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第8話

この場所から出ていかなくてはと決意した時、真っ先に思ったことは離れがたくなるものを無くすことだった。 けれど、もうとっくに手遅れだったのだ。 ずっと心に引っかかったまま、見ないふりだけを続けている。 ーー 「うわぁ、やべぇー!本当に教室じゃん」 今日から泊まる部屋に入るなり、高尾が楽しそうに言った。 床は畳が敷かれているが、壁には黒板がついたままで確かに教室の面影が残っている。 「けど本当焦ったよなぁ。毎年使ってる合宿所、梅雨の大雨で土砂崩れにあって使えないってさぁ。今年は合宿なくなるかと思ったわ」 同じ二年生の宮原が大きなボストンバックを勢いよく置いて座った。 「なくなって欲しかったんじゃないのー、宮原君。去年途中で泣き言言いまくってたじゃん」 同じく二年の飯浜が宮原を揶揄いながら部屋に入ってくる。 「うっせぇ。さすがにもう慣れたわ!」 宮原は手に持っていたタオルを飯浜に投げつけた。 そんな様子を見ながら、道耶は自分のボストンバックを開ける。そこから必要な物を取り出すと、自分のバックを隅の方に寄せた。 今日から二週間、一部屋六人で過ごすことになる。 みな同じ学年で気心が知れているとはいえ、正直しんどいなと道耶は小さくため息をついた。 「なぁ、深海。深海がここを監督に紹介したんだって?」 自分の荷物をゴソゴソと探りながら飯浜が聞いてきた。 「えっ、そうなの?あっ、そういや深海は四国出身だっけ?」 宮原も自分の荷物を開けながら目を丸くする。 すると「中学がこっちなんだよ。出身は東京だよな」と道耶が答える前に高尾が得意げに返事をした。 「・・まぁ、そう。ごめん、俺ちょっとトイレ行ってくる」 道耶はすっと立ち上がると、部屋を早足で出て行った。 何か深く突っ込まれては面倒だ。 部屋から出るとまっすぐな廊下が続いていた。 思っていたよりも綺麗に改装されている。 道耶は窓の外に目をやった。 この建物のことは知っていたが、中に入ったのは初めてだ。 萩亥佐に来てすぐ、ランニングをしている途中この前を通ったのだが、まさか宿泊施設だとは思っていなかった。 というよりも、あの時は何も考えたくなくて無心で走っていた。 不貞腐れた気持ちでここにきたあの頃。 そんな時に出会ったのが青葉だった。 ーー 初めての土地で、ほとんど会った事のない祖父母と暮らし、知ってる人は誰もいない学校に通う。 正直かなりしんどかったが、それでも親に付いて海外を転々とするのは嫌だった。 走る事で結果を出す楽しさに夢中になっていたのだ。 ーカメラマンの仕事なら日本でも出来るだろ? ー母さんがついていく必要はあるのかよ? ー俺のやりたい事は優先してくれないのか? そんな不満で頭はいっぱいだった。 高校は寮のある学校に入る、という条件を取り付け日本に残ることを許してもらった。 高校に入るまでの二年間をなんとか乗り切ればいい。そんな捨て鉢のような気持ちで来たのが中学二年の春。 想像以上の田舎とぎこちない空気の祖父母との対面に、来た瞬間から心が折れそうになり無心で走りに出た。 しかしそうして走ってるうちに道がわからなくなり、周りを見回した。 人は誰一人歩いておらず家もない。 あるのはただただ広がる緑の山々とその間を流れる大きな川。 昼間なのに暗闇に落とされたような気持ちで歩いていると、そんな闇に一本の光を刺すような明るい笑い声が聞こえた。 そちらを見ると、同い年くらいの少年が友人達と楽しそうに川にかかる橋の上で談笑している。 人に会えた・・ けれど、道に迷ったなんて言って馬鹿にされないだろうか。余所者の自分があそこに入っても大丈夫だろうか。 そんな不安な気持ちを抱えながら近づいていった。 『道を教えてください』の一言がどうしても言えず、思わず「そこ、通してください」などと冷たい言い方をして最初は通り過ぎた。 しかしこの機会を逃しては本当に家に帰れないかもしれない。 もう一度意を決して「道を教えてほしい」と話しかけたら、三人のうち先ほど楽しそうに笑っていた少年が案内をしてくれると名乗りを上げてくれた。 少し日焼けした肌に短めの黒髪で、まさに健康優良児といった少年だ。 彼は二人きりになると、すごい勢いで話しかけてきた。その距離の近さに戸惑い思わず顔を顰める。 もともと人見知りするタイプだし、大きな声で談笑するようなタイプでもない。 しかし最初こそ戸惑いはしたものの、不思議と彼と話すのが嫌ではなくなってきた。 ポンポンと跳ね返ってくる会話の球が心地よい。 熊が出ると聞いて不安になっていたら、鈴のキーホルダーをくれた。 何かの景品で正直デザインはダサかったが、心強いお守りをもらったような気がした。 不思議なやつ。 『民屋青葉』の第一印象はこれだった。 彼がここにいるなら、大丈夫かもしれない。 不安に思っていた転校のことも、少し前向きになれる。 けれどいざ転校した初日、学校に行ってみたら彼の姿はなかった。 それだけで気落ちし、すでに仲の良さそうなクラスメイトの輪に入れる気がせず机に伏せるようにして過ごした。 ーなんで自分はここにいるのだろう。 ーやはり親についていくべきだったのか。 そんな悶々とした気持ちで迎えた転校三日目。 「みっちゃん!」 曇り空を破るような明るい声が聞こえ声の方を振り向く。 驚きながらも嬉しそうに笑う青葉の姿が目に飛び込んできた。 あの時、本当は泣きそうだった。 それを悟られないように思わず顔を背けてしまった。 けれど、本当は・・ あの時から、青葉に心奪われていた。 青葉と過ごす日々は楽しく、捻くれた心がどんどん溶けていく。 なかなか素直にはなれず、かっこ悪いところを見せたくないと強がってみたりもしたけれど、そんな自分の滑稽な姿など何も気にせず青葉はニコニコと話しかけてきてくれた。 この地に来てよかったんだ。 なんて勘違いしてしまうほどに、青葉といる時間は楽しかった。 けれどそんな思い上がっていた日々は一年もしないで終わりを迎えた。 祖母のギリギリだった精神状態に気づかず、自分のことばかり考えて過ごしてしまった罰だ。 やはりここにいてはいけない。 ここに自分の居場所はない。気を遣って受け入れてくれた祖父母の生活をこれ以上狂わせてはいけない。 だから、ここから出ていかなくては・・ そう決心してからの一年はあっという間だった。何も見ていない、聞いていない。 そんなふりをして、高校入学に必要なことだけをして過ごした。 それから無事高校に合格し、萩亥佐を出る日。 ここであったことは忘れるんだ、そう言い聞かせてこの地を離れた。 けれど、高校に入学してからも毎日そう思いながら、気がつくとスマートフォンを取り出して検索してしまう。 『萩亥佐』というワードを。 たくさん並ぶ検索結果の中に必ず青空食堂のSNSがヒットしてくる。 出てくるとわかっているのに、わかっていないふりをして。偶然見てしまったような顔をしてチェックするのが、いつのまにか日課になっていた。 青空食堂のSNSの投稿の頻度はまちまちだ。 おそらく自信のある写真が撮れた時にアップしているのだろう。 新しい写真がアップされる度に、彼が元気に過ごしている姿を想像する。 それだけで、心が安らぐのだ。 あの時、突き放して悲しい顔をさせたのは自分なのに。 けれど、あの時はああ言うしかなかった。 絶対に萩亥佐から出ていかなくてはいけないと思ったから。 だから突き放した。 これ以上あいつといたら、離れられなくなる。離れたくなくなる。 自分の決心を鈍らせないために・・あの時はそうするしかないと思った。 だからせめて。 遠く離れたここで、あいつが元気にしているのが分かればいい。 そう思っていたのに。 だんだん欲が出てきてしまった。 『萩亥佐』のワードで検索すると、出てくるのは青空食堂のSNSだけではない。 『萩亥佐分校』と、それからこの宿泊施設のSNSが出てきた。 気がつくとこの限られたSNSの中であいつの姿を探すようになっていた。 どこかにいないか。元気にしているのか。 そんなことをしているうちに見つけたのだ。 『民屋青葉』の笑っている姿を。 『萩亥佐分校』のSNSには生徒達の様子が頻繁にアップされていた。 入学式、春の課外活動、体育祭。 正面を向いてハッキリ写っている写真は少ないが、横顔だったり何かをしている様子の写真はたくさんあった。 その中から、青葉の姿を見つけては胸がキュっと痛くなる。 楽しそうに、元気そうにしている。 それがわかって嬉しいはずなのに、そこに自分がいなくても大丈夫なのだと突きつけられている気持ちになる。 離れたのは自分なのに。 そうやって頻繁に見ているうちに、ある事に気がついた。 青葉の近くにはいつも同じ人物が写っている。 中学の時にはいなかった、知らない男子生徒。 彼は一体、誰なのか・・・ ーー 「あっ・・」 正面で声が聞こえて、道耶は窓の外からそちらに目をやった。 その瞬間、心臓がドクンと音を立てる。 綺麗な髪色の整った顔立ちの青年と視線が重なった。こちらをじっと見ている。 先ほど、到着してすぐに彼に気がついた。 もしかしたら・・と思い目が離せなかったのだ。 この顔を知らないはずなのに、よく知っている。 何度も、何度もスマートフォンの画面越しで目にしていたから。 道耶が一歩前に出ると、青年も一歩前に出た。それから柔和な笑顔をこちらに向ける。 「トイレですか?」 急に話しかけられ道耶は思わず足を止めた。 「え・・」 「トイレならこの廊下の奥です。お風呂と食堂は一階」 「・・あ、ありがとう、ございます」 「高校の陸上部なんですよね。2週間も合宿なんてすごいなぁ」 フワフワとした口調で話を続けられ、道耶は戸惑いながらも頷いた。 「まぁ・・毎年のことなんで・・」 「俺も高校生なんです。夏休みはここの短期バイトやることになって」 「・・高校生って」 そこまで言ってから一度ゴクンと息を飲み込む。 「・・そこの萩亥佐分校に通ってるんですか?」 「そう。よく知ってるねぇ」 「・・・」 やはり、間違いない。 萩亥佐分校のSNSで見た青葉の隣にいたやつだ。 道耶は思わず視線を逸らした。 この宿泊施設を監督に話したのは確かに自分だ。 『どこかいいところを知らないか?』と困り果てていた監督に聞かれ、SNSで何回か見ていたこの施設のことを言ってみたのだ。 しかしまさか本当にここに決まるとは思ってもみなかった。 車で五時間はかかるのだ。他にもっと良いところがあるに決まっていると思っていた。 だから・・決して戻ってきたかったわけではない。 祖父母にも萩亥佐に合宿に来ることは言っていない。帰る日に挨拶くらい出来ればいいかとは思っていたが、昔の同級生に会う気は全くない。 そう、会う気はない・・ ただ、心のどこかで見れたらいいと思った。 青葉の姿を、少しでも・・ でも、それだけだ。帰ってきてると知られたくはない。 「・・・」 道耶が伏目がちにして黙っていると、何かを察したのか青年がカラリと廊下の窓を開けた。 外の暑い空気が勢いよく入ってくる。 「ここ、山や川しかないけどいい所だよねぇ」 「・・・」 その言い方にふとした違和感を感じて道耶は目を向けた。 違和感だが、共感できる。 他所からここに来た者の言い方だ。 「俺、守月志朗。ここにいる間何か分からないことや困った事があったら言ってください。多分年も同じくらいだから話しやすいでしょ?」 そう言って志朗が右手を差し出す。 道耶はその手を見つめてから、おずおずと自身の手も差し出した。 「よろしくお願いします・・」 「よろしく。ねぇ、名前はなんて言うの?」 志朗はキュッと道耶の手を握ると首を傾げる。 「・・深海、道耶です。高校2年」 「深海君かぁ。俺も高2。タメだね!」 「・・・」 やっぱりな、と思いながら道耶は小さく頷いた。 「じゃぁ、夕飯は確か夜の7時からだよね。またその時に」 志朗はニコリと笑うと踵を返して歩き出す。 道耶は無言でその背中を見送った。 SNSの写真から想像していたよりも、ずっと穏やかで柔らかい雰囲気のやつだった。 ああいう明るく優しいやつなら青葉と気が合うのも納得だ。 そう思いながら、無意識に強く手のひらを握りしめる。 かつて自分がいた場所に、今は彼がいる。 取り返せないことはわかっている。自分から手放したのだから。 でも・・だからせめて・・ 教えてほしい。今青葉がどんな気持ちで過ごしているのか・・ どんなことを考えているのか。 昔、隠れたふりをして見ていてくれた、あの熱視線を。 今はもう他の誰かに注いでしまっているのか。 教えてほしい・・

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