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第67話 誰か助けて

【誰か助けて】  "脱獄事件"から2週間が経ち……シュートは|首領《ドン》の家の客室で保護されていた。首領は栄養が足りてない様子で不健康な線の細さをしているシュートに毎日色々なモノを食べさせたり、ちゃんと外へ連れ出して太陽に当たらせたり、マウロアが監獄から送った手紙に書かれていた"シュートにしてやりたい事"をなるべく叶えてやっていた。 「ほら、取り急ぎだが……これが新しいお前の左眼だ」 「ロアは?」 「おいじっとしてろ、少し待て」  首領はシュートをマウロアの葬儀にも参加させてやったのだが、どうもその死をまだ理解できていないらしく、毎日「ロアと話したい」と言われて、死という"概念"をこいつにどう説明すべきか……と悩んでいた。 「ついてこい」  首領は庭にあるマウロアの墓へシュートを連れて来た。 「ロアは?」 「ここだ」 「?」 「これがマウロア」  そして墓を指さしてそう説明してみる。 「ちがう」 「これは"墓"だ。マウロアはこの下に眠ってんだ」 「……?」  眠ってる……その言葉にシュートはしゃがんで地面に向かい「ロア?」と呟いた。 「ロアとはなす」 「話せない。わかるか?死んだ人間はもう話さないんだ」  ここにマウロアがいる事は分かったのだろうか、首領が話しかけてもじっと下を向いたまま動かない。 「わかるか?」 「死んだ」 「そうだ。生きてるモノはいつか死ぬんだ」 「……」 「死んだら、もう動かない。喋らない」 「ロアは?」 「だから死んだんだ。腹を撃たれて」  シュートには難しかった。いろんな知らない言葉を一気にたくさん聞いたせいで頭の中がキンキンと騒がしかった。ただ、今日はロアに会えないみたいだ……という事だけはなんとなく分かったので与えられた自分の部屋に帰ることにした。  翌日、またシュートは起きるなり首領に「ロアどこ」と聞きに行った。この2週間、毎日この調子だ。首領の部屋の見張りをしている部下がさすがに苛立った様子で立ち塞がる。 「テメーこら……」 「やめろ、いいんだ。何回でも説明してやる」  首領はシュートを部屋に招き入れてソファに座らせるとまた説明を始めた。 「シュート、死ぬって事は分かったか?」 「なに」 「死ぬと、ずっと起きないんだ。絶対に起きない」 「……」 「分かるか?」  首領が何を言っているのか、シュートはなんとなく理解できてきた。スラムで薬の売人をさせられていた頃、道端にはよく人間が転がっていた。  人間は"そう"なるとそのうち虫が|集《たか》って、酷い匂いがして、どんどん腐っていく。あれが"死ぬ"なのではないかと思った。 「死ぬ、こと……しってる」 「そうだ。生き物はいつか死んじまうんだ」 「……うん」  "死ぬ"という事が分かった時、シュートはそれ以上もう聞きたくないと思った。何か、とても恐ろしい点と点が繋がってしまう気がしてその場から逃げたかった。 「マウロアは死んだ」  その瞬間、シュートは自分の体から何かとても大きなモノが抜け落ちていったような不思議な感覚がした。もしくは体の外側だけをそこに残して、意識だけがずっと地面の底に落下していくような気もした。  ――終わった。  シュートはそう思った。もう、何もかもが"おしまい"だと。マウロア以外の何も知らない。"世界"を失って、自分というモノがガラガラと崩れていく。 「……あ」  体験した事のない激しい感情が嵐のように体の中で暴れ回って、恐怖を覚えた。それは初めての"悲しみ"だった。 「……っ……」 「おい」  ヒュ、とシュートの喉が一度だけ鳴って息が止まった。吸うことも吐くことも出来ず、座ったまま胸元を両手で掴む。 「シュート、おい」  顔色がみるみる蒼白になって、首領は慌てた。もっとゆっくり説明すべきだった。息子がこの場にいたら「こいつのこと、頼むって言っただろ!」と胸ぐらを掴まれていたに違いない。 「落ち着いてちゃんと息をしろ」  今にも気を失いそうなシュートの背に手を当てて呼吸を促すように何度か叩く。 「……っは、ぁ……」  すると突然力が抜けたようにシュートの首がガクッと落ちて体が前のめりに傾き、ソファから転がり落ちかけたが首領が間一髪で抱き止めた。 「いや、いや、いやだ、いやだ、いやだ」 「おい……」  首領に支えられたままの状態で壊れたようにひたすら「いやだ」と繰り返す。泣き方さえ知らないシュートは腹の底から突き上げてくるような"悲しみ"の波に溺れて息が吸えなかった。 「落ち着け、喋るな。息を吸うんだ」 「ロア、ロアッ、どこ、ロ、ぁ……っ」  そのうち気を失って自発呼吸が戻ったようだが、まだヒクヒクと苦しそうに痙攣するシュートの体をソファに寝かせて首領はため息を|吐《つ》くと部下を呼びに出た。 「はぁ……参った。誰か部屋に寝かせて、見ててやれ」  そう言われても落ち着くまで待つしかない。呼ばれた部下は念の為にシュートの様子がそれ以上に悪化しないか見守りつつ、その寝息が静かになるまで|傍《かたわ》らに立ち、とにかく待った。  それから3日、シュートは客室に籠ったまま出てこなかった。このまま現実逃避し続けるつもりなのではと思った首領は手荒いかも知れないが……と悩みつつ、半ば無理やりシュートを連れ出した。 「いいか。マウロアの体がこの下にある。でも二度と動かない。それはもう十分に|理解し《わかっ》ただろ」  辛いかもしれねえが、分かったら挨拶してやってくれ。あいつもきっとお前と話したがってるはずだ……首領はそう言い残すとマウロアの墓の前にシュートを残して立ち去った。 「……」  そして残されたシュートはしばらく一生懸命に頭を回転させて考えた。本当は怖くて、何もかも忘れて逃げ出したい。でも今は絶対に向き合わなくてはいけないのだという事をなんとなく感じていた。 「ろ、あ」  ロアはここにいる。この下にいる。でも……"死ぬ"の状態で。  ――もう、動かない。  改めてそう理解した時、また感情の渦が巻き起こって立っていられなくなって、口から勝手に変な声が漏れた。それは人間の言葉ではなかった。  「う」とも「あ」とも取れるような、もっと動物的な声が腹の中から感情に押し出されてきた。それは聞いた者が思わず耳を塞ぎたくなるような、あまりにも痛々しい|慟哭《どうこく》……絶叫だった。  喉から血が出て声が完全に枯れてしまうまで、地面に這いつくばってシュートは叫び続けた。喉の痛みよりも体の奥がズキズキと痛くてたまらなかった。生まれて初めて「誰か助けて」と叫びたくなるくらいの痛みだった。  誰かに抱きしめて欲しい。そうしないと体がバラバラに砕け散りそうだった。だがシュートは独りだった。  いったい何時間そうしていたのか、日が落ちてやがて雨が降り出してもまだシュートはマウロアの墓石に縋り付いたまま掠れた声で泣き続けていた。 「……おい、もう十分だろう。また倒れるぞ」  その様子をずっと部屋の窓から見守っていた首領はさすがに見ていられなくなり、傘を差してフラフラしているシュートを抱き起こしてくれた。 「息子の為に泣いてくれて、ありがとうな」 「……」  首領に支えられて朦朧としながらシュートはまだ何か口を動かしているが、その声は雨の音に負けるほど弱々しく、ザラザラと掠れた息の音しか聞こえない。 「もう心配すんなバカ息子。こいつの面倒は俺が見てやる。約束だ」  首領はマウロアがどうして命を懸けてまでシュートを守ろうとしたのか、少し分かったような気がした。  それから精神的ショックのせいか雨に打たれたせいか、シュートは何日間も酷い高熱で寝込み、首領を始めファミリーの面々たちにそれはそれは心配をかけた。 「ようやく熱が下がってきましたよ」 「そうか。まったく……面倒を見てやると決めた矢先にこのまま死んじまうのかと」  しかし熱が下がり動けるようになると今度は首領の家から勝手に出て行ってしまい、路上生活をし始めた。  とはいえ別に面倒を見るからと飼い殺しにするつもりでもなかった首領は「好きにさせてやれ」「困ってたら助けてやれ」とそれを黙認した。  シュートはマウロアがいない世界でどうやって生きればいいのか分からなかった。ただ壁と屋根のある部屋の柔らかいベッドで眠るより、かつて"カディレ"と呼ばれていた、あの苦しくなかった頃を思い出すかのように、外で座って眠る方がまだ心が穏やかでいられるのだった。  ただそれほど辛かったにも関わらず精神は手放さなかった。マウロアがそれを望んでいないような気がして、悲しみに溺れて苦しくても毎日をなんとか自力で生きた。  とはいえ気が付けばずっとマウロアの墓の前に座ってついぼんやりと放心状態になってしまう事については、首領の方が黙っていられなかった。このままにさせる事をマウロアが望んでいるわけがない。 「いいかシュート。ここには毎月、28日にだけ入って来ていい」 「……」 「それがあいつの"月命日"だ。わかるか?28日にだけ来い。あとは自分の人生を生きるんだ」  自分で自分の人生を生きること……シュートにはまだよく分からなかった。今までずっと濁流の中にいて、溺れているまま流されて生きてきた。 「その為の手助けはする。自分で生きたいように生きてみろ」  首領も、シュートに何をしてやればいいのか分からなかった。閉じ込めて庇護するのもきっと違う。  そうしてマウロアの近くにもいられなくなって、いよいよ本当の孤独になったシュートはこの時から茶太郎に出会うその日まで、生きた屍のような状態で暮らす事になったのだった。

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