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はるパパって?
カーテンも閉めず朝まで一晩過ごすと、窓ガラス一枚分の朝日を浴びる羽目になり、真里也の目は否応でもこじ開けられた。
隣を見るとまだ寝息を立てている羽琉がいる。生まれたての太陽が欠片となって羽琉の頬をキラキラと照らしている。人のフリをした天使なんじゃないかと思えるほど、きれいな朝に似合っている寝顔だ。
穏やかに上下する体を見つめていると、昨夜のことがじわじわと蘇ってきた。
夢じゃないんだよな……。羽琉がここにいるのは。
すやすや眠る羽琉の頬を指で突いてみる。すると、寝ぼけているのかわざとなのか、悪戯していた指を掴まれるとそのまま枕と頬の間に挟まれてしまった。肌に触れたことで、快楽に溺れた末に口にした数々の言葉が一気によみがえり、全身が熱くなってきた。
うわぁ、俺ってば、めちゃくちゃ恥ずいこと言ってたよぉ。
赤裸々な体と気持ちにのたうち回っていると、不意にいくつかの疑問が浮上した。
そもそも、羽琉はどうしてここへ来たんだ?
それに、はるパパってなんだよ。
羽琉は確かに言っていた、真帆という女の子は清瀬顕子さんの娘さんで、ご主人がパパだと。
じゃあ、なぜあの子は羽琉のことを『パパ』と呼ぶのか。
一旦疑問に思うと気になって仕方ない。
早起きして羽琉のために美味しい朝ごはんを作ろうと思っていたのに、浮かれた気分は消滅してしまった。
モヤモヤしてきた真里也はガバッと起き上がると、気持ちよさそうに眠る羽琉の体を揺さぶった。
勢いよく起きたものだから、下半身に微かな痛みが走ったけれど、今はそれどころではない。
「……ううん、なに? 真里也、もう起きたのか。もうちょっと寝ようよ……」
真里也の腰に手を回して抱き枕のようすると、また寝息を立てている。
そう言えば昔、家に泊まった時も寝起きが悪くて中々起きなかったなと、懐古に喜んでいると、ハッと我に返った。
違う、違う。喜んでいる場合じゃない。羽琉の話し次第では、蹴っ飛ばすくらいじゃ済まないかもしれないんだ。
「羽琉、起きてよ。大事な話があるんだ」
大事な──。このワードがまどろむ脳に刺さったのか、今度は羽琉が飛び起きてベッドの上に正座をしている。
「な、何だよ。朝から、俺、怒られんの?」
なぜ怒られると一番に思ったのか。
後ろめたいことがあるんじゃないかと訝しく睨むと、叱られた犬のような顔で真里也を見てくる。
「怒んないよ。いや、ことと次第によっては、一発殴らせてもらうかもしれない」
拳を作ってボクサーのように腕を前に突き出すと、本気で困った顔をするから、あのさ、と本題に入った。
「聞きそびれてたけど、羽琉はどうしてウチに来たんだ? それに清瀬顕子さんが羽琉の奥さんじゃないことも、真帆ちゃんだっけ? あの子にはパパがいることも聞いたけど、羽琉が何であの子に『はるパパ』って呼ばれてるのかが気になる。なあ、正直に言ってよ、本当にあの子は羽琉の子どもじゃ──」
「怒るぞ、真里也。俺のことが信じられないのか」
「信じてるよ、羽琉は嘘をつかない。でも、じゃあ何でパパって──ハ、ハックシュン」
裸のままだったことも忘れ、力説していた真里也はブルっと身震いした。
これを着ろと、椅子にかけていたパーカーを羽琉がとってくれたから、羽琉も風邪引くよと、真里也は床に脱ぎ捨ててあったシャツを渡した。
「なあ、話は朝飯食いながらしてもいいか? 俺、めっちゃ腹減ってる」
羽琉の言葉に引っ張られるよう、真里也の腹も鳴った。そう言えば、昨夜は結局何も食べずそのまま……そのまま……。思い出してまた恥ずかしくなる。
顔を赤くしていると、羽琉が頬にキスしてくれた。可愛いな、って甘い言葉のおまけ付きで。
着替えようと立ち上がると、下半身に痛みが走り、その場で蹲ってしまったから、羽琉が慌てて駆け寄り、大丈夫かと、眉を八の字にして心配してくれる。昔と同じように、真里也のことを気にかけてくれることがこんなにも嬉しい。ずっと側にいて見ていたはずなのに、心がくすぐったくなるような感覚に気付かなかったなんて、ほんと勿体ないことをしてきたと思う。
「ずっと昔から、いつも心配してくれたよね……」
スエットに着替えながら言うと、そうだったっけと、羽琉が明後日の方を向く。
照れている姿がまた、可愛くて愛おしい。
大人になっているのに、以前より幼く見えるのは何でだろうと思いながら、腰を押さえていると急に体が宙に浮き上がり、羽琉に抱っこされていた。
「は、羽琉。ここまでしなくても……」
「ダメだ。俺が無茶したから、真里也が痛い思いをしたんだ。これくらいはさせてくれ」
姫抱っこされたまま廊下を進む羽琉。
真里也はそっと上目遣いで、愛しい顔を見上げた。
真里也の好きな、毛先がクルッとなった髪は、寝起きで乱れている。でも、カッコいいと思う。いや、寝起きであろうが、よだれを垂らしていようが、羽琉は最高にカッコいい男だ。だらしない格好でも褒め称えてしまうことを、世間ではあばたもえくぼ、いや、惚れた欲目って言ったっけ。まあ、何でもいい。羽琉は真里也にとって、最高の男なのだ。
この後の話しの内容次第では、降格するかもしれないが。
朝ごはんは羽琉のリクエストで、和食にした。
ご飯を土鍋で炊き、その間に味噌汁を作って手際よく座卓に並べていくと、羽琉が感動してくれた。
「で、はるパパは何でウチに来たんだ? 何でそう呼ばれてんの?」
だし巻きを箸でブスッと刺し、ちょとだけ怒りを表現しながら、矢継ぎ早に聞いた。それなのに羽琉には響かず、おかわりと、茶碗を渡されたから毒気を抜かれる。
二杯のご飯をペロリと平らげた羽琉が、お茶で喉を潤したあと、俺さ──と、離れていた間の話を語り出した。
「……俺は、真里也から離れてからいろんなカフェでバイトしたけど、ここにポカって穴が空いたみたいに空気がスースー抜けて、何もかもに冷めてしまってたんだ。高校はやめちゃったし、学もないから、しばらくは母さんと暮らして食べさせてもらってたけど、あの人、付き合ってる男がいてさ。一緒に住んでるのも気まずくて、アパートだけ借りてもらって家を出たんだ」
羽琉が自分の胸に人差し指を突き立てて、心情を伝えてくれる。表情を観察していると、真里也まで切なくなるほど羽琉の顔は悲しみに満ちていた。
明るく振る舞っているけれど、高校生だった羽琉には辛い状況だったと思う。
だったらなぜ、俺を訪ねてくれなかったんだよ。
今更だけど、悔やんでも悔やみきれないことを思ってしまった……。
「バイトも続かなくってさ、あ、でも高校の時に貯めてた金だけは絶対に手をつけなかった。つけたくなかったし。けど現実問題、生活してかなきゃならないだろ、だから時給のいい引っ越し屋でバイトを始めたんだ。そのときに、顕子さんと知り合ったんだよ」
「顕子さんが引っ越しのお客ってこと?」
「いや、貴文 さん……顕子さんのご主人が引っ越しだったんだ、顕子さんがひとりで住んでいたマンションにね。店の近くにあってさ、そこが二人の新居だった。引っ越しの日には顕子さんのお腹にはもう真帆がいたから、家具を運んだあと、時間ギリギリまで荷物だしとか手伝ったんだ。たったそれだけのことなのに、二人はめちゃくちゃ喜んでくれて、バイト終わったら店に呼んでくれて、メシをご馳走してくれたんだ」
仕事もなく、お金もない。だから夢を一旦忘れて、生きていくために重労働の仕事を選んだ。羽琉にとって、それは苦渋の決断だったと思う。ずっとそばで見てきた真里也だから、その時の心情は想像しなくても伝わってくる。
「顕子さんのお父さんは、真里也が来てくれた店のオーナーシェフでさ、貴文さんと顕子さんが結婚して、親父さんと一緒に店を切り盛りしてたんだ。メシをご馳走になりながら、カフェをやるのが夢だってオーナーに話したら、店で働かないかって誘ってくれたんだ。今までは顕子さんがフロアを担当してたんだけどお腹に真帆がいるし、出産したら働けないからちょうどバイトを探してたって。カフェじゃないけど、食後の珈琲は任せるって言ってくれて。俺、本当に嬉しかったんだ。顕子さん夫婦や、親父さんには感謝しても仕切れないんだ」
話すことに没頭していたからか、味噌汁が残っていたのに気づいた羽琉が、慌てて残りを飲み干した。真里也の作ったものを無碍にしない気遣いも、昔と全然変わらない。
熱いお茶のおかわりを差し出すと、羽琉はひと口含んでから、また話しの続きを教えてくれた。
「真帆が三歳になったとき、仕入れに行ってた貴文さんの車が事故に遭って、右足を複雑骨折したんだ」
「え、事故? 足だけ? 他は大丈夫だったのか」
咄嗟に尋ねると羽琉が嬉しそうに笑って、変わってないなと、言ってくる。
何が? と思ったけれど話しの続きが気になってそれで? と、真里也は催促した。
「貴文さんは手術した後も暫く入院しないといけなくなったんだ、リハビリもあったしね。俺はフロアとドリンク担当だったけど、貴文さんが復帰するまで厨房も手伝うことになったんだ。顕子さんもフロアに出ないと行けなくなって、仕方なく真帆は保育園に預けたんだけど、園に行くのを嫌がってさ。パパが大好きだから、毎日泣きながらバスに乗る姿が可哀想でさ」
「だから、羽琉がパパの代わりになったってこと?」
真里也の言葉に、羽琉が黙ったまま頷いた。優しい羽琉の性格なら、パパがしてくれたことを自分がしてあげるとでも言ったのだろう。
「真帆にとってパパがいることが当たり前だったから、ちょっとでもあの子の気が紛れるならって思って。パパ呼びされることに何の抵抗もなかったし、深く考えてなかったんだ。けど、まさか真里也に聞かれて、誤解されるなんて思ってもなかったから、マジで悔やまれるよ」
悔しそうに言ってくれる、それだけで真里也の受けた衝撃や悲しみはチャラになった。散々悩んで涙が枯れるほど泣いたけれど、事実は拍子抜ける理由で、何年も張り詰めていた糸は砂糖菓子のように溶けていった。
「でさ、本当のところ、羽琉は何をしにここへきたんだ? 俺、羽琉の顔を見たとき、奥さ──じゃないや、その顕子さんに俺が嫌な態度を取ってしまったから、そのことを咎めに来たんだと思ってたんだ」
湯呑みを両手で持ち、陶器越しに伝わる温もりに身を委ねるように聞いた。
たまたま近所に来たついで、なんて軽い理由でないことはわかる。
「真帆の講座を迎えに行った日、明らかにお前の態度がおかしかっただろ? 俺が名前を呼んでいるのに、聞こえてないフリして消えちゃったし。俺らの様子を見て顕子さんは、真里也が俺の好きな相手だってわかったみたいなんだ」
「え、あれだけでそこまでわかったの? 俺、男なのに」
顕子さんってすげえ、っと感心していると、羽琉がバツの悪そうな顔をしているから、ピンと来た。
「もしかして、羽琉は俺のことを顕子さんに話してた? その、相手が男だってことを」
「あ、ああ。まあな。でも事実なんだからいいだろ。それに片想いでも、好きな人がいるって言っておかないと──」
「女性のお客さんに言い寄られるから……か」
答えを先に言ってやった。案の定、羽琉が頷いたから、くっそー、このモテ男めと、残りのお茶を呷るように飲み干した。
「顕子さんが真里也の表情を見て、マズイって思ったんだってさ。お前に会って話をしないとって焦ったらしいんだ」
「そっか……だから俺に会いにきてくれたんだ。どうしよう、めちゃくちゃ申し訳ないことをした」
「顕子さんは気にしてないよ。それどころか真里也と直接会って、動揺している姿が気の毒だと思ったみたいだ。かわいそうだから早く会いに行けって、俺に発破をかけてくれたくらいだったし」
「羽琉……俺、顕子さんに謝りたい。今度会わせてくれないか。その……彼女が男……同士の恋愛に嫌悪がなければ、だけど」
座卓に視線を落として呟くと、頭をくしゃくしゃと撫でられた。
「顕子さんも貴文さん、オーナーも偏見がない人だ。それに、真里也にだから話すけど、貴文さんの弟さんも恋人は同性なんだ。だから変な言い方だけど、そう言うことに慣れてるって言うか……」
照れくさそうに羽琉が言うからホッとした。
働く中で、羽琉が変な色眼鏡で見られていないのならそれでいい。
「……いい人たちに出会えてよかったな、羽琉」
心の底から思ったことを口にした。
行く宛のない羽琉を救ってくれた、顕子さん達にも感謝をした。心からお礼を言いたい。
「ああ。真里也、今度一緒に会いに行ってくれるか、オーナーたちのとこに」
「もちろん! 俺、すっごく楽しみだ」
とびっきりの笑顔で答えると、真里也は食事の後片付けをしながらもうひとつ、話したいことを頭に浮かべた。
けれど、それは真里也の我儘な理由だから、今は胸に収めておくことにしよう。
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