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第38話 当たり前の日常

【当たり前の日常 1/2】  セオドールはあまり喋らない子供だった。ベランダに放り出されている事も多く、冬でも裸足で外をウロウロしている姿が何度も目撃されていたが、自分の生活で精一杯な人間ばかりの都会では正しい施設に保護される事もなく、いつもお腹を空かせて道端で食べられるモノを探してしゃがみ込んでいた。  6歳になっても小学校へ行く事もなく、たまに帰ってくる母親が連れて来る男に暴行を受けても誰も助けてはくれなかった。 「テッド!!勝手に外に出るなって言ってんでしょ!」 「……」 「その目で見ないで!ああもう、本当にムカつく……!!」  しかしそんな母親に対して、彼の中に"怒り"という感情は全く無かった。そもそも、怒りも悲しみも知らなかった。  ただ、ある日とうとう事件は起きてしまった。母親にまで手を上げようとした男の腕にセオドールが噛み付いたのがキッカケだった。  自分を守ろうとしたにも関わらず、男に噛み付いたセオドールに一番に激昂したのは母親だった。男に「そのクソガキを殺して」とまで叫んだのだ。  幼いセオドールにその言葉の意味は分からなかったが、大人の男に本気で首を締め上げられて、一瞬で気を失った……はずだった。  次に目を覚ました時には母親も男も首から血を噴き出して絶命していたのだ。  セオドールはそのまま「家から出るな」という母親の言いつけを守り、水だけで何日も生きていた。  餓死寸前の所で異臭による苦情を受けた大家が部屋に入り、惨状を目にすることになる。  当初、二人の死は強盗の仕業ではないかと疑われもしたが、現場検証によりセオドールの仕業で間違いないと警察は判断した。 「こんな幼い子が、まさか……」  保護されたセオドールは非常に大人しく、痩せ細り、体も傷だらけでとても大人二人を殺せるようには見えない。  保護施設の職員たちはその余りの状況を不憫に思い、涙を流したほどだった。  こんなにも幼い殺人犯をどう扱えばいいのか、とにかく体の傷が癒えて栄養状態がマシになれば、一度警察へ連れて来るようにと施設は指示を受けていた。  しかしそんなある日の夜、静かに眠っていたはずのセオドールが突然豹変したかのように暴れ、職員たちに重傷を負わせて姿を消してしまった。  そのまま道端で眠っていた所を警察に捕まり、子供だからと油断してはいけない相手だと、両手が全く自由にできない拘束衣を着せられ、足にも鎖を付けられて監禁される事になる。  そこでセオドールは手も足も自由に出来ない状態で、また酷い目に遭う事になった。  ただその相手が変態だった事が、ある意味幸いしたとも言える。ストレスの捌け口と言わんばかりに気の済むまで小さなセオドールを痛めつけるだけに飽き足らず、自らの醜い欲望までをもぶつけようとした。  もう動けないだろうと甘く見て、気絶しているセオドールの拘束衣を剥ぎ取った瞬間、その男の意識は途絶え、それっきりとなった。  ***  セオドールは気が付けば知らない路地裏で眠っていた。2年の時が過ぎ、8歳になっていた。精神的な自己防衛が働いたのか、その間の記憶は無い。  ただクラクラするくらい暑い夏だった。本能的に水を求めてフラフラと公園へ行くとホームレスたちが食べ物を分けてくれた。  ゴミ山から現れたゴミのようなニオイのする小さな子供にホームレスたちは"|カディレ《ごみ》"とあだ名を付けて呼んだ。  特に深い意味はない。ここのホームレスたちの呼び名は皆そんな風につけられていた。ある者は"フェンス"、ある者は"廃車"、またある者は"缶"だ。  その公園の近くでホームレスたちと暮らした日々はセオドールにとって、初めての平和な時間だった。それから4年後、政策によりホームレスたちの|棲家《すみか》が全て奪われてしまうまでは。 「カディレ、どこに行くんだ」 「おい、カディレ」  今日からどこで眠るかと考えながら、公園で配給を待つホームレスたちはセオドールがどこかへ立ち去っていくのを心配そうに見送ったが、誰も追いはしなかった。皆、自分の事で精一杯だった。 「ねえ君、こんな時間に何してるんだい?」 「……」  ホームレスでもない"普通"の人間に"普通"に話しかけられるのはそれが人生で初めてだった。  棲家を追われ、行くあてもなく、ぼんやりと道端でただ突っ立っていたセオドールはそうして若い警察官に保護された。  *** 「はい、家出か育児放棄か、分からないのですが……どうにも酷いニオイで、シャワーもロクに浴びてないようなんです。いえ、何も話してくれなくて……」  電話を切った警察官はにこやかにセオドールに向き直り、辿々しくいくつかの言語で挨拶をした。 「どれも違うのかな?やっぱり言葉はわかってるけど、話したくないだけ?耳は聞こえてる?」 「……おなかすいた」  それはホームレスたちが教えてくれた言葉だった。配給を受け取る時、この言葉を言えばご飯がもらえるんだぞと教えてくれた。 「そうだよな!そんなにガリガリで、お腹が空いてないわけがない」  警察官はすぐ自分の夜食用に買ってあったパンを持って来てセオドールに渡してくれた。 「身分がわかるようなモノも何も持ってなさそうだし、困ったな……」  結局、セオドールは記憶喪失という扱いで養護施設へ入居し、中学校へ通わせてもらえる事になった。人生で初めての"学校"だった。名前も分からないので、ひとまず「災いを避けられるように」と職員たちは彼に|ノア《安らぎ》と呼び名を付け、学校でもそう呼ばれることになった。  その間は精神科への通院も並行して行われたが、おなかすいた、以外の言葉を話すことは|終《つい》ぞ無かった。  当然そんな調子で学校の勉強についていけるハズもなく、社会性も皆無のため、最初は遠巻きに気味悪がられていたセオドールは次第にイジメられる対象となっていった。  どんなに酷い扱いを受けてもぼんやりと反応が薄いセオドールは何をしても反撃してこないとサンドバッグのように扱われていた。  そして中学3年生になった時、過ぎた悪ふざけで軽く首を絞められた瞬間からセオドールの記憶は抜け落ちている。  ***  次に気が付いたのはスラムの路地だった。  セオドールはそれまでもそれからも、ただぼんやりと、自らに何が起きているのか常に理解が追いつかないまま生きていた。  ただ言われるがままに決まった場所に立ち、決まったモノを受け取り、決まったモノを渡していた。そうするだけで食べ物と寝床は分け与えてもらえた。 「おい、あいつは?」 「いいんだよ、話しかけても反応しねーし」 「でも使ってやってんだろ」 「頭は悪いけど、一応言ったことは理解してるみたいでちゃんと言う事きくんだよ」  スラムの人間たちはセオドールに良くも悪くも興味は無かった。ただ働いただけの報酬は与えてやっていた。  この街では薬によって言葉を失ってしまったような人間も珍しくは無く、ぼんやりと立っているだけのセオドールも不思議と自然に溶け込んでいた。 「金を持ち逃げする頭も無いみたいだし、ちょうど良いんだ」 「いいなあ、俺もそういう便利な奴隷ほしいな」  だがここでの生活もそう長続きはしなかった。  スラムに警察が本格的に踏み込み、路地裏で生きる|薬の売人《バイヤー》たちを一網打尽にしたのだった。  そして、この時に入れられた少年院でのマウロアとの出会いが、セオドールの人生を大きく変える事になった。

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