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親子

『子供から大人まで、幅広い年齢層を対象とした講座を実施します。未経験の方、大歓迎!』  一番太いペンを片手に、我ながら上手く書けたのでは? と、真里也は手書きのポップを見ながら自画自賛した。 〝博物館をたのしむ〟講座のひとつである今回のテーマは、水彩画をたのしむ、だ。 「これで準備は出来たな。あとは勝浦に任せるしかない」  勝浦は大学の友人で、日本画を専攻していた、グループ展示会のメンバーだ。  彼は大学では日本画メインだったが、水彩画も好んで描いている。高校までは水彩画ばかり描いていたらしいが、高校の終わりに心臓を貫かれるほどの、強烈な日本画絵師に出会って指針を変えたらしい。  大学では取り憑かれたように日本画を描きまくっていた勝浦だったが、大学卒業と同時に彼女と結婚して子どもが生まれてからは、また水彩画を始めた。そのことを知った真里也は、渡りに船だと思って講師を頼んだのである。  ──だってさ、小さな子どもが色鮮やかな絵を描いてたら、微笑ましいだろ──  仕事帰りに食事を一緒にしたとき、勝浦がそんなことを話していた。  お前のその理由の方が微笑ましいだろって、思わず突っ込んでしまったけれど。  まあ、理由はともかく。勝浦が水彩画にも長けていると知って、今回の講師に打って付けだったと頼んだわけだ。  申し込んでくれた生徒は、小さな子どもからお年寄りまでと、年齢層もバラバラだった。様々な人に水彩画を親しんでもらえる、というコンセプト通りで、受講してもらい、水彩画とは何ぞやを、世の中の人にもっと知ってもらえるきっかけになればいいなと、真里也は期待に満ち溢れていた。 「勝浦が打ち合わせに来るのって、確か十八時だったな。本番を頑張ってもらうために、晩飯でもご馳走してやるか」  誰もいない会議室での独り言は、なんだか無性に寂しさを感じる。  家に帰ってもひとりで夕食を作って食べ、風呂に入り、ひとりでテレビを観る。  家の中を少しでも賑やかにしようと、お笑い番組を流してはみるけれど、一緒に笑ってくれる人がいなければ、ただただ虚しいだけだ。  時々、實川や桐生が来てくれるけれど、余計な気遣いを二人にさせているのではと思ってしまう。  机の上に散らかしたマジックやら色鉛筆を片付けながら、真里也はまた羽琉のことを考えた。  思考に隙間ができると、必ず思い浮かべるのは羽琉のことだけだった。  羽琉に告白された高三の自分は、羽琉を恋愛対象として考える以前に、誰かに恋する気持ちがわからなかった。  幼稚だった自分が羽琉を傷付けた。それだけしか、あのときはわからなかった。  羽琉が他の誰かと一緒にいる姿を見て、ようやく自分の気持ちに気付いた。  けれど、もう遅かった。  大好きな幼馴染のことは何でも知っていると、自惚れていたあの日から羽琉を好きだと自覚して、まる四年が経とうとしている。  俺って意外と粘着質? いやいや、一途な男だと敢えて言わせてもらおう、なんて自分を慰めてみたけれど、愚かな感情は燻ったままだ。  部屋の片付け終え、溜息と一緒に吐き出した愚痴と共に電気を切った。  暗い会議室は寒々しく、真里也の心を表しているように思えた。 「あーあ、せっかくの講座の日なのに雨かぁ」  博物館の入り口に傘袋スタンドを用意しながら、真里也は恨めしそうに鈍色の空を見上げた。  水彩画をたのしむ講座、第三回は生憎の天気だったけれど、二十名の定員数を満たした応募は嬉しい。  あと三十分ほどで始まるなと、腕時計を見て確認し、そろそろ受講生がちらほら来る頃だと軒下から顔をだした。すると、明らかに博物館を目指している風の年配の三人グループが、こちらを指差しながら歩いて来る。  彼らと目が合うと、読みは的中し、真里也の方を見て会釈してくれた。 「こんにちは。水彩画の受講生でしょうか?」  声をかけると、画材が入っているっぽい袋を掲げて振ってくれた。  傘袋を一人ひとり手渡し、足元の悪い中、ご苦労さまですと労う。  帰りはやめばいいのにな、と願った。  講座の部屋まで彼らを案内すると再び玄関まで戻り、来場する受講生を向かい入れては案内を繰り返してた。  可愛らしくはしゃぐ声がして、通りを眺めていると、幼い女の子と母親らしき親子がやって来た。  赤い傘にピンクの長靴。斜めがけしているバッグには画材道具が入っているのが想像出来た。水たまりの上を、弾むように歩いてこちらにやって来ようとしている。  可愛い女の子だな。  もし自分があんな少女だったら、母親は苦しまずに済んだのかなと、ふと考えてしまった。  いやいや、俺は彫刻好きな男だ。じいちゃんと父さんの血を受け継いだ射邊家の後取りだ。  真里也は払拭するよう、かぶりを振ると、笑顔で親子を迎え入れた。 「こんにちは、水彩画の生徒さんですか」  声をかけると、少女は恥ずかしそうに、でもにっこりと笑って小さなお辞儀をしてくれた。  ピンクのリボンがついたツインテールが揺れ、毛先が癖毛なのか、クルッとしているのが可愛い──癖毛……。  そう言えば、羽琉と一緒にいた女の子も、こんな風に髪の毛が湾曲していたなと、悲しいことを思い出してしまった。  気を取り直して教室まで案内しようと、母親らしき人に目を向けると、よろしくお願いしますと、優しい眼差しをくれた。  羽琉が働いていると、土師に聞いた店に行って見かけた女性に似ている気がする。  いやいや、そんな偶然はない。それに、はっきり顔を見たわけではないのに。  ただ、雰囲気が似ているだけだ、気のせい、気のせいと真里也は自分に言い聞かせた。  あの日見た三人の姿があまりにもショックで、いつまでも脳裏に焼き付いて離れない。  きっと、これからも同じような親子を見る度に、こんな思いをするのかなと思うと、心臓を鷲掴みされるように痛みを覚えた。  親子を案内した後、真里也は気合いを入れるために、自分の頬を両手で挟むように叩いた。 「よしっ、今日も滞りなく進行するぞっ」  雨だったのにも関わらず、受講生は全員出席で、真里也は準備万端の勝浦に目配せで講座開始を合図した。 「えー、みなさま。今日は生憎の雨ですが、この後、楽しんでいただく水彩画できっと悪天候も吹き飛ぶと思います。本日の講師、勝浦先生には、水彩画をみなさんに知ってもらうお手伝いをしていただきます。何か質問などありましたら、どんどん声をかけてくださいね。講座が終わる頃には、空もカラッと晴れていることでしよう。では、先生よろしくお願いします」  真里也の口上が終わると、タイミングよく勝浦とバトンタッチし、水彩画の一日講座が始まった。

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