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訪問者
「射邊君。ちょっと」
湯澤 から呼ばれ、真里也は自席から主任席へ向かい、訝しそうな顔の上司を見下ろした。
学芸員のまとめ役である湯澤が、インテリを表現するにふさわしい銀縁眼鏡で真里也を見上げてくる。
ワイシャツにネクタイは普通のスタイルだが、今時中々お目にかかれない、黒いアームカバーをつけている姿は貴重だと思う。
昭和の匂いを漂わせる四十路は、見た目こそ神経質っぽく見えるが、意外と熱血で情に脆い人だ。そんな彼を難しい表情にさせる理由に心当たりがなく、真里也の心拍数は跳ね上がった。
「あの、俺、何かやらかしましたか」
恐る恐る尋ねると、いや、まだ何もと、言われた。
まだ? ではこれから自分は何かしでかすのだろうか。不安な気持ちで湯澤の言葉を待っていると、小さく手招きされた。
周りに聞こえるとまずい話だろうと察し、真里也が顔を近付けると、
「射邊君が出張に言っている間、君の知り合いだと言う人間が、尋ねてきたぞ。それも二度もだ。射邊君、君は何か面倒ごとに巻き込まれてないだろうな」
声を潜めて言われた内容に、全く身に覚えがない。
首を捻って心当たりを探っても思い当たる節がない。
真里也の数少ない友人たちは、博物館で勤務していることを知ってはいるけれど、職場に訪ねてくることは滅多にない。
いきなり、しかも二度も自分を訪ねてくる人物が思い浮かばず、眉間にシワを寄せていると、湯澤が「女なら、面倒だぞ」と言うから一驚した。
てっきり男だと思っていたからだ。
「じょ、女性だったんですか」
「ああ、そうだ。名前も聞いているぞ、確か清瀬 と名乗っていたそうだ」
「清瀬……」
知らない名前だ。
真里也は取り敢えず、上司に迷惑をかけたと思い、「よく思い出してみます」と、一礼して自席に戻りかけると、ちょっと待てと引き止められた。
「その人からメモを預かっている。受付に預けていったそうだ」
結構な美人だったらしいぞと、銀縁眼鏡の奥から脂下 がるような視線を向けられた。
女の人なら、ますます心当たりがない。
真里也の知り合いの女性は、母を除くとひとりもいないのだ。
受け取ったメモを見ると、『清瀬顕子 』の名前と携帯番号が記載されていた。
これはかけて欲しいということだろうか。
いやいや、待て待て。
真里也は自席に戻って、高校生の自分を思い出した。
世間知らずで玉垣に権利書を奪われ、実の母親に合鍵を作られた。
その結果、どうなったか。
また、誰かに騙されるのでは……。
浮かんだ言葉はこれまで真里也を支えてきた、家訓のような言葉だ。
社会人にもなって實川や桐生、そして水鳥の手を煩わせたくない。
電話をかけるのはやめておこう。
決断した真里也は、メモをデスクの引き出しにしまった。大切な用があるなら、きっとまた訪ねてくるだろうと、パソコンに向き合い社会科見学用の資料の作成に取り掛かった。
真里也が働く博物館には、学習投影──いわゆるプラネタリウムもあり、教育の一環として、衛星、星座、宇宙などに関する話題を子どもたちに親しみやすくて、わかりやすく解説する番組がある。
子どもたちがあそびを通して学び、楽しみながら創造力を養い、好奇心をくすぐるさまざまな仕掛けを用意してあるのだ。
来月には校外学習の一環で幼稚園児がやって来る。
今回は年長組だけの催しだが、年齢にあった資料を作成して来週には園に提出しなければならない。
入社一年目の真里也には大役だったけれど、資料作りを通して自分も学べることが嬉しい。
いつしか女性のこともメモのことも忘れて、仕事に没頭していると、あっという間に定時は過ぎていた。
事務所には真里也以外には湯澤の姿しかなく、彼も帰り支度をしている。
俺もそろそろ切り上げるか。
腕時計で時刻を確認すると、十八時近い。
駅まで歩いて電車に乗って地元に帰ると、もう商店街は閉まっているだろう。
真里也は冷蔵庫の中の食材を思い出し、夕食のメニューにと、オムライスを弾き出した。
「オムライス……か」
思いついたメニューを口にしてしまったのは、博の葬儀の日に深町が作ってくれたオムライスだった。羽琉と二人で食べたあのオムライスは最高に美味しかった。あの日以降、何度か自分で作って食べたけれど、美味しく出来たためしがない。
深町との腕の差はもちろんだけれど、羽琉が一緒じゃないとどの料理も水で薄めたように味気なかった。
肩で大きく溜息を吐き、パソコンの電源を落とすと、お先にと、湯澤が席を立ったので、「お疲れ様でした」と声をかけた。
戸締りを確認すると、事務所の電気を全て落とした。
静寂した博物館の空気は好きだ。
遠い過去に存在した書物や土器などがまだ生きていて、息を潜めているように思える。
外国の映画で見たように、人間のいない真夜中には館内を好き勝手に彷徨っているのではないかと、楽しい妄想は何度しても飽きない。
守衛さんにお疲れ様ですと、声をかけて裏口から通りに出た。
いつものように駅へ向かおうとしたら、街灯の下でこちらを見つめている人影に気付く。
細身ですらっと背の中い女性だった。
自分ではなく、べつの誰かを見ているのだろうと、女性の横を通り過ぎようとした真里也に、「あのっ」と、その女性が呼びかけてきた。
声に反応して振り返ると、女性の顔に見覚えがあり、思わず、あっと叫んでしまった。
「……射邊、真里也さんですよね。博物館の……」
そうですと、即答できなかった。なぜなら、目の前にいるのは、羽琉の奥さんだったからだ。
息を呑み、喉を大きく鳴らした真里也は、返事をすることもできず、目を見開いて彼女を凝視していた。
「あの、私は清瀬顕子と言います。先日、娘が水彩画の講座でお世話になった……」
清瀬と名乗る、羽琉の奥さんが深々と頭を下げてくれる。
湯澤から聞いた、メモの正体は彼女だったのかと納得した。
彼女は容姿だけではなく、所作も美しくて自分がものすごく、チンケで惨めに思える。男で、チンチクリンで、鈍くてドジな自分は、目の前の美しい人に敵うものが何ひとつない。
羽琉のことを一番知っている唯一のポジションも、数年前には彼女に上書きされたのだから。
「あの、射邊さん。私、あなたにお話があって伺ったんです。お時間、少しだけでもいただけないでしょうか」
水彩画教室のとき、羽琉の声を無視したことが思い出される。
もしかしてあのときの真里也の態度を諫めに来たのだろうか。それとも講座に何か意見でも伝えに来たのだろうか。
頭の中で思考がぐるぐると渦巻き、何を話せばいいかわからなくなった。
返事もしない失礼なやつ的な印象を与えてしまったと思ったれど、でも、別にそれでいいのかなとも思った。
今さら、真里也の無礼を知ったところで、羽琉の人生には何も影響はない。
「できれば、どこかお店でもご一緒していただけませんか」
さすがにもう黙ったままじゃ失礼だと思い、「すいません、時間がないので」と、常套句 で断った。
羽琉の奥さんが、いったい自分にどんな用があると言うのか。
もしかして、俺のせいで羽琉が何か迷惑していることでもあるのか。
同行を断りつつも、不吉なことばかり考えてしまう。
俯いたまま視線を最後まで合わすことができず、この場から立ち去る理由を考えた。
「講座の受講、ありがとうございました。あの、俺、急ぎますので」
早口で言いながら踵を返す真里也に、再び声がかかる。
「あなたの小指っ、羽琉君のせい、なのよね?」
後ろ姿に浴びた言葉は、聞きたくない科白だった。
羽琉の……せい?
なぜ、そんなことをこの人は言うのか。
羽琉は自分の奥さんに、怪我のことをどんな風に語ったと言うのだ。
一度たりとも、曲がらない歪な指の原因を羽琉のせいだなんて思ったことはないのに。
ショックと、悲しみと、そして寂しさに押し潰されそうになった。
羽琉が姿を消してから小指に羽琉を投影し、愛おしみ、縋って、懐かしさを募らせていた、真里也にとっては大切な存在だ。
羽琉がいなくても、この体に刻まれた羽琉の『証』だと思って、今日まで生きてきたのに。それをも忘れろと言いたいのだろうか。
それはあまりにも、自分が可哀想すぎる。
涙が頬を伝った。
男女が言い争いでもしているのかなと、通行人の目には写っているのかもしれない。それでもいい。
誰にどう思われても仕方ないけれど、指の怪我が羽琉を追い詰めていたことを、別の人間から聞きたくはなかった。
「……この指は、羽琉のせいじゃありません。俺が自分で巻いた種です。だから、どうか。どうか、お願いですから、小指のことは忘れてくれと羽琉に伝えてください」
お願いします、と頭を下げて彼女から去って行こうとした。それなのに、手首を掴まれて清瀬に引き留められていた。
「待ってください。違うんです、私の話を──」
「すいません、話してください。それと……お幸せに」
清瀬の言葉を言下に遮った。
もうこれ以上、羽琉の幸せを邪魔したくはない。羽琉を苦しめているのが自分なら、尚更だ。
「お幸せに、と羽琉に、伝えて……ください。もう、昔のことは忘れて、家族三人で、なか、よ、く……」
言いたくなかった言葉を、初めて声に出した。
自分の哀れさに泣けてくる。それでも、親友で幼馴染の幸せを祝ってやらなければ、自分は最低な人間になってしまう。
願わくば、彼女が祝福の言葉を彼に伝えてくれますように。それしか真里也の頭にはなかった。
立ち去ろうとしているのに、清瀬の手が離れない。
もう勘弁してくれと、叫びたくなるのを必死で我慢した。
反対の手で清瀬の拘束をそっと解くと、真里也は駅の方へと全速力で走った。リレーのアンカーのように、魔物にでも追われるように、後ろを振り向くこともなく、必死で走った。
改札を抜けてホームにたどり着くと、ここでようやく後ろを振り返ってみる。
さすがに清瀬の姿は見当たらず、ホームのベンチに腰掛けて、息を整えた。
落ち着いてきた中で思った、自分はなんて失礼な態度をとったのだろうかと。
「でも……無理だ。羽琉の奥さんと会話するなんて……」
帰宅ラッシュのホームで呟いた声は、猛スピードで走り去る貨物列車の音でかき消された。
小指のことで真里也に、何かを訴えたかったのか。いや、もしかして、真里也の存在自体が迷惑なのかもしれない。
考えても、考えても清瀬が来た理由は、小指のこと以外、何もわからなかった。
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