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もうひとつの家族
博物館の休館日は月曜日だけれど、学芸員もその日が休み──と言うわけではない。
基本、真里也たちスタッフは土日が休みだ。ただ、博物館は土日も開いているので、休日はローテーションで出勤する。
学芸員の人数にもよるが、平均して月に一回の土日出勤がある。休館日は主に、開館中にできない業務を行っていた。
展示室の照明を変えたり、業者が作業する立ち合いをしたり、大がかりな仕事だと展示作品の入れ替え作業もある。壁にかけるバックパネルは長くて重いから、数人がかりで作業をしないとできない。そんな裏方の仕事を休館日に行なっているのだけれど、申し訳ないと思いながら、真里也は月曜に有給休暇をもらった。
「あー、緊張す──あ、手土産を玄関に出しとかないと、絶対に忘れる」
自室で身支度をしていた真里也は、絶対に忘れてはいけない物を紙袋に入れると先に玄関へ持って行った。
今日は羽琉が働いている『洋食屋カーム』を訪れる日だ。
勤務先の博物館から真里也の家までは三十分ほどかかる。羽琉が勤める店も同じ街にあるから、射邊家から店までの所要時間は、電車やバスの待ち時間も足せば一時間ほどで着く。
羽琉のアパートも店の近くにあるから、隣町で待ち合わせしようと言ったのに、羽琉がここまで迎えに来ると言う。嬉しいけれど、それは合理的じゃないからと言って突っぱねた。
それなら、二人が通っていた高校の最寄り駅までだったらいいかと執拗に食い下がられたから、そこまでなら、と嬉しさを押さえながら了承した。
合理的──。
この言葉は、まさしく真里也がずっと温めてきたことを表すものだった。
自分で口にした言葉のせいで、ずっと胸にしまい込んでいることを、どう切り出せばいいのかを考えてしまった。
羽琉と初めて結ばれた日に、本当は口にしようかと思っていたけれど、何となく羽琉の店のオーナー達に会ってからの方がいいのではと、言わずに今日を迎えた。
そろそろ家を出る時間になり、真里也は仏壇に手を合わせた。
羽琉の夢が叶えられるよう、応援して下さいと、博たちに祈った。
戸締りの確認をして、最後に玄関を閉めると、手土産ともうひとつ小さな紙袋を自転車のカゴに入れて出発した。
商店街を突っ切り、駅まで辿り着くと、自転車を押していつも駐車する場所に着く。すると既に羽琉が到着していて手を振っていた。
「羽琉、もう着いてたんだ。ごめん、待たせた」
「全然。俺が嬉しくて、早く来過ぎただけだ」
肩からサコッシュを下げて、満面の笑顔で迎えてくれる姿が嬉し過ぎて、無意識に駆け出していた。
俺だって嬉しい。こんな日を迎えられるなんて、夢にも思っていなかったんだから。
ホームで電車を待つ二人の位置も高校の時と同じで、真里也が壁に寄り掛かり、羽琉が目の前に立つ。何となく取った行動なのに、懐かしいなと思っていたら、「高校ん時と同じだな」と、羽琉も同じことを口した。
たったそれだけのことなのに、胸が締め付けられる。
四年以上離れて過ごしたことが嘘のように、二人の感覚は高校のときと変わらず──いや、もっと大切で近い存在に感じるのは気のせいだろうか。
何気なく羽琉の方を見ると、同じタイミングで見下ろされて瞳が絡まる。
「誰もいなかったら手、繋ぎたかったな」
極上の微笑みでそんなことを言われると、とろとろに蕩けそうになる。
自分がホットケーキなら、羽琉は間違いなくシロップだ。これでもかと言うくらいの蜜を注がれ、ひたひたになって羽琉の全てが真里也に浸透する。既に脳内を蜜熟されている真里也は、うん、とひと言だけしか返せなかった。
店の最寄り駅に到着し、店へ向っていると、どんどん緊張が増してくる。結婚相手の親に会うってこんな感じなのか? などと呑気なことまで考えて気を紛らわせた。
洋食屋カームの定休日も月曜日で、この日に行ってもいいかと聞いたのは真里也だった。
羽琉から聞いた店の繁盛ぷりだと、営業中に尋ねることは避けるべきだと思ったからだ。
店に辿り着くと、羽琉がドアノブを手にしたまま振り返る。
すぐ後ろを歩いていた真里也は、危うく背中にぶつかりそうになり、「ど、どうした?」と、焦った。
やっぱりやめようとか言われたら悲しい。
「……また、真帆がその、俺のこと『はるパパ』って呼んだら、ごめんな……」
申し訳なさそうに言うから、真里也は思いっきり首を左右に振った。
「平気だ。理由がちゃんとわかったんだし、それに真帆ちゃんの気持ちもわかる。俺だって羽琉みたいにカッコいい人を、自分のものだって言いたくなるし」
「真里也は俺のものだ、初めて会ったときからな。俺だって真里也のものだろ?」
天使の微笑みで俺のもの、なんて言われたら、天に召されたのでは? と思ってしまう。何も知らなかった数日前と違い、パパ呼びも、キーホルダーのこともわかっている今、真里也が怯える理由は何もない。
ドアを開けると、定休日なのに美味しそうな匂いがした。
羽琉の後ろに付いて中に入ると、タイルが貼ってあるカウンター席と、テーブル席が目に入り、アメリカンカントリー調で統一された家具や装飾品が、木の温もりを醸し出している。
店内の雰囲気に心がほぐれていると、「はるパパー」と、可愛らしい声と足音が聞こえてきた。
「真帆っ。あ、顕子さん。あれ、貴文さん退院したんですか!」
羽琉の背中から顔を出して覗いた先には、水彩画の講座に来ていた、可愛らしい女の子と顕子が立っていた。そしてその横には、松葉杖を付く男性の姿もある。
「よお、羽琉。久しぶりだな、って先週も見舞いに来てくれてたっけ」
松葉杖の貴文が、痛々しい右足を杖で支えながら、こちらへと歩いてくる。
「そうですよ。なのに退院するなんて俺、聞いてませんけど」
「いやぁ、ほんとだったら退院はもう一週間先だったんだけど、お前が好きな人連れて来るって言うからさ。居ても立っても居られなくて出てきちまった」
「ちょ、ちょっと大丈夫なんですか? せっかくくっ付いた骨がおかしくなりません?」
貴文が、そんなのならねーよと言い、ガハハと大声で笑うから、顕子が後頭部をペチリと叩いた。
「ったく、退院するって効かなかったのよ。この人ったら絶対に直接、羽琉君の恋人見るんだって聞かなくて、担当医の先生が根負けしたんだから。ねっ、それより早く紹介してよ、羽琉君」
カウンターの中で飲み物の用意をしながら、嬉しそうに顕子が言ってくれる。
「顕子は何度も会ってるんだろ? 真帆の絵画教室んときとかさ」
「それを言うなら、水彩画講座よ。ね、真里也君」
片目を瞬かせて顕子が言った言葉で、真里也は謝罪することを思い出し、すいませんでしたと、頭を下げた。
「あの、俺あなたに失礼な態度をとってしまって……。それに何度も博物館に来てくれたのに、俺ってば、ちゃんと話も聞かないで」
下げた頭を起こすこともできず、真里也は申し訳ない気持ちいっぱいで謝罪をした。
「やだ、謝らないでよ。それに謝るのはこっちよ。あなたのことを知らずに傷付けてたんだもの」
カウンターの中から顕子が慌てて出てくると、真里也に劣らぬほど深く頭を下げてくる。
「や、やめてください。俺が勝手に勘違いして──」
「違うわ、真帆が羽琉君のこと、パパって呼ぶのを叱らなかった、私が悪いのよ」
いえ、俺が、いや、私がと、真里也と顕子がコメツキバッタのように頭を下げているから、「どっちもどっちだなと」と、貴文が笑い出した。
「す、すいません。あの、これアップルパイです。お口に合うかどうか……」
バツが悪くなり、持参した紙袋を差し出すと、顕子の目がキラリと輝いた。
「アップルパイ! 私と真帆の大好物よ。え、もしかして真里也君の手作り?」
「はい。レストランの経営者の方々に食べてもらうのは烏滸がましいけど、お好きだって羽琉から聞いたんで……」
「顕子さん、真里也のパイは絶品ですよ。手先が器用だから飾り付けも本格的だし、煮詰めた林檎にカスタードクリームまで入ってるんだから」
羽琉が得意そうに話すから、更にハードルが上がる。もうそれ以上は言うなよと、心の中で叱責した。
「嬉しいわ、ありがとう。早速いただきましょう。父も甘いものに目がないのよ。今日は自治会の集まりで日帰り旅行に行ってるから、帰ってきたら喜ぶと思うわ」
さ、どうぞ座ってと、カウンターの席を進められ、羽琉が座るのを見てから真里也も席に着いた。
すると、さっきから父親の影に隠れながら、真里也をジッと見ていた真帆が羽琉の隣に座ろうと、背丈と同じ高さほどある椅子によじ登ろうとしている。
「真帆、こっちに来てなさい。邪魔になるでしょ」
顕子に手招きされても、やだ、やだと首を左右に振り、羽琉の側から離れようとしない。
「ったく、真帆は本当に羽琉が好きだな」
父親は俺なのに嘆かわしいと、ぶつぶつ文句を言いながら、松葉杖をカウンターに立てかけた貴文が真里也の横に座った。
「娘さん、本当に可愛いですね。羽琉が可愛がるのも無理な──あ、そうだ。あの、清瀬さん。これ、真帆ちゃんにあげてもいいですか」
真里也はもうひとつ持参していた紙袋をカウンターの上に置き、貴文に差し出した。
「す、凄いな。もしかしてこれも手作りか……。こりゃ、真帆が喜ぶぞ」
紙袋を覗き込みながら貴文が呟くと、自分のことを言われたと気付いた真帆が椅子からピョンと飛び降り、「パパ、真帆にも見せて」と、父親の膝によじ登っている。
「ほぉら、真帆が大好きなものだぞ」
紙袋から出てきたのは、木で作ったコーヒーカップと、ワンカットの形状をしたイチゴのケーキだ。おまけにケーキ皿まである。
「すごぉい! ケーキとお茶だっ」
「ま、真里也。お前、いつの間にこんなの作ってたんだ。スッゲェな」
真帆と一緒になって、羽琉も感心している。顕子も凄い、さすがと眺めていたら、横から貴文が触ろうとしたものだから「ダメ、これは真帆の」と、我が子に手をピシャリと叩かれていた。
「いや、よくこんなの作れるね、真里也君。感心するよ、本物そっくりだ」
「パパ、見て。イチゴの裏が磁石付いてて、乗っけたり外したりできるよ。凄くない? 真里也君、これ売れるわよ」
興奮した顕子が言うと、「ママ、返して」と、真帆がケーキを奪い返している。大事そうに胸に抱えると、誰にも触られたくないのか、カウンターから離れてテーブル席に座ると、カップとケーキを並べては、手に取ってを繰り返している。
「めちゃくちゃ気に入ってる。ありがとう、真里也君。大変だったでしょう」
「い、いえ。社会人になってから彫刻をサボってたんで、あまり上手くできなかったけど、真帆ちゃんが羽琉のキーホルダーを気に入ってたって聞いて、ちょっと作ってみました」
「ちょっとのレベルじゃないよ、これは。よかったな真帆。ちゃんとお兄ちゃんにお礼を言いなさい」
貴文に言われ、ハッと気付いた真帆が真里也の側まで来ると、「ありがとう、お兄ちゃん」と、お日様のような笑顔をくれた。
小さな女の子の純粋な笑顔を貰い、真里也は視線を合わせるように屈むと、また作って来るねと笑顔のお返しをした。
「ちょっと、羽琉君。真里也君が可愛すぎるんだけど。よくこんな可愛い子何年もほったらかしにしてたね。ねえ、パパ」
パイを皿に乗せながら、顕子が感嘆を漏らすと、貴文も、他のやつに持ってかれなくてよかったよなぁと腕を組んで、うんうんと納得している。
「ほんとーにっ、真里也がだれのものになってなくてよかったです」
三人が深妙な顔で額を突き合わせ、変な話をしている。恥ずかしくなった真里也は、彼らから逃げるように真帆のところへ行くと、向かいに座ってお茶会に招待された。
定休日の店内で和やかな時間を過ごしていると、夕食の時間になり、一緒に晩ご飯でもと誘われたからご相伴に預かることにした。
顕子達が振る舞ってくれた食事はどれも美味しくて、真里也は思わずレシピを教えて下さいと叫んでいた。
美味しい料理を羽琉に食べさせたい。真っ先に浮かんだ理由は、きっと顕子達には見破られてしまっただろう。
片付けを手伝っていると、真里也の側には何故かずっと真帆がいた。
真里也と羽琉がそろそろ帰りますと口にした途端、真里也の足にしがみついていた真帆が泣きそうな顔で見つめてくる。
「帰って欲しくないみたいね。まーほ、お兄ちゃん、帰れないから手を離しなさい」
顕子の声に、頬をぷくっと膨らませ、グッと涙を堪えている真帆が、反対の手で羽琉のズボンまで握り締めている。
「へぇ。羽琉だけかと思いきや、真里也君まで好きになるとは、我が娘は見る目があるなぁ」
貴文が呑気に言うから、顕子にまたペチンと叩かれている。
「真帆、お兄ちゃん達困るでしょ、バイバイしなさい」
宥めるように言っても、真帆の手は離れない。真里也は、しゃがんで真帆に顔を寄せると、「今度来る時は、お子さまランチを木で作ってくるよ」と、囁いた。
真里也の言葉に丸い瞳が輝き、ほんと? と小首を傾げて来る。
「うん。ママとパパの言うこと聞いて、お利口にしてたらね」
真里也が答えると、花が綻ぶように笑って、「真帆、いい子で待ってる」と笑い、ようやく手を離してくれた。
三人に見送られると、真里也も彼らが見えなくなるまで手を振って別れを惜しんだ。
「羽琉、今日は連れてきてくれてありがとう。俺、すっごく幸せだ」
駅へ向かいながら横に並ぶ羽琉を見上げると、なぜか泣きそうな顔をしている。
「な、なんでそんな顔してるんだよ。俺、変なこと言った?」
真里也の質問に、羽琉が無言で首を左右に振る。ジッと見据えられていると、突然抱き締められた。
「ちょ、ちょっと羽琉。人が、見てるよ」
駅はもう目の前で、通りには家路を急ぐ人がちらほらいる。男同士が抱き合っている様子を訝しげに見てきたり、あれって酔っ払い? と呟く人もいた。それでも、羽琉の腕の力は緩まない。
「真里也……俺の方こそ、ありがとう。みんなに会ってくれて」
耳元でそっと囁かれた言葉の意味を、真里也は噛み締める。
離れていた間、言葉で聞いた以上に、きっと清瀬家の人達に温もりを与えてもらっていたのだろう。羽琉にとって大切な存在を、理解してもらえたと思っているのかもしれない。
真里也は羽琉の腕の中で背伸びをすると、毛先がクルッと丸まっている髪をかき分けて、羽琉の耳に呟いた。
早く二人になって、もっと抱き締めて欲しい……と。
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