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第59話 二度と戻らない時間

【二度と戻らない時間】 「テッドの目はキラキラしてて本当に宝石みたいだな!」  これって、自画自賛になる?と笑う男の腕に抱かれた赤ん坊は青緑の瞳をくりくりと見開いて興味深そうにまじまじと男の顔を見つめている。 「|Peek-A-Boo《いないいないばあ》!」  その子と全く同じ瞳の色をした男は繊細なガラス細工に触れるようにその頬に口付けた。 「仕事に行きたくないよ、テッドと離れたくない」 「……」  しかしそんな幸せそうな一幕の隣で、何か薬を飲んだ女は疲れたようにため息を吐く。 「なあ、ごめんな……いつも任せっきりで。今度の週末はずっと家にいられるから」 「この子、まだ何にも喋らないのよ。もうすぐ3歳なのに……」 「焦らなくても大丈夫だって、前の検査では耳には何の異常も無かったんだろ?まず一安心じゃないか」  そう言っても暗く沈んだままの女に困ったように笑いかける。 「テッドはまだこの世界に生まれてきて3年足らずなんだ、いろんな事を学ぶのに心が忙しくて、お喋りに気が向かないだけだよ」  二人で寄り添うようにテッドを抱いて、先に呼ばれるのはパパかな、ママかな……などと笑っていた日々が遥か遠い過去のように感じられた。 「母親の不安を子供は敏感に感じ取ってる」  男は優しく女の肩に触れて安心させるようにその髪をそっと撫でる。 「君が笑ってたらお喋りしたくなるかも」 「笑えないわよ、こんな状況で」 「うーん」  な?テッド、と腕の中の我が子に声をかけるが、やはりじっと見つめられるだけで反応らしい反応は無い。こちらを見てはいるが、その視線は交わらなかった。 「俺が見ておくから、週末はどこかでリフレッシュしておいで」 「子供を置いて出掛けてリラックス出来るわけ無いじゃない。ご近所さんにどう思われるか」 「君は真面目すぎるんだ。頼ってくれよ、この子は二人の子だろ?これでも俺だって立派な父親なんだぜ」  食べさせるご飯も分かってるし、おむつも替えられるしお風呂も入れられる、と言って男は胸を張った。 「テッドはちょっとゆっくりなだけだよ。な」 「……っ」  そう言って朗らかに笑う男に女は苛立ちを抑えきれない様子で机をバンと叩いてヒステリックに声を張り上げた。 「あんたは外で呑気に過ごしてるからいいわよね!私はこの何の反応もしないクソガキと毎日24時間ずっと一緒なのよ!」  突然の爆発にさすがに男も驚いたようで、小さなテッドが怖がって泣き出さないよう、抱いたままユラユラと揺らす。 「君の不安な気持ちはよく分かるよ」 「施設の人から愛情不足だとも言われた!虐待を疑われてるのよ!なんなの!?これ以上どうしたらいいの!!」  ちゃんと話しかけてあげてるの?抱っこしてあげてるの?……何も知らない周囲の人間は悪気なく、無責任に軽い気持ちでそんな言葉を投げかけてくるのであった。 「月齢が一緒のママ仲間たちにも憐れむような目で見られてる……!!」  女の精神は不安や焦りで限界だった。  テッドは3歳になってもやはり何も話さなかった。女はどんどん薬を服用する量が増え、毎日男に怒鳴り声を上げた。 「大きい声を出さないで落ち着いて話そう。ほら、テッドが怖がってる」  家中に女の金切り声が響くたび、テッドは両手で耳を塞ぐようになった。 「怖がってないわよ、こんな無表情で……うるさい、くらいにしか思ってるわけない」 「そんな事ない、君をちゃんと母親だと思って、不安そうにしてるよ」 「あんたに何が分かるのよ!!」  やがて二人は共に暮らす方が負担になると判断し、別れを選んだ。男は親権を取りたがったが、厳粛な親に反対されてしまった。 「新しい人と結婚して"まとも"な子供を授かりなさい」 「テッドをそんな風に言わないでくれ!!抱き上げれば首に腕を回してくれるし、話しかけたらちゃんとこっちを見てくれる!」 「当たり前よ、3歳なんだから」 「成長してるんだよ、ゆっくりかもしれないけど」 「新しい相手は私が見つけるから、言う通りにしなさい。やっぱり、恋愛結婚なんかさせるんじゃなかった……」  子供は母親と一緒にいるべきだし、言う通りにすれば十分な養育費を用意してやると説得され、男は納得した。  本当はどんなに拒絶されたとしてもそばに居て二人を支えたい気持ちは変わっていなかったが、自分の存在こそがネガティブな要因になってしまうのなら……と泣く泣く諦めたのだ。 「テッド、ごめん、ごめんな……」  男が去った後、女の元には約束通り毎月しっかりと養育費が振り込まれていた。生活には困らなかったが、女はみるみる荒んでいった。 「男って本当に勝手な生き物」  頻繁に来ていた連絡も、無視し続けているうちに少しずつ間隔が広がっていき、やがて途絶えた。 「金なんか……!」 「う」  泣いている女にテッドが手を伸ばすがはたき落とされる。それはまるで母を心配するような仕草だったが、女の心はすでに壊れてしまっていた。 「触らないで……あっちへ行って、その目で見ないで!!」  精神安定剤をどんなに飲んでも効かない。テッドの綺麗な青緑色の瞳を見るたびに女の憎悪の念はいっそう激しくなった。  ***  男は住む場所を変え、両親の用意した相手と心の通わない結婚をし、両親の望むような子供を授かった。そしてその子供が1歳になる頃、テレビの速報で見覚えのある地域と名前が流れたのを目にした時はまさかと思った。  両親は全て忘れるよう男に言った。もう無関係の他人なのだと。警察から電話が一度だけ来たが「離婚したきり一度も会っていない、何も分からない」と答えると、二度と連絡が来ることは無かった。

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