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第3話 記憶のない人
「そなた、名を何と言う?」
その問いかけに、男は応えられない。侍医が言いよどんだのもそれだった。男は自分の名が分からないのだった。
セティは、困惑気に侍医を見る。
「はい……わたくしも先程尋ねたのですが、どうやら分からぬ様子で……」
名が分からぬ! そのようなことがあるのか? セティには衝撃の事実だ。理解が出来ない。
「自分の名が分からぬのか?」
男は苦し気な表情で頷く。自分でも困惑しているのだろう。
「どこから来たかも分からぬのか?」
やはり男は頷いた。セティは再び侍医を見る。
「どういうことだ? このようなことがあるのか?」
「なにか大きな衝撃があると、人は記憶を失くすことはあります。多分でございますが、あの様子からも、何か大きな災難が降りかかったのかもしれません」
記憶を失くす……名も分からぬのなら、そうなのだろう。しかし、それほどの衝撃とは、一体何があったのだ?
セティは男が哀れで益々ほおってはおけない気持ちになる。
「そうか……どうしたら元に戻ることが出来る?」
「それは、私には……侍医長なら何かご存じかもしれませんが」
セティ付きの侍医は直ぐに呼べるが、侍医長を呼ぶことはウシルスを通さねばならない。ウシルスは、今日は視察のため王宮にいない。帰りは明日の予定だ。
「そうか、では明日わたしが兄上にお許しをいただく。合せてこの者の身元の調査もお願いしよう。家族がいるなら心配しているかもしれない。しかし、名が分からぬとは可哀想だな……」
セティの中で、男に対して哀れみの気持ちが大きくなる。何とかして助けてやりたい。困った国民を助けるのは王族の務め。この時のセティは、男をこの国の民と思っていた。
「今日はこのままここで、保護してやろう」
この言葉に、皆慌てた。ウシルス不在中に、見知らぬ男を王子の宮に泊めるわけにはいかない。連れて来たことに加えて一層ウシルスの怒りが怖い。
「セティ様、それはなりません。王太子殿下の留守に見知らぬ者を泊めるなど出来ません」
「しかし兄上のお帰りは明日だ。ここから追い出すと言うのか? そのような惨いことわたしには出来ない」
王太子の怒りの怖さと、セティの優しさに応えたい気持ちの狭間に、皆考え込む。
「ではわたくしの部屋に連れて行きましょう」
男の側にいたアニスが言う。アニスは、王宮の一画、従者たちの住まいが並ぶ中に部屋を持ち、母のヘケトと住んでいた。二人共一日中セティの側に仕えているので、ほぼ寝に帰るだけではあったが。
皆、アニスの言葉に安堵する。それだったら、多分大丈夫だろう。良い落としどころと言える。
「そうか……そうだな。そうしてくれるか、お前の所なら安心だ」
セティも安堵の思いと共に納得した。アニスの所なら安心できる。
そして男も会話の成り行きを不安げに聞いていたが、ほっとしたようだ。連れて来られた時から、アニスは親切だった。服も貸してくれた。この人の所なら安心と思うのだった。
アニスに連れられて、男はセティの宮を退出した。セティは離れがたい思いでそれを見送った。
アニスの部屋で男は、一番気になっていることを尋ねたいと思った。自分の記憶が無いことは勿論衝撃的で、今も頭がズキズキと痛む。不安で一杯だ。
しかし、あの優しいお方。皆がセティ様と呼んでいたお方。あのお方はどういう身分の方なんだろう? それが物凄く気になるのだ。
「あの、セティ様? ですか……どういう立場のお方なんですか?」
男の問いにアニスは、そうかこの者は何も知らないのだと思い至った。
「セティ様は第二王子だよ。ご嫡男のウシルス様が王太子殿下だ。セティ様の王子の宮は王太子殿下の管轄なんだよ」
アニスはセティの身分と、もう一人第一王女の姉がいることなど王族の構成を説明した。男は、記憶は無いが理解力はあるようで、アニスから見ても聡明さを感じられた。やはり、何かよほどのことが身に降りかかったのだろう。憐憫の情が湧く。
「そなた、本当に気の毒ではあるが、あそこでセティ様に救っていただいたのが幸運だった。セティ様は優しいお方だから力になって下さる。そこは安心して大丈夫だ」
優しいお方、それは男にも分かった。だから、ズタボロになった自分を救ってくれたのだろう。
そうか、王子様なんだ。皆が傅いていたし、輝くようにきれいな方だった。あんなにきれいな方がこの世にいるのだろうか……そう思った。
「セティ様、きれいな方ですね」
「ああそうだ。セティ様は国で一番きれいな方だ。どんなにきれいと言われる方も、セティ様の前では色あせて見える。セティ様の乳兄弟として育ち、お側近くお仕えできるのは、心から幸せだと思っている」
「乳兄弟なんですね」
「そうだよ、乳母のヘケトが私の母親だからね。母と私はセティ様が産まれた時からお仕えしている。セティ様が産まれる少し前に母が死産してね、その時は悲しかったが、セティ様のおかげでその悲しみは随分と癒された」
子を亡くしたヘケトは献身的にセティに仕えた。本当の母のような愛情を注いだのだった。
それはアニスも同じだった。五歳だったアニスは、生きることができなかった弟の代わりのように、セティを守り仕えてきたのだった。
二人の献身はセティにも伝わり、一番信頼している従者なのだ。セティと家族の間柄も随分と蜜ではあるが、それでも家族以上に二人はいつもセティの側にいる。
男は、アニスが羨ましいと思う。自分もそのようにセティの側にいたいと思うのだった。
翌朝、男はアニスと共にせセティの宮へ来た。
「顔色は悪くないな。よく眠れたか?」
「はい、おかげさまでよく眠れました。セティ殿下のご配慮のおかげでございます」
セティは微笑みながら頷いた。
この時、アニスは男の態度と言葉遣いに驚いた。教えた訳ではないが、王族に対するものが身についていると思ったのだ。それだけではなく、昨日から男の態度行動に、身に付いた上品さを感じていたのだ。
記憶は無くしているが、体で覚えていることは忘れないのだろう。多分、それなりの身分の人なのだろうと思えた。
それをセティにも伝えると、セティも同意した。
「アニスお前もそうか。わたしも同じことを感じている。だからこのままにしておけないのだよ。助けてやらねばならない、そう思うのだ」
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