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第89話 もっとちかづきたい
【もっとちかづきたい】
これは二人が今のアパートに引っ越してきて初めての秋が訪れた時のこと。
路上生活をしていた去年の寒い時期は茶太郎がシュートの体温で暖をとるためにくっついて寝ていたのに、春が来るとそれがなくなって寂しかった。寂しいという感情もまだシュートにはよく分からず、とにかく胸の辺りがモヤモヤと不快だった。
それどころか一緒に暮らし始めてからはそれぞれの個室にそれぞれのベッドまで用意されてしまった。
一緒に眠りたい、ひとりだと眠れない。それが上手く言えなくて、シュートはここに来てからもベッドを使うことはなく、いつも部屋の隅で|蹲《うずくま》って寝ていた。
茶太郎と出会ってから初めてのマウロアの命日、その夜はどうしても辛かったシュートは我慢できず茶太郎の部屋に行って眠る事にした。拒絶される事が怖くてベッドには上がらなかった。
「……ん?」
気配にふと目が覚めて床で座って寝るシュートを見た茶太郎はもしかしてベッドの使い方が分からないのかと勘違いした。
「なんだよ、お前ずっとそうやって寝てたのか?」
そう言いながら起き上がり、シュートに「こっち来い」と言うと部屋へ連れて行く。
「分かるか?お前はここで寝ていいんだよ」
「……」
ずっと前にもこんな事を言われたことがある気がした。そうだ、ロアが最初に教えてくれた事……そう思った。
「これはお前のベッド。この上にこうやって寝転がって寝ていいんだ」
「……いやだ」
「いや?」
予想外の返事にパッと横を見た茶太郎はその顔がかつてなく浮かないのを見て、珍しいシュートの感情の表出に驚くと共に心配になった。
「おい、どうした……何かあったか」
「……」
「寝苦しかったのか?俺んトコで一緒に寝るか?」
よく分からないまま茶太郎がそう提案してみると小さく頷いたのが分かって「なんだそのくらい」と思った。しかしシュートにとっては"そのくらい"なんかではない。とてつもなく衝撃的な事だった。本当にいいの?と聞きたかった。
マウロアとだって同じベッドで寝たことはない。いつも寝かしつけられて、ウトウトしてくるとマウロアは自分のベッドへ上がってしまった。それが当たり前だった。
ただ、茶太郎と生活をし始めてから"誰かとくっついて寝る"事の安心感を一度覚えてしまうと、もうそれを手放せなくなった。
「……ちゃた」
「ん?」
好きな気持ちが溢れそうだったが、その気持ちを表す言葉を知らなかった。
「ほら早く寝ようぜ、もう遅いんだからさ」
なんでもない事のようにそう言って茶太郎は自分のベッドへ帰って行く。実際、茶太郎にとってはなんでもない事だった。友人たちとホームパーティをしてソファや床でぐちゃぐちゃに雑魚寝をした夜だって何度もある。
なかなかベッドに上がってこないシュートに茶太郎は遠慮すんなよと声をかけたが、遠慮しているというより緊張しているのだった。
生まれて初めて好きになった人と久しぶりにくっついて眠れる事に酷く動揺して動けなかった。
「……ま、お前のタイミングでいいよ。俺は別に構わねぇから、これからも寝苦しい時は好きにここで寝ていい」
こういう時に茶太郎は決して「早くしろ」や「もういい」と言わない。大らかと言えば聞こえはいいが、どちらかというと母親譲りの大雑把な性格なので、他人と自分の感じる時間感覚には差があるんだろうなくらいにしか思っていない。
なのでシュートに対しても、こいつは色々ゆっくりなんだな、くらいの認識だった。まさか恋慕されているとは思いもせず。
***
それからシュートはよく茶太郎の布団に潜り込むようになった。最初はドキドキして落ち着かない気がしたが、何度か一緒に寝るとすっかり慣れた。
特に冬場は茶太郎が喜んでくっついてくれるのが嬉しかった。反対に夏は押し退けられるから嫌だった。
シュートは毎日のように街をウロついた。基本的には一人で気の向いたままに歩き回った。たまに話しかけられて食べ物を渡されるような事もあったし、よく分からない事を怒鳴られたり襲いかかられたりした時は本能のままに自衛したりする。その一連の全てが"日課"だった。楽しいかどうかもよく分からず、ただなんとなくそうしていた。
そんな二人が行動を共にし始めてから三度目の冬が来たある日、珍しく茶太郎がドーナツを買ってきた。
「俺あんま甘いモン食わねぇんだけど、妙に惹かれてさ」
「なに」
「ドーナツ、知ってるか?」
甘い香りがするそれを受け取ってバクリと一口で食べた。手のひらサイズのドーナツは想像より柔らかく、中にクリームが入っていて驚くくらい甘かった。
「……」
「なんだよ、一口で食っちまったのか?」
これは嗜好品だから、少しずつ食べて楽しむんだ。と教えながら茶太郎は新しいドーナツをもうひとつシュートの手に乗せてくれた。
「ほら少しずつ食え」
「……」
よく分からなかったが、茶太郎の真似をして一部を齧った。また口の中がフワッと甘くなる。こんなモノは食べた事が無かった。
「そうそう、ゆっくり食べるんだ」
「……」
少し食べては口に広がる甘みを味わう。それを何度か繰り返すとドーナツはすぐに無くなってしまった。
「まだあるぞ、好きか?コレ」
「なに」
「気に入ったか?もっと食べたい?」
そう聞きながら茶太郎は箱からまたドーナツを取り出す。シュートの目が少し嬉しそうに輝いて見えて「好きなんだな」と笑った。
「すき」
「そう、お前はドーナツが好きってことだ。分かるか?」
「……」
聞いているのかいないのか、真剣にドーナツを食べるシュートを見て茶太郎はたまに買って来てやろうと思った。
その頃にはシュートが茶太郎のベッドで寝る事もほとんど毎日になっていた。たまに汚れた格好で潜り込んでいるので叱りつけるのだが、どうも分かって無さそうで改善される気配はない。
「おい!だから汚れた格好で潜り込むなってば!」
「んん……」
最初は思春期の少年のように緊張していたはずが、すっかり茶太郎の隣で寝るとリラックスできるようになった。
どんなに口で叱られようとベッドから追い出されはしない事がとても嬉しくて、子供が親の愛情を確かめる為にイタズラをしてしまうように、シュートもどこか無意識ではあるが、茶太郎の気を引く為にわざと汚れた格好をそのままにくっついていたような所もあった。
***
そして次の春がやってきた頃、シュートは日課の散歩をしている途中に広範囲で崩れ落ちたバラックの下敷きになってしまった。
「う……」
「おい!誰かいるか!」
「うわっ、シュートじゃねえか!」
「怪我してる、暴れるかもしれねえから離れとけ!」
「あっちにも人が倒れてる!」
救助に集まってきた人々はシュートの姿を見ると助けもせず立ち去ってしまった。足が何かに挟まれているが、少し引けば抜けそうだ。
「……」
明らかに尖ったモノに引っかかっていたが、シュートは顔色ひとつ変えずにその足を無理やり引き抜いた。裂けた皮膚から血が流れ出す。切れ味の悪いモノで深く切られて激痛が走る。
しかし痛みに対して泣いたり喚いたりしても無駄な事をシュートはよく知っている。痛くても苦しくても、誰も助けてはくれない。
顎に血が流れてきて顔を触ると転んだ衝撃のせいか義眼を失くしていた。いつでも背負っていたアサルトライフルの肩紐も切れて瓦礫の下に残してきてしまった。
「……ちゃた」
痛い。そう思いながら服についた砂埃を軽く払って、ヨロヨロとアパートへ帰る道を歩いた。本人は無自覚だが、一刻も早く茶太郎に甘えたかったのだ。
しかし血だらけで義眼も銃も失くして帰ってきたシュートに茶太郎は「お前は本当にバカだなぁ」と辛辣な言葉を投げかけるのだった。
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