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第6話 ネフェルと名付けて
「一時はどうなるかと思ったが、アティス様のおかげで良かったな」
「はい、しかしあなた様にはご迷惑をおかけします」
「迷惑などと思っていない。何もない所だが、まあゆっくりと過ごしてくれ。何しろ俺と母は、ここへは寝に帰るだけだから」
それは男にも分かった。アニスの母のヘケトとは昨夜、そして今朝もここでは会ってない。自分が寝ている間に帰ってきて、出て行ったのだろう。
「あなた様、そしてお母様もお勤め大変ですね」
「大変などと思っていないよ。セティ様にお仕えできるのは誇りだからな。セティ様が産まれる少し前に母は死産してね。その悲しみをセティ様が癒して下さった。畏れ多いことではあるが、母は産まれてこれなかった子を慈しむようにお仕えしてきた。それは俺も同じだ。セティ様のためならこの身を犠牲にもできる」
アニスの言葉に、何と言う忠誠心かと男は感動の思いで聞く。確かに、子や弟の代わりと言う気持ちもあっただろうが、それを超えた忠誠心を感じるのだ。
そして、それほどの忠誠心を捧げられるセティの魅力にも感心する。自分も既にその魅力を十分に感じている。
「お前さん、俺がいない間はどうする? ここに一人で過ごしてもいいが……」
「出来れば今日のように一緒に連れて行っていただけたらと思いますが、いけないでしょうか?」
「それは多分大丈夫だろう。警護も強化されるし」
アニスには、この男が悪い男とは思えなかった。一緒に王子の宮に行っても大丈夫だろうと思うのだ。もし咎められたらここへ戻せばいいだけだと思った。
翌朝、アニスに連れられて来た男を見てセティは微笑みかけた。
男はその微笑みに心が満たされるものを感じ、深々と頭を下げる。
「どうだ調子は? 顔色も悪くはないな」
「はい、おかげ様で。アニス殿が良くして下さいます」
「そうか。まだ……名は思い出せぬか?」
「はい……申し訳ございません」
「謝ることはない。そなたも辛いだろうからな……しかし、名がないのは不自由だな。どうかな、仮の名を付けたらと思うが」
「仮の名でございますか」
「そうだ。そなたが自分の名を思い出すか、調査で判明するまでの仮の名だ。本当の名が分かればその時から戻せばよい」
「そうでございますが、どのような名を仮の名に?」
セティは小首を傾げ沈黙した。男の仮の名を考えているようだ。
男は、セティが自分の名を考えてくれることにワクワクした。どんな名を付けてくださるのだろう?
「ネフェルはどうか?」
「ネフェルでございますか?」
「そうだ、蓮の花の意味がある。そなたは湖のほとりで生き倒れていた。相応しい名と思うが、どうかな?」
男は感動した。ネフェルという名も、蓮の花の意味も知らない。知っていたかもしれないが、今の自分には未知の名。だが、今それを知った。
なんと素敵な響き! そしてその意味にセティの優しい思いを感じる。
「素晴らしい名でございます。そのような名、わたくしに相応しいでしょうか?」
「相応しい、そなたに合うと思う。よしっ、決まった。そなたは今からネフェルだ」
「母さん、彼はネフェルだよ」
アニスから聞かされたヘケトは驚く。
「名前、思いだしたのかい!?」
「違う、名が無いのは不便だからとセティ様が仮の名を付けて下さったんだ」
「そう、仮の名を。ネフェル……セティ様は良い名を付けて下さったね」
ヘケトも名が無いのは不便だと思っていたが、本人が分からないのらどうしようもないと思っていた。仮の名前か、さすがセティ様の考えることはそつないと感心した。
セティが男にネフェルと名付けたことは、直ちに皆に浸透した。皆が、違和感なく男をネフェルと呼んだ。まるで本当の名のように。男もそれを、喜びと共に受け止めた。
セティ様は、瀕死の自分を助け、名まで与えて下された。男の、ネフェルのセティへの思いは強まった。
ネフェルは、でしゃばることなく、アニスの後ろに控えるように……しかし、ネフェルの視線は常にセティを追っていた。
セティも常に、ネフェルが側に居ることで安心していた。
今まで、セティの側には常にアニスが控えていた。物心つく前から側に居たのがアニスなのだ。本当の兄弟である、姉のアティスや兄のウシルスより側にいた時は長いかもしれない。もう一人の兄のような、正に乳兄弟であった。
そのアニスと同じように、今はネフェルも傍らに控えている。そのことにセティは、心地よさを感じるのだった。とても安らぐのだった。
「ネフェルは育ちが良いのだろうな」
午後の一時、庭園を散策しながらセティが独り言のように言う。聞いたアニスは頷いた。自分も思っていたのだ。
「わたくしも感じていました」
「そうだろう、言葉遣いや態度に育ちの良さがにじみ出ている。記憶は失っても身についているものは消えないのだろうなあと、ネフェルを見ていて思う」
他の者たちも同意なのだろう。皆、頷いている。
ネフェルには、褒められているのだろうか……何やら面映ゆい。
「だからこそ思うのだ。ネフェルの家族は心配しているだろうと……早く見つけてやりたいな。何か分かれば、兄上がお知らせくださるはずだが、まだだからな……」
考え込むようなセティに、ネフェルは申し訳なさで一杯になる。自分のことでセティの心を煩わせるのが辛い。
セティには常に、朗らかに微笑んでいて欲しい……そう思っているからだ。
「セティ様のお心を煩わせて申し訳ございません。わたくしが思い出せないばかりに……」
「ネフェルに罪はない。侍医も言っていた。こういう事はあると……むしろそなたは哀れなんだ。助けてやりたいとは思っているが……」
「王太子殿下の命令で調べも進んでいるでしょうし、ネフェルも随分と落ち着いていますから、そのうち思い出すやもしれません」
アニスが、二人の気持ちに慮って言うと、セティも、ネフェルも頷いた。どちらにせよ、今は時間が必要かもしれないと思ったのだ。
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