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第83話 その笑顔に弱いみたいだ

【その笑顔に弱いみたいだ】 「ぴかぶー」  そんな声が聞こえたかと思うと後ろから抱きつかれた。 「こら、なんだよ?」  キッチンにこそこそ入って来たなと思ってたら……。 「だから料理中は危ないから近寄るなっていつも言ってんだろ」  何年経ってもこういう所は変わらない。 「……ん?さっき、お前なんつった?」 「ぴかぶ」 「|Peek-A-Boo《いないいないばあ》?」  なんでそんな言葉を知ってんだ?オーサーがふざけて言ったりしたのか?シドも冗談でコイツを子供扱いするような発言はするが、まじで|揶揄《からか》ったりバカにしたりするのは大抵オーサーだ。とはいえ変だな。 「オーサーが教えたのか?」 「なに」 「なんで知ってんだ?そんな言葉」 「……わかんない。オーサーちがう」  もっと前にどこかで言われたんだろうか。もしかして、赤ん坊の頃に……なんて思ったけど、すぐ頭から消した。"あの男"はもうコイツの人生には関わらせない。俺の記憶からも消したんだ。  ――それに私の名前、|ダーラ《二番目》っていうのよ。長女で、ひとりっ子なのに。ねえ?絶対におかしいでしょ。  ふとその言葉を思い出す。本当に違うのか?ショットの事が忘れられなくて、大企業の御曹司として無理やり作らされた愛せない娘にせめて些細な抵抗として"二番目"という名前を付けた……だなんて、ファンタジーだろうか。  いや、だったら何だって言うんだ。もしそうだったとして、幼いコイツを唯一愛してくれた人間が、人生の経歴からその事を消し去っただなんて、むしろこれ以上無いグロテスクな話じゃねえか。 「腹減ったのか?もう出来るからあと少し待ってろな」 「てつだう」  高校からシドニーが寮に入ってウチにいないってのに、つい作りすぎちまったスープの鍋が重かったから助かった。 「ありがとな」  頬にキスするとチラリと見られたから、食後にはドーナツもあるぞと教えてやると嬉しそうに目が少しだけ大きく開いた。 「それにしても、シドニーが出てっちまったから退屈なんだよな……またアルバイトでも探すか」 「だめ」 「んだよ、お前にダメとか言われる筋合いねえんだけど」 「心配だから」  そう言われると弱っちまう。心配してくれること自体が嬉しくないわけではないから。 「ゲートの内側ならそんな危険に巻き込まれる事も少ねえし」 「……」 「そんな目で見んなよ……」  歓楽街のコンビニで働いた時は初日に死体がバックヤードに転がってたし、酔って暴れる客がいたから殴られて口の中が切れたりもしたけど。あんなのはたまたま厄日だっただけだ。 「ちゃたいそがし、おれのせわするから」 「自分で言うな」  まあいいか。家でまたガラクタでも捏ね回してりゃ。 「分かったよ……いつでも家にいるよ。寂しがりやさんの為にな」 「ん」  嫌味のつもりで言ったんだが、心底嬉しそうに目を細めてニッコリ微笑むから、珍しい笑顔に思わず見惚れちまった。普段でも目だけ細めたり口角だけを上げて笑うことはそう珍しくないが、こんな表情はまじで今までに一度しか見たことがない。 「……」 「ちゃた?」 「あ、いや、なんでもない、早く運べ」  ついパッと目を逸らしたが、勿体無い事をしたなと思った。今の景色を何度も脳内で反芻する。鍋を持ってキッチンを出て行った背中を見送って流し台に右手をついた。 「はぁ……」  ああ、参った。たった笑顔ひとつで堪らなくなる自分に笑っちまう。 「いや……悪い、シュート」  呼ぶと机に鍋を置いたショットがすぐ戻ってきた。少し心配そうに見えて、ため息なんか|吐《つ》いて急に呼んだから、俺が気分でも悪くなったのかと思ったんだろう。 「ちゃたっ?」  俺だってなかなかの心配性だが、コイツだってそれなりだ。だが、そうだな……実際、気分が悪くなったと言えば悪くなったのかもしれねえ。 「メシ、後でもいいか?」 「なに……」  俺の様子を伺おうとして伸ばされた手に頬を擦り寄せる。 「今すぐお前に触れたくて堪んなくなった」  *** 「んー、これいやだ」 「あ?」  くっつきながら急に「いや」と言われてガラの悪い返事が出ちまった。 「何がだよ、何がいやなんだこら」 「いやだー」  裸のままの胸元に吸い付いてやるとグイッと押し退けられて顎の下にまばらに伸びてきたヒゲを指先で引っ張られた。「痛いからやめろ」と身を離す。 「そういえば最近剃るの忘れてたな」 「いや」 「分かったよ剃るよ。ちょっとだけだろ。そんなにイヤって言うなよ」  傷つくだろ……。俺はそんなに伸びないから週イチくらいで一応剃ってる。昔はホントにもっと生えないタイプだったんだけど、28くらいからちょこちょこ生え出した。 「お前も今年で28だろ、体毛薄いけど、そろそろ生えてくるかもな」 「なに」 「ヒゲ。絶対似合わないから生えたら剃れよ」  生えてるか見てやろうと思って近付いたら抱きつかれた。 「シャワー浴びてメシ食うか」 「ん」  ついでにヒゲも剃るか。イヤって言われるし。 「……なあ、俺これからもっとオジサンになってくよ」  体を起こしながらそんな事を口にして急に不安になってきた。俺は今年で33になる。いつかクレイグには偉そうに言ったりしたけど、本当は20代の頃とそんなに変わった自覚はまだ持ててない。  とはいえ少なくとも、ガキの頃みたいに肉ばっか食うとキツいくらいには胃が弱くなったなとは思う。 「おじさん?」  ヒゲも濃くなったし、そのうちハゲるかもしんねーし、シワも増えるだろうし。 「中年になって、下っ腹が出て、加齢臭だってするようになるかも」 「?」  一緒に歳を取るって、綺麗事だけじゃねえよな。 「なあお前、俺がジジイになっても好きか?」 「うん」  意味わかってんのかなあ。 「じゃあ……ぶくぶく太っても?」 「うん」 「足を悪くして歩けなくなっても?」 「ん」  左腕を掴んで、そこにある古傷に口付けられた。 「ちゃた、何もかわらない……ずっといっしょにいる」 「……参ったよ」 「へへ」  たかがこんな口約束で不安な気持ちが霧散していく。やっぱり俺はその笑顔に弱いみたいだ。だったらジジイになるまで生きて、その約束が本当かどうか確かめてやらねえとな、と思った。

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