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第39話 当たり前の日常 2
【当たり前の日常 2/2】
「はぁ……よろしくな。俺はマウロア」
それもまた、久々の"普通"の扱いだった。
挨拶をされている事は分かる。しかしセオドールの中にそれに対する返事の知識が無かった。
そもそも、話しかけられた事に対して返事を返すという常識を知らない。セオドールにとって会話とはキャッチボールではなく一方的に投げつけられるモノでしかなかった。
「おい聞こえてんのか?」
何を求められているのか分からないが、何やら反応を待たれているらしい事を理解する。それでも何をすればいいのかは分からなかった。
「……な……名前、なんていうんだよ」
自分の"なまえ"は知っている。しかしそれを口にする事は何故か出来なかった。名前は母親に死ぬほど痛めつけられる時に耳が痛くなるほどの声で叫ばれるモノだ。それを口にしようとすると体が震えた。
「俺はマウロア。あなたのお名前はなんて言いますか?」
名前を聞かれている事は分かっている。なのに上手く声が出せなくて、セオドールは不思議だった。
「あー……お前のこと、皆はなんて呼ぶ?」
その時、セオドールの頭にふと浮かんだのは"セオドール・A・ブラッドレイ"では無かった。
「カディレ」
反射的にそう答える。カディレと呼ばれるのは悪い気がしなかった。そんなセオドールの気持ちとは反対にマウロアは眉間に皺を寄せた。
「|カディレ《死体・ごみ》?」
それは古い言葉で"死体"という意味も含めていたので、酷いイジメのようなあだ名だと勘違いされたのだった。
「……わかった。俺はお前をシュートって呼ぶ。"カディレ"から派生して生まれた言葉のうちの一つだ。でもこっちの方がずっとカッコいい意味なんだぜ」
「……」
マウロアの言っていることの意味はよく分からなかったが、自分を思いやってくれている事はなんとなく感じられた。
***
監獄での生活は"楽し"かった。本当に人生で初めて、セオドール……シュートは"楽しい"という気持ちを知った。
マウロアは初めて出来た友達だった。シュートに根気強く話しかけてくれて、出来ないことを何度でも教えてくれて、ダメな事を叱ってくれた。眠れない夜には歌だって歌ってくれた。
シュートはマウロアが大好きになった。だから、マウロアの為に出来ることは何でもしようと思った。
複雑な感情を的確に言葉にする事は難しかったが、この頃のシュートは毎日のように"生きててよかった"という気持ちを味わっていたのだ。
だからこそ、マウロアを喪った後のシュートの喪失感は計り知れなかった。時間をかけて初めて"死"を理解した時、初めての悲しみに泣き叫んだ。
***
マウロアが連れて来てくれた"ゲートの外"はとても住みやすい場所だった。
誰もシュートに興味がなく、基本的に干渉してこない。食べるものは|首領《ドン》の部下が与えてくれて、シャワーが浴びれる場所も教えてくれた。
困ったら遠慮なく言えと言ってくれたものの、"困った"が分からないシュートは自ら頼りに行く事は無かったが、常に様子を見てくれている首領の部下が良いように計らってくれた。
たまに絡まれて何をしでかしても、この街では何ひとつとして咎められはしなかった。
そうしてここへ来てから3年ほどが経ったある日、現れたのが"ちゃた"……茶太郎だった。
シャワーを浴びたいと言われたので案内してやってからというもの、茶太郎は周辺をウロウロし始めた。人を疑う事を知らないシュートは茶太郎に付き纏われても何も思わなかった。
それが2、3日ではなく1週間、2週間、ひと月と期間がどんどん長くなって、それでも当たり前のように一緒に過ごしている事が何故なのかシュートは不思議に思ったが、マウロアと暮らしていた時のような感覚を思い出して嬉しかった。
茶太郎はシュートにとって人生で二人目の友達になった。
更に道端で暮らしていたのがいつの間にか"帰る場所"まで出来て、いつ帰ってもそこに茶太郎がいて、一緒のベッドに潜り込んで眠っても怒られない。(汚した時は怒られるが)
シュートにとっては茶太郎に出会ってから先の出来事がまるでずっと夢のようで、時々それが本当に幸せな夢を見ているだけで、ふと醒めてしまうんじゃないかと考えて怖くなるほどだった。
「……っ」
だから、早朝にハッと目が覚めた時に腕の中に茶太郎がいてくれると、胸が苦しくなるくらい、堪らなく嬉しくなる。うっかり力を込めると簡単に傷つけてしまう脆い体をできる限り優しく抱きしめた。
「ん……シュ、……ト?」
「ちゃた、だいすき」
「んん」
最期にマウロアの言った言葉を思い出す。
――シュート、お前を愛してくれる奴がきっといる。
――お前もそいつが大事だと思ったら、ちゃんと言葉で伝えるんだ。『愛してる』って。
――本当に好きで大事な奴に言う言葉だ。
マウロアのあの言葉は下手な慰めでも励ましでもなく、完全な確信だった。今まで、たまたま周囲に恵まれなかっただけで、シュートには人に愛される才能がちゃんとある。そう信じていた。
「ちゃた……あいしてる」
起こしてはいけないと思いながらも、その目が見たくてつい額に柔らかく口付ける。茶太郎は夢うつつでフニャフニャしながら「おれも、あいしてる……」と返事をした。
「……!」
その瞬間、シュートは言い表しようの無い感覚で体がいっぱいに満たされるような気持ちがして思わず身震いをした。それは初めて感じる幸福感だった。
「ちゃ……ちゃたっ!!」
「ぅおわ!な、なんだよ!?」
「ちゃた、ちゃたっ」
「な……なんだどうした」
目を覚ました茶太郎はシュートがボロボロ泣いているのを見てギョッとすると慌ててその背と首に腕を回して抱きしめた。
「おい、どうした?また怖い夢でも見たか」
「うー……ちゃたぁ……」
一瞬は焦ったものの、シュートの様子にどうも怯えているようではないなと気が付いた茶太郎は少し体を離してその瞼に優しくキスをしてやる。
「……ほら、どうしたんだ」
「わかんない」
「最近よく夜泣きするな。全く、本当に赤ん坊みたいなやつ」
寝ぼけていたが薄ら意識のあった茶太郎はその直前のことを思い出してきた。
「ショット、お前を愛してるよ」
「……」
すると腕の中でまたシュートが小さく震えるのが分かった。まだ外も薄明るい程度の早朝、部屋の中は真っ暗だったので茶太郎には分からなかったが、その頬は紅潮していた。
この上なく嬉しい気持ち……幸せで堪らなかった。生きてきて一度も言われたことの無かった言葉を、一番大切な相手に言われる事がこんなにも幸せなのだと初めて知った。
茶太郎はそんな事は知りもしないが、なんとなく察して何度も耳元で「愛してる」と囁いた。そして幸せに包まれたまま安心して眠りにつけるまで、ずっと頭を撫でてやるくらいにはこの純粋無垢な同居人を心から溺愛しているのだった。
「シュート?」
「……」
「おやすみ」
こんな事で二度と泣かなくていいくらい、コイツの人生を甘やかしてやりたい……と思いながら茶太郎もまた目を閉じた。
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