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大切な人は
清瀬が博物館に来訪してからの翌週は、よかったのか悪かったのか、真里也は外まわりから直帰すると言った勤務が連続し、博物館でゆっくり腰を据える間もなく週末を迎えた。
念の為に湯澤へ確認すると、あれ以来、清瀬が訪ねてくることはなかったらしい。
金曜日の今日は内勤だった真里也は、一週間分の経費を精算し終えると、園児を迎える社会科見学の資料を見直していた。
今回の仕事は二週間後に控えるイベントの中で、プラネタリウム担当の先輩を補佐する役割を担う。
並行して資料作りも必然的に後輩である真里也の仕事となり、抜かりのないよう目を皿のようにして最終チェックをしていた。
喉が渇いたなと、思ったと同時に呼応するよう腹の虫も鳴った。
「腹が減ったと思ったら、もう七時か。今日はこの辺にして切り上げるか」
時間を知ると余計に空腹感が増し、真里也は手早く帰り支度をして事務所の電源を落とした。
いつものように守衛さんに声をかけて、通りに出ると駅へ向かう。
電車に乗って振動に身を委ねながら車窓を眺めていると、インディゴに染まった空の下では、人工の光が競い合うよう輝き、煌めく景色が美しくて癒される。夏を控える今の季節は暑すぎもせず、寒くもない、ちょうどいい季節で街全体からもゆとりを感じる。だからなのか、頭の隅っこで考えたくないことがよぎってしまうのは。
強気な夏の日差しを前にすれば、こびり付いた寂しさを熱で溶かしてくれるのだろうか。
最寄駅にたどり着くまで、窓ガラスに額を預けながら夜の景色を眺めていた。車内アナウンスの声に反応して、扉が開くのを待ってホームに降り立つ。
人の波に紛れながら、改札を出て駐輪場へ向かい、自転車に乗ろうとした足を止めた。
なんとなく思い出に浸りたくて、自転車を押しながらゆっくりと商店街を歩いた。閉店時間はとっくに過ぎ、店のシャッターは閉まっていたけれど、子どものころから歩いていた道は懐かしく、でも、ほろ苦い過去を思い出させてくる。父のこと、博のこと、そして羽琉のことを……。
行き着くところは結局、羽琉なんだなと自覚して苦笑してしまった。
車輪がカラカラ鳴る音を聞きながら商店街を抜けると、ここでようやく自転車に跨った。
夏の匂いを微かに含んだ風を浴びながら家に着くと、真里也は自転車を押しながら門扉をくぐった。
自転車を停めに庭へ行こうとしたとき、玄関で蹲る黒い影のようなものが目に飛び込んできた。
あれって人……? もしかしてまた玉垣──いや、母さんかも?
ハンドルを握ったまま闇を凝視していると、影が動いてゆっくりと立ち上がった。
自転車のライトは漕がなければ点灯しないので、辺りは真っ暗でよく見えない。真里也は暗闇を注視しすると、闇に浮かぶシルエットの正体を確かめようとした。けれど、その存在は一秒も経たずに誰なのかがわかってしまった。
暗くても、遠くても、スッと立つ長身の輪郭を、真里也が間違うことはない。
「は……る……」
名前を口にした途端、ハンドルを持つ手に力がこもる。
喉が張り付き、声が上手く出せない。
暗闇からゆっくり歩み寄ってくる人影が、「真里也……」と、呼ぶ。
厚い雲に覆われていた月が顔を覗かせたのか、月明かりで顔が鮮明になり、大好きで、大好きで、忘れられない人が姿を表した。
羽琉だ……。すぐ目の前に羽琉がいる……。
泣きそうになっている自分を奮い立たせ、必死で我慢した。口を開けばきっと、涙腺が崩壊するのがわかるから。
唇を左右に引き結び、グッと我慢していたけれど、膝はガクガクと震えている。
羽琉……どうしてここに来たんだ……。
仏像を取り戻してくれたときでさえ居所を隠していたのに、ここまで来るということは、よほどの理由があるはずだ。
不意に、博物館に来た清瀬──羽琉の奥さんのことを思い出した。
もしかしたら、俺が彼女に失礼な態度を取ったから、羽琉は怒っているのかもしれない……。
優しい羽琉のことだ、自分の大切な奥さんを無碍 に扱った真里也に腹が立っているのだ。
「まり──」
「ごめんっ! ごめんなさい、羽琉っ。俺、俺……羽琉の大切な人に、嫌な態度とって、とってしま、って……ごめ、なさ……」
ハンドルから手を離し、自転車が倒れてもかまわず、真里也は頭を下げた。重力で我慢していた涙が溢れて地面に落下する。
もう、だめだ。
現実の羽琉からも嫌われて、思い出の中の存在ごと羽琉に忘れられてしまう。考えただけで恐ろしくて、悲しくて、涙が止まらない。
頭を上げることができず、肩を震わせて泣いた。もっとちゃんと謝らないといけないのに、勇気がなくて羽琉の顔を見れない。
「真里也、なんでお前が謝るんだ」
懐かしくて大好きな人の声だ。でも、顔を上げられない。
自分を蔑むような眼差しがもし、そこにあったらと思うと、怖い。
「なあ、真里也。謝らないといけないのは、俺の方だ」
「違うっ! 俺が……俺が、全部悪い──」
ずっと下を向いているから、羽琉が屈んで下から覗き込んでくる。だから、慌てて体の角度を変えて視線を逸らした。
覗き込んでは方向を変えを繰り返していると、とうとう羽琉に両肩を掴まれて、正面に向き合う形にされた。
「真里也は悪くない。俺が……俺のくそ親父が、お前に酷いことばっかした。それに、彫刻をするお前の大切な右手を、俺が……怪我させた。償っても、償いきれないことをしたのは、俺の方だ」
俯いたまま、真里也は左右に首を振った。
「俺がバカだったから。俺さえ、ちゃんとしてたら、おじさんも──」
「あんな奴を庇うことなんてない。あいつは、お前のお袋さんにまで、嫌なことをさせたんだぞ。お前も、お袋さんも、全然悪くない」
お前は悪くないんだと、小さな声で羽琉が言い続けている。
放つ声は震えているように聞こえて、思わず真里也は顔をあげた。
羽琉──と、呼ぼうとした時、一軒隣の本多がチリンチリンとベルを鳴らし、こんばんはーと、自転車から挨拶をしてくれた。
真里也も慌てて返事をしたけれど、このまま外にいることは不自然だと思い、鍵を開けて羽琉を家の中へ迎え入れることにした。
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