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三人家族
拍手喝采──とまではいかないが、無事に講座は終了し、真里也は今日の感想を書いてもらおうと、一人ひとりにアンケートを配っていた。
「ありがとう、お兄ちゃん。ほら見て、うまく描けたでしょ」
ツインテールの女の子に用紙を渡そうとしたら、描いた絵を見せてくれた。
「わー、すごく上手だね。これ、今日の空かな」
「うん、そう。こうなったらいいなって思って描いたの」
四つ切りの画用紙の隅から隅まで使って描かれていたのは、雨上がりの歩道橋に虹がかかっている絵だった。
「きれいな虹だね。きっと同じ景色が見れるよ、今日が無理でも、雨の向こうには虹が待ってるからね」
小さな頭頂部をそっと撫でると、女の子は嬉しそうにはにかみ、ママ、アンケートちょうだいと、母親が書いた用紙を真里也に渡してくれた。
「あのね、今日はとっても楽しかった。お兄ちゃん、ありがとう」
素直な感想を直接聞くと嬉しい。
次の講座も頑張れるなぁと、しみじみ思いながら、真里也はとびきりの笑顔で、お家でも絵を楽しんでね、と言って手を振った。
他の受講生が書いてくれたアンケートを全て回収し終えると、「あ、パパ」と、さっきの女の子の声が聞こえた。
反射的に振り返った真里也は、視線が捉えた人物を見て目を見開いた。
自分だけ時が止まったように動けず、教室の入り口でキョロキョロと辺りを見渡している存在に目を奪われていた。
は……る……。羽琉……だ……。
ツインテールの女の子が嬉しそうに駆け寄っていく先には、彼女を満面の笑顔で迎える羽琉の姿があった。
両手を広げる羽琉の胸に女の子が飛び込むと、真里也のよく知る優しくて逞しい腕は、小さな女の子の体をそっと抱き締めていた。
羽琉、羽琉がいる。今、ここに、目の前に……。
数年ぶりに見る愛しい姿に寄り添っている女性と女の子は、羽琉と一緒にレストランにいた親子だった。
講座が始まる前によぎった映像は、記憶違いでも勘違いでも何でもない。
真里也を深湍に立たせ、二度と這い上がって来れない谷底へと落とし込む序章に過ぎなかったのだ。
きっと、雨だから心配して二人を迎えに来たのだろう。
相変わらず優しいな、と切ない感情に呑まれていると、頭の中で警鐘が鳴った。
このままだと羽琉に気付かれてしまう。
いつまでも羽琉を忘れられずにいる、浅ましいこの心情は、きっと幼馴染の勘で簡単に見破られてしまう。
真里也は涙をグッとこらえると、アンケート用紙を握り締めて仲睦まじい親子に背中を向けた。それなのに真里也の決断は無情にも、女の子のひと声で存在を浮かび上がらされてしまった。
「はるパパ、あのお兄ちゃんが、この絵と同じ虹が見れるよって言ってくれたんだよ」
可愛らしい声は今の真里也には惨過ぎた。
自分のことを言ってくれているのがわかっていても、幼い存在を無視するしかできない。
聞こえていないフリを貫くしかなく、振り返ることも出来ないまま、真里也はその場を離れようとした。
足を一歩踏み出したとき、懐かしい声で名前を呼ばれた。真里也か……と。
ビクッと、身体が硬直した。それと同時に、後ろ姿だけでも気付いてくれたことに喜んでいる。なんて自分は欲深いのだろう。
だめだ。絶対に今、振り返って羽琉の顔を見れば無様に泣いてしまう。
人目を気にせず、大声で泣き叫んでしまうかもしれない。
初めて目にした仲睦まじい親子の姿が鮮明によみがえり、直視することができない。
笑って、お前もパパになったんだな、なんて言えない。祝福なんて出来ないっ。
心の中で女の子に、ごめんね、と呟いて真里也は背中を向けたまま、バックヤードの扉に手をかけた。
「真里也っ!」
力強く羽琉に名前を呼ばれた。
大好きな人の声で紡がれる自分の名前すら、愛おしい。
もう……それだけで十分だと思った。
羽琉の中にはまだ射邊真里也が存在している。それだけで、一人でもこの先を生きていける。
お兄ちゃん、と可愛らしい声が一緒に聞こえたけれど、それがまた涙を誘う。
勇気も根性も、そして幸せな親子を目の当たりにする覚悟もない真里也は、重い扉を開けると、逃げるように身を隠した。
鉄の冷たさを感じながら背中をもたれた瞬間、耐えていた雫達が溢れ出す。
古びた蛍光管がぼんやり灯る部屋は、埃っぽくて薄暗い。
棚の上や床には雑多に段ボールが置かれ、今の真里也を更に孤独へと追い詰めてくる。
誰もいない薄闇の中、声を殺して泣いた。
立っていることができず、扉に寄りかかったまま、ずるずると下降し、冷えたコンクリートの地面に臀部をつけて座り込む。
体操座りのような姿勢をとると、両膝の間に顔を沈めて嗚咽した。
雫が灰色の床に模様をつけていくと、水玉は集合体となり、地面が色濃い鼠色に変わってゆく。
羽琉、羽琉、俺はまだ……全然お前を忘れられていない。
過去を断ち切り、未来へ向かってゆく羽琉が眩しい。そんな羽琉の横に自分がいないことが悔しい。自分の居場所はそこじゃないと、今日、改めて突きつけられてしまった。
「もういい加減、諦めないと……な」
俺ってばねちっこいな、とわざと自分を追い込み、わざと笑ってみた。
掠れた声に赤い目だと、同僚に突っ込まれるネタになる。
真里也は両目を手の甲でぐりぐり擦ると、涙と赤くなった目を修復しようとした。
仄暗い天井を見上げ、そう言えば、来週LEDに交換の工事だったなと、心情と全然関係のないことを考えながら尻の埃を払った。
地面に置いていたアンケート用紙を掴むと、事務所に繋がる奥の扉へと向かった。
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