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第87話 何があっても離さない 3
【何があっても離さない 3】
ビチャ、と水溜りに何か重いものが落ちるような音がしてシュートはふと目を覚ました。
「ん……」
手に違和感があり、視線を落とすと手の甲が血だらけになっているが、何かを殴った後のようなジンジンとした感覚がするだけで大した怪我はしていない。
「……ちゃた?」
何も覚えていないがとても嫌な気持ちがして、慌てて茶太郎を探した。
「ちゃた……はぁ、ちゃたっ?」
ベッドにはいない。飛び起きて部屋を出ようと立ち上がると床に茶太郎が倒れていた。血溜まりにうつ伏せで突っ伏している。それを見た瞬間、ドクッと心臓が飛び跳ねた。
まさか"また"自分がやったのかと。
「ちゃ、ちゃた……っいやだ」
震えながら力の入っていない体を抱き起こすと、その口から更に血が流れ出てきた。
「ちゃた……っ!う……ぅ……いやだ、ちゃた、ちゃたぁっ!!」
わあわあと近隣に響き渡るほどの|狼狽《ろうばい》した絶叫が響いて、シュートが正気を取り戻した事を察したシドニーが部屋へ駆け戻って来た。
「とと、落ち着いて!助けなきゃ!」
「はっ……はぁっ、はぁっ、ちゃた、いや、いや、いやだ、おれっ」
シドニーは部屋の酷い状況に一瞬怯んだが、すぐ茶太郎の口元に耳を近付けて呼吸があることを確認する。
「助けを呼んでるから連れてくる!楽な体勢にしてあげて!」
錯乱状態のままシュートはとにかく意識のない茶太郎の首がズリ落ちてしまわないよう自分の肩に凭れさせて抱き上げた。
こんな風に茶太郎が怪我をしたり、苦しんだりしている時は病院へ連れて行くのだと知っている。シドニーの言った「助けを呼んでる」はよく分からなかったが、とにかく一刻も早く病院へ運ぼうと思って部屋を出た。
その時、ちょうどアパートの前に黒塗りの車が停まったのでシドニーはそれに駆け寄った。
「悪い、緊急信号だってのに気付くのが遅れた」
降りて来たのは|首領《ドン》の部下だった。
「ねぇっ!助けに来てくれたんだよね!?」
「お前が"あのボタン"押したんじゃねえのか?」
「そう!SOSって書いてあったから」
「利口なガキだ」
そこへ茶太郎を抱いたシュートが飛び出して来て、首領の部下はすぐ車へ乗せろと指示をした。
「俺を知ってるだろ、シュート。安心しろ、悪いようにはしない」
「……っ……」
息の浅いシュートの様子を見てその背中をポンと叩く。
「大丈夫だから落ち着け。お前まで倒れたらどうすんだ」
「どうしよう、血を吐いてる」
「喉に詰まらねえようにしてやれ、車は汚してもいいから」
後部座席でシュートの膝の上に茶太郎の頭を乗せて、シドニーはその足元にしゃがみ込むようにして一緒に乗り込んだ。
「とーちゃん……唇と指の先が真っ青だ……」
「チアノーゼってやつだな。そういう症状は今までにも何度も見たから知ってるぜ。どっか内臓が破裂したんじゃねえのか」
「な、内臓が……破裂……?」
その言葉にシドニーは血の気が引く。シュートは酷く|狼狽《うろた》えて、茶太郎の手を握りながらガタガタ震えていた。
「いや……いやだ……ちゃた……っ」
茶太郎は力の入らない様子でヒュウヒュウとか細い呼吸を繰り返しつつも「ショット……ショット」と|譫言《うわごと》を繰り返している。こんな状況で意識を失っていても、相変わらずシュートの心配ばかりしていた。
「回復するまでシュートとお前の息子は|ウチ《ファミリー》で預かっておくから安心しろ」
聞こえているとは思えないが、首領の部下はそう声をかけて茶太郎を励ました。
***
目を覚ますと見慣れた病院の見慣れた天井だった。
「昨日はクマにでも襲われた?」
「う……もう、そんな、ような……モンです……」
寝転がったまま掠れた声を絞り出すともうすっかりお馴染みになった医者が視界に現れて、淡々と俺の状態を説明してくれる。
「えー、|脾臓《ひぞう》破裂による出血性ショックと、吐血したのは食道が裂けた血が胃に溜まって、それを吐き出しただけ。あとはあちこち折れてるのと、左肩の脱臼による靭帯損傷……腹部の外傷が特に酷いから、しばらく血尿と血便が出るかもね」
「……」
「あなたの家族、騒がしいから面会禁止にしてあるよ。会いたかったらさっさと退院してね」
「…………」
もう詳しくは自分で確認して、と面倒そうにカルテを腹の上に置かれた。おい、いいのかそれで。右手の親指はギプスで固定されてるし、包帯が巻かれた左腕には少し違和感がある。筋をゴリゴリ押し潰しながら肉を食いちぎられた事は覚えてるけど、流石に神経までは到達しなかったんだろう。指はちゃんと動いた。
「もう必要な治療はしておいたから、最低5日くらいは入院して様子見で。一時は内臓からの大量出血で虚脱状態になってたけど……相変わらず丈夫だねあなた。出て行きたくなったら出て行っていいよ」
「……ぅす」
話すのも面倒で小さく返事を返すと痛み止めを追加で飲んでおくか聞かれたので、素直に飲ませてもらっておいた。食道の傷から出血してんのか、口の中が生臭くて薬を飲むのも一苦労だ。
その後も脾臓を摘出せずに済ませてやったんだとかもう左腕は元のように動かないけど文句は言うなだとか欠けた歯の事は知らんだとか、散々小言を聞かされてうんざりした。
翌朝には首領の部下が様子を見に来てくれて、俺がなるべく早く退院して二人を迎えに行くから、と言うと「身体も中身もゾンビみてーにタフなやつだな。ちなみに見た目も」と笑われた。好きに笑え。
***
それから俺は本当に5日後に退院してやった。もちろんまだ全く万全じゃないけど、ショットが心配だからというと「まあ、くれぐれも殺されないようにね」とだけ言われて、一切引き止められもせず。相変わらずだな、あのセンセも……。
左腕は首から吊られて動かせないけど、幸いにも足が折れてなかったから問題なく歩ける。俺は病院から首領宅まで、普段なら45分くらいの道のりを2時間近くかけてのろのろと歩いて行った。
まだ夏前なのに到着する頃には酷い汗をかいてて、シャワーを浴びるのも一苦労なんだよな……とゲンナリしつつ扉を開いた。
「おいなんだよ、連絡を寄越せば迎えに行くって伝えてあったろ?」
「じっとしてられなくてさ……」
「待ってろ」
見知った構成員たちが俺の顔を見てすぐ首領やその部下、シドニーを呼びに走ってくれた。
「とーちゃん!!」
「シド……心配かけた。緊急ボタンを押してくれたのお前なんだろ、本当に助かったよ」
説明してなかったのに理解して押してくれるなんて、どれだけ優秀なんだ、俺の自慢の息子は……。
「俺が家を出るまでに、とーちゃんだけでととの暴走を乗り切れる手段を考えておいてね」
「ああ、そうするよ」
今回シドニーがいなかったら死んでたかもなと思うとマジで冗談じゃ済まない。
「おう茶太郎、思ったより早かったな」
「まだボロボロだけど……丈夫さだけが自慢なんで」
箔が付いたな、2回くらい死にかけてからが人生だ、とマフィアらしい無茶苦茶な格言を聞かされて、じゃあ俺の人生はようやく始まったんだな、とつい笑えば腹が痛んだ。
「ショットは?」
「こっちなんだが……ずっと出てこなくて参ってる」
案内されたのはゲストルームだった。
「もうすぐ9年になるか。ロアが死んだ後も、しばらくこの部屋で暮らさせてたんだ」
中にはゲスト用の水道とシャワートイレもあって、最低限生きれてしまうからアイツ閉じこもっちまうんだよな……と、過去にもそんな事があったような口ぶりで頭を掻いている。
「一応スペアキーはこれだ」
開ける方法があるのに無理やり引っ張り出さずにいてくれた事に感謝した。
「なるべく自分から開けてくれるよう話してみるよ」
「ああ任せた。じゃあな」
立ち去る背中を見送ってから扉に耳を当ててみる。物音ひとつしない。ドアノブを回してみたけど、やっぱり鍵が掛かってる。
「……ショット」
俺には動物的な超感覚なんかねーから、これは本当にただ「そんな気がするだけ」なんだが……扉のすぐ向こうにショットがいるような気がした。
「ただいま。なあ、心配かけたな……一緒に帰ろう」
返事はないけど話しかけ続ける。
「俺やっぱ丈夫だからさ、医者の先生にも大した回復力だって……はは、お墨付きもらっちまったよ」
その時、向こう側でカタッと小さく何かが当たるような音がした。
「ショット」
泣いてんじゃねーのか、一人で。そう思うと胸が苦しかった。
「頼むよ、開けてくれ。お前を抱きしめたいんだ」
「かえって」
すぐ近くで声がした。やっぱり扉の向こうにいたらしい。俺の目線より少し高い位置で、いつも抱きしめられた時に声が聞こえてくる場所だ。
「一緒に帰ろう」
「おれもうかえらない」
「なんで……そんなこと言うんだ」
ショットが俺を傷つける事を怖がってるのは分かってる。それでも拒絶されるのは辛い。
「もう、あわない」
学生時代、交際関係にあったガールフレンドにこっぴどくフラれて「もう会わないから」って言われた時はどんな気分がしたんだっけな。少なくとも、こんなに胸が張り裂けそうな思いはしなかったはずだ。
「なあ、そんなこと、言わねぇでさ……」
「……」
アイツから離れろ、一緒にいるべきじゃないなんて、周りから何を言われたって全く平気だ。けど、それをお前に言われるのは、たとえ嘘でも辛いよ……。
「もういやだ」
情けないけど目に涙が浮かんできた。
「俺のこと……嫌いになったのか?」
「……」
違うだろ?そうじゃないって言えよ。そんで今すぐこの扉を開けてほしい。でも扉は閉ざされたままで。
「ちゃたケガさせるの、もういやだ」
ショットは乏しい語彙力を駆使してなんとか扉越しに俺を納得させようとしてる。お前に怪我させられる事なんか、こっちはもう何年も前から受け入れてるってのによ。
「こんな怪我なんか本当にどうでもいいんだ……それよりお前を一人で泣かせたくないよ」
「……」
しばらく沈黙が続いて、やがて向こう側からズ、ズッと鼻をすする音が聞こえてきた。
「なあ、頼む。一人で泣かないでくれ」
「おれ……おれ、いつか」
「……」
「ちゃたの、こと……こ……ころし、ちゃう」
それを口にする事さえ怖いのか、その声は消えそうに掠れて、頼りなく震えてた。頬にこぼれちまった涙を雑に拭う。
「もう諦めろ。俺は何があってもお前を離さねぇって決めてんだよ」
それとも本当にもう、これが永遠のお別れになってもお前は構わないのか?俺と二度と会えなくても、平気なのか?と扉に額を当てて尋ねた。祈るような気持ちで「シュート」と呟く。
――頼むよ。俺を拒絶しないでくれ。
沈黙と硬直状態が2分くらいは続いたのか、貧血で意識がグラッとした瞬間、不意にカチ、と鍵の回される音がして俺はドアノブに飛びついた。
「ショット!」
扉を引くと勢いよく抱きつかれて受け止める。左腕が押し潰されて、踏ん張ると腹が痛くて、折れてる肋骨も軋んで痛かったけど、どれも気にせず抱きしめた。
「はぁ、ショット……」
ようやく顔が見れた。安堵で気が抜ける。
「ふ……っ、く……っひ、ぅ」
何か話そうとしてるがガキみたいに泣いちまって言葉にならないみたいだ。
「ほら落ち着け」
強く抱きしめたままなんとか部屋に押し入ってベッドに腰掛ける。俺にしがみついてまだ話せそうにないショットの頭をそっと撫でた。
「一人で泣かないでくれ……俺はそれが一番辛いんだ」
頭が痛くなるぞ、と力が入ったままの肩や背中もさすってやると更に体重をかけられて倒れ込んだ。
「ちゃたに……ずっとあえないの、いやだ……」
「俺もだよ。そんなの絶対に嫌だからな」
「でも、こわい」
少し力が緩んだのを感じて、首を捻ってその頬に口付ける。
「ショット、酷い顔じゃねえか……眠れてないのか?」
その顔は明らかに寝不足で目には濃いクマができてて、眠れなかったというよりは眠らないようにしていたのか、腕には爪を立てたような自傷の傷跡がいくつもあった。
「……このバカ……」
それを見て思わずまた涙がこぼれそうになったけど、今は俺が悲しんだり不安に感じてる様子を見せるのはきっと良くない。
「ねるの……こわい」
「……」
「もう、しらない時にうごくのいやだ」
「そうだよな、そんなの怖いよな」
それからショットは泣きながら「寝る前に体を縛ってほしい」と頼んできたが、そんなコト俺がコイツに出来るわけがねえ。
拘束される事にも酷いトラウマを持ってるハズなのに、自らそんな事を口にするぐらい思い詰めて……。
「一緒にちょっとずつ治そう。お前は夢遊病っていう……病気なんだ」
「びょうき……」
「だから前にも言ったろ?俺に怪我させちまうのはお前のせいじゃないんだよ」
「……」
「安心できる環境で暮らせば、少しずつ良くなるから」
様子がおかしくて夢遊病の発作が出そうだなって時は、いくら心配でも絶対に離れて、自分で自分の身を守るからって約束することでショットはようやく納得してくれた。
それから首領の部下が車で送ってくれて、なんとか俺たちは家族三人揃って家に帰ってくることができた。無茶苦茶になってたはずの部屋も綺麗になってて、感謝してもしきれない。
「とりあえず退院してきたけど、まだ安静にしてなきゃならねぇんだ……悪いけど、家のこと手伝ってくれるか」
家に帰ると一気に力が抜けて、グラグラと酷い目眩に襲われる。
「もちろん!ご飯は心配しなくていいからね」
「学校の送り迎えは、またリディアに頼むから……」
「いいから、とにかく早く横になって」
フラフラしてるとシドニーに背中を押されて、ショットにも支えられながら有無を言わさずベッドに寝かされた。
「洗濯物は、3日くらいは溜めてもいいから……ちゃんと毎日シャワーして、歯磨いて……」
「ちゃたねて」
「うう」
ショットも寝不足のはずだから、お前も寝ろよと声をかけたけどやっぱり不安そうで近寄ってこない。
「おれあっちでねる」
そう言って部屋を出て行こうとする背中に声をかけた。
「寂しいんだ。一緒に寝てくれ」
「……」
「なあ、ショット……5日も離れてたんだ」
「でも……」
するとシドニーがニコニコと両手に見覚えのある発信機をいくつも抱えてきた。
「SOSボタン、たくさんもらってきたから全部の部屋につけとくね!だからとと、安心していいよ!」
「シド、やっぱりお前って最高すぎ」
「任せといて!押したらすぐ気付いてもらうために、もっと派手な通知音が鳴るよう変更しておいてもらったし!」
俺は俺で「コイツがそれで安眠できるなら、麻酔銃かスタンガンでも常に携帯しておこうか……」なんて半分本気で考えながら、ようやく隣に来てくれたショットの頭を抱きしめて眠った。
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