよう!」
あの、冬に撮られた寂しそうな写真は『深海道耶』を撮ったものだった。
不思議と惹かれたあの写真は、青葉が道耶を惹きつけたくて撮ったものだ。
しかしそれに反応したのは、彼ではなく自分だった。
なぜあの写真に惹かれたのか。
もしかしたら青葉の寂しさに知らずと共感でもしてしまったのかもしれない。
彼の心からあの寂しさを取り除いてあげたい。
青葉にとって、この辺りの風景がモノクロから色鮮やかなものになるように、そんな絵を描きたいと思った。
ー
「仕事内容はこんな感じかな。じゃぁ今日の夕食からよろしくね、守月君」
栄一の父親に宿泊所での仕事を一通り説明してもらい、志朗は「はい!」と明るく返事をした。
これから夏の間働くことになる職場は、廃校を利用した宿泊所だ。教室を改装した十の部屋がある。トイレやお風呂は共用となるが、綺麗に改装されているなと案内されながら志朗は思った。
志朗の主な仕事は朝食と夕食の配膳と片付けだ。事前に栄一から聞いていた通り、間に空き時間が出来るらしい。
その間は一度宿泊所を抜けても良いし、お金を稼ぎたかったら宿泊所の手伝いをしてもいいと言われた。
「今日からね、二週間泊まる団体のお客さんがくるから忙しくなるんだよ。だから守月君に入ってもらえて助かった」
「へぇ〜。二週間!合宿とかですか?」
「そうみたい。初めてのお客さんなんだけどね。いつも使ってた合宿場所が今年使えなくなっちゃったから、急遽うちでお願い出来ないかって言われてね。他のお客さんも数組は泊まれる余裕はありそうだからOKしたんだ」
志朗と栄一の父親は宿泊所の玄関の方へと向かった。
「もうすぐその団体が到着する時間なんだけどなぁ」
そう言って栄一の父親が腕時計を見つめる。
「大学生の部活とかですか?」
志朗が聞くと栄一の父親は横に首を振った。
「いいや、高校生だよ。広島の高校の陸上部だって話さ」
「広島の高校・・・」
頭の中で何かが掠めたような気がして、志朗は下を向いた。
しかしすぐに車の走行音が聞こえ顔を上げる。
一台のマイクロバスがこちらに向かってやってきた。
志朗はそのバスの到着を黙って見つめる。
バスが宿泊所の駐車場に停まると、少ししてからゾロゾロと乗っていた人達が降りてきた。
確かに志朗と同世代のようだ。
みな日焼けした肌で体付きはほっそりとしている。
「お待ちしてました、ようこそ」
栄一の父親が言うと、先頭を歩いていた恰幅のいい男性がペコリとお辞儀をした。
どうやらこの部活の監督のようだ。
「どうもお世話になります。よろしくお願いします」
そう言う男性の後ろに部員達が次々と整列していく。
そして綺麗に並ぶと「よろしくお願いします!」と全員で息の合ったお辞儀をした。
さすが体育会系だなぁ、と志朗は口をポカンとあけてその様子を見つめる。
すると、一人の青年とふと目があった。
釣り上がった大きな瞳で見つめられ、睨まれているのかと思い身構えたがどうやら違うようだ。
青年はまるで志朗を観察するように上から下に視線を走らせた。
なんなんだ、一体・・
その視線に不快感を感じ、思わず志朗は眉間にシワを寄せる。
するとその時だった。
「おい!いくぞ深海!」
青年の肩を他の部員がグイッと引いた。
青年は「あぁ」と小さく返事をすると、こちらから視線を逸らし踵を返して歩き始めた。
志朗はその背中をジッと見つめる。
深海・・?
今、確かにそう言ったか?
志朗の心臓がドクドクと速くなりはじめる。
これは、不安だ。
不安からくる鼓動だ。
広島の高校の陸上部。
その部員の深海。
偶然の一致は、あるかもしれない。
そう。確定したわけではない。
けれど・・
彼があの『深海道耶』である確率の方がきっと高い。
なぜ、このタイミングでやってきたのだ。
彼のことを少しでも忘れさせたいと思ったこの夏に。
青葉に、会わせたくない。
知らせたくもない。
出来るならどうか。
青葉と過ごす夏を、邪魔しないでくれ・・
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