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42 あの日のお礼

翌日から、相変わらず朝は早いけれど、夜は必ず夕食どきに帰ってきてくださるようになった。 もちろん、共に夕食をとり、お茶の時間にはマギーや殿下が差し入れてくれたお菓子を食べる。 おかげさまで僕の体重は、嫁いできた時よりも少しだけ重くなったらしい。 ヒートもくるといいな… 日中は、マナーや領地の勉強がひと段落して、今は少しずつ会計のやり方を学んでいるんだけれど、これがなかなか難しい。 そんなある日、僕は気晴らしに庭の草木を眺めていた。 フランツ邸では、腕の立つ庭師が中庭や生垣を管理しているので、眺めるだけでかなりリフレッシュになる。 「ごめんくださいまし」 不意にか弱い声が聞こえて、僕は声の方向に足を向けた。 不安そうな顔をした華奢な女性が、生垣から中庭を覗いていた。 「ど、どうなさいました?」 滅多にフランツ邸にお客様が来ることはない。 それに、正門から入れば誰かしらが受け答えするはずだけれど…? 「あ、こんなところから申し訳ございません。 フランツ侯爵家の使用人の方ですか?」 僕は、動きづらいからと、屋敷内ではかなり質素な服を着ていた。 使用人に見えても仕方がない。 夜会や社交会にも全然参加したことないから、顔も知られていない。 「あ、え、ええ。どうかしました?」 わざわざ夫人です、と訂正するのも憚られて僕は適当に頷いてしまった。 その言葉に、女性の顔が明るくなる。 「ああ、良かったです。 正門に向かったのですが、誰もお見えにならなくって…。 私、侯爵様にお会いしたかったのですが、なかなか王宮では会えず、せめて手紙だけでもお渡しいただきたかったのです」 そう言って彼女がカバンから薄桃色の可憐な封筒を取り出した。 「テ…、侯爵様に手紙を?」 僕が受け取るのを躊躇していると、さらに彼女は手紙を押し出す。 「はい!先日の夜会で気分が悪くなったところを助けていただいたのです! だから、せめてお礼をしたくて…」 ああ、こないだの…、と僕は思い至り、お礼の手紙ならと受け取った。 「今まで、侯爵様は恐ろしい方だとお聞きしていたので、あんなに親切にして頂いて…、私、もっと彼のことを知りたくなってしまったんです!」 僕は危うく手紙を落としそうになり、慌てて持ち直した。 それって…、テオドール様を好きになったってこと!? 「彼が既婚者だと言うことは存じ上げています。 でも、夜会にはお一人で来られていました…。 何かご事情があるのでしょうけれど、それなら私にもチャンスがあると思いませんか? あ、貴方は何かご夫婦についてご存知?」 あまりの喋り口に僕は圧倒されてしまい、「ぼ、僕は何も」と言ってしまう。 「そうですよね。 もしも、彼に悩みがあるなら、今度は私が助けたいと思いましたの。 お返事を下さるよう、伝えてくださらない?」 「あ、で、でも、侯爵様はあまり手紙を読んだり、書いたりするのが早くないみたいで 今も書簡が溜まっているんです…」 そう言うことにして、この手紙を隠してしまえないだろうかと、悪い考えが浮ぶ。 「でも、彼はきっと誠実な方でしょうから、読んではくださりますでしょう? 急がないので、確かにお渡しいただければ大丈夫ですわ。 あ!私、馬車を待たせていますの! それでは」 彼女はぺこりとお辞儀をするとさっさとその場を後にしてしまった。 どうしようと、手紙を眺める。 捨ててしまいたい… でも、僕も手紙を書いたから分かるけれど、読まずに捨てられてしまったら悲しい。 それに、これはテオドール様の優しさに対するお礼の手紙なのだ。 捨てることは、その優しさを裏切ることになる。 僕はその手紙を手に、踵を返した。 会計のお勉強をしなきゃ。 ふいにその手紙から甘やかな匂いがした。 あの日、彼がつけて帰ってきたΩの香りだった。

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