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第4話 王太子ウシルスの怒り

 セティが竪琴を奏している。  セティの奏する音色に、男はうっとりと聞き惚れている。極上の心地良さ。  自分のことを、名前すら思い出せない辛さを、ひと時忘れることができる。そんな思いだ。  記憶は無いが、これほどの音色は経験したことが無い。それははっきりと分かる。素晴らしい音色なのだ。  男には奏でるセティが天使のように思える。きれいで、優しいばかりではない。この世のものとは思えない素晴らしい方だ。  男の胸はセティに対する思いで一杯になる。    男だけでなく、宮にいる者全てがその音色に聞き惚れている。セティの奏でる琴の音は、だれしもが、天上にいる気分となるからだ。  特に今日は、セティの気分も良いのか、いつにも増して素晴らしい音色だ。  だから気付かなかったのだ。王太子ウシルスの訪れを。  ウシルスは王宮に帰還すると、国王に挨拶を済ませた後、王太子宮で昨日の報告を受けた。  セティへの土産を手に王子の宮に行こうとするウシルスへ、近衛隊長が恐る恐る報告したのだ。  セティが男を助けた! どういうことだ!? 昨日はアニスが連れ帰ったとのことだが、今もそうなのか? 直接セティに質さねばならない。ウシルスは、足早にセティの宮へ向かった。  すると、琴の音が聞こえてくる。セティが竪琴を奏しているのだ。ウシルスの表情が緩む。セティの奏でる音色は極上の気分にさせる。それはウシルスもだった。  両親である両陛下も、姉のアティスもで、皆セティが竪琴を奏でるのを楽しみしているのだった。  が、その気分は直ぐに怒りに変わる。  竪琴を奏するセティの側に見知らぬ男がいたからだ。この男か、セティの助けた男は!? 「なんだこの男は! 王子の宮で、しかもセティのすぐそばで!」  皆、その大音声にびくっとした。うっとり極上気分が一気に冷める。 「あ、兄上……」  セティもびっくりして、竪琴を置きウシルスに近寄る。ウシルスはそのセティを抱き寄せ、男を見下ろす。男はそのまま深々と頭を下げる。恐れに硬直しているようだ。  他の者もウシルスへの恐れで身を固くしている。  ウシルスは普段暴君では全くない。厳しいところはあるが、優しさも併せ持っている。父国王を助け、将来は理想的な君主になるだろうと期待もされている。部下からも慕われ、崇拝されているくらいだ。  しかしそのウシルスが、セティに対する愛情は尋常でなく、独占欲も強い。セティを害する者は無論だが、近づく者も厳しく吟味する。ウシルスに許された者だけが近づくことが出来るのだ。  男は、当然ウシルスの許しを得ていない。それは、側近たちの責任になる。皆、緊張した。 「兄上、どうかお怒りをお静めください」  兄の怒りに、セティは涙目で言う。ウシルスはセティの涙に弱い。怒りに動揺が加わる。 「セティ、兄はそなたのことを怒っているわけではない。そなたのことを心配しているのだ。見知らぬ者を側に置いて害があってはならないからな」  ウシルスは、セティを抱き上げて言う。昔から何かというとセティを抱き上げる兄なのだ。  セティは兄に抱かれたまま、懸命に昨日からの経緯を説明する。 「そなたが捨て置けないと思う気持ちは、わたしにも分かる。セティは優しいからな。しかし、その優しさに付け込む輩もいるのだ」 「そんな……この者はそのような輩とは思えません。こんな、純粋な眼をした者に邪悪な者はいないと思います」 「純粋な眼か……確かにな。しかし、この者が何者か調べて見なければ分からぬだろう。もしかして、裏で糸惹く者がいるやもしれぬ。はっきりと判明するまではここへは置けないのだ。それがここを管轄するわたしの役目でもある。もし、万が一にもそなたの身に何かあれば、わたしは両陛下へも顔向けできない」  セティは、兄のその言葉に動揺する。兄もセティの身を両陛下から任されているのだ。    そしてウシルスは、控えている者たちに厳しい目を向ける。 「それをセティに進言するのがお前たちの役目だろう。職務怠惰も甚だしい!」  ウシルスの怒りがこちらに向いてきた。当たり前ではある。皆、緊張に下を向いている。到底頭を上げることは出来ない。ある意味、ウシルスの怒りはもっともだからだ。全く反論は出来ない。  セティが強く望んだからだと、言い逃れをするのか……そのような事を考える者はいない。事実はそうだったが、それで言い逃れする者など皆無。皆、セティを崇拝しているからだ。  ウシルスの受ける崇拝とは種類は違うが、セティも従者から崇拝されている。セティの場合、庇護欲も合わさったものかもしれないが。  セティはハラハラした。皆が、自分のために叱られるのは可哀そうだし、責任を感じる。無理を言った自覚があるからだ。  どうしよう、このままでは皆が兄のお叱りを受ける。そして、この者はここから出される。  そうなれば、この者には会えなくなるだろう。身元が分かっても、分からなくてもそうなる気がする。  それは嫌だ! 会えなくなるのは嫌だ。  セティの中にも、この記憶を失くした男への思いが芽生えていた。本人はいまだ自覚をしていない思い。  どうしたら良いか……。なんとか兄の怒りを収めて、この者をここに置く方法は……。  分からないが、一先ず皆への怒りは解かねばならない。 「兄上、皆に責任は無いのです。皆、わたくしを止めたのです。それをわたくしが押し切ったのです。だから、お叱りはわたくしが一人で受けます」 「セティ、聞きなさい。例えそうでもそれを押しとどめるのが、この者たちの役目なのだ。主に付き従うだけではいけない。時に、主を正すことも、ひいては主を守ることになる。そうでなくて、臣下は務まらぬのだ」  自分は間違ったことをしたのだろうか……。哀れな者を助けるのは間違ったことだろうか……。  そうとは思えないが、兄の言う意味もセティには理解できた。  セティは困ってしまった。益々どうしたらいいのか分からなくなる。  誰か助けて! と思うが、そんな者はここには誰もいない。皆、頭を垂れたままだ。この状況で、何か言える者は皆無だ。  父上か、母上に助けを求める? それは絶対に出来ない。それこそ、卑怯な振る舞いだし、兄上にも申し訳ない。  セティはそのまま暫し沈黙した。
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