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第91話 9回目のさよなら

【9回目のさよなら】  ――この街に来てから、6回目の秋がやってきた。  真夜中に何か気配を感じて意識を浮上させると帰ってきた所らしいショットがベッドの横に立ってて、腕を伸ばして頭を撫でられてた。 「ん……?ど、した」  起きる直前に何か言われた気もするが、声をかけても何も返事は無かった。 「布団、ちゃんと被れよ……」  隣にモゾモゾと潜り込んでくるのを感じながら、俺はまた眠りに落ちた。  ***  9年前のあの日、シュートはもう何もかもが"おしまい"だと思ったが、おしまいになったハズの世界は9年経っても意外と終わらなかった。 「……」  秋はシュートにとって辛いことが多い季節だが、茶太郎が隣にいてくれるようになってからは悲しみに飲み込まれて体が動かせなくなるような事も随分と減った。  それでも、マウロアが隣にいない日々にはまだ慣れず、相変わらず世界は息苦しい。  今日は月に一度の"マウロアに会いに来ていい日"だ。その中でも特別な、一年で一番大切な日……命日だった。  通い慣れた道を歩き、首領宅の中庭へ続く門を勝手に開けて我が物顔で敷地内に入り込む。 「……ロア」  叶う事なら、いつも何も変わらない、全く同じ毎日をただ繰り返して生きられたら、どんなに人生は快適だろうかと思う。それなのに自分だけを置いて世界は目まぐるしく変わり続けていく。  もう何千回も別れを経験したような気がするが、今朝アパートを出る前に茶太郎に上着を着せられながら「今年で9回目だな」と声をかけられた。  9回……たったそれだけ。シュートはマウロアと過ごしたあの1年間を今でも鮮明に思い出せる。ほとんど口も利けなかったあの頃に比べれば今ではいろんな事が分かるようになってきた。 「おれ……」  あの時にもっと出来る事があった気がする。自分さえ、もっと何かしていれば、今もマウロアは生きていたような気がする。  シュートは最近そんな事ばかり考えていた。だが過去に起きてしまった事はもう変えられないと、悲しいほど知っている。 「……」  ――さみしい。  どんなに時間が経っても、誰が隣にいてくれても、心の中のどこかには常に寂しさがあった。これはもう一生消えない傷になっているという事がシュートにもなんとなく分かる。  これから先も、この苦しさをずっと抱えたまま生きていかなければならないのだという事に時々絶望さえ覚える。広大な海で永遠に溺れかけのまま、助けが来ない事を知りながら流されて泳ぎ続けて、そうしていつか疲れ果てて水の底に沈んだ時が自分の死なのだろうと思う。  それならいっそ、今すぐ溺れ死んでしまった方が苦しみを感じる時間が少なくて済むのでは無いか……というような事を、シュートはこれまでに数えきれないほど考えたりもした。  あの日もし茶太郎に出会っていなければ、もうとっくに悲しみに溺れて廃人になり、生きていなかっただろう。それはそれで、シュートにとっては"順当"な幕引きだったかもしれない。その運命を変えたのが茶太郎だった。 「ロア……いる?」  この下に埋葬されているマウロアの体は当然ながらもうとっくに朽ち果てているだろうが、それでもシュートはその地面に手を付くとじんわり暖かさを感じるような気がした。 「……」  もうマウロアの"姿"は思い出せない。目で得る情報はシュートにとって|些事《さじ》でしかなかった。全ては耳の中にある。だが一度聞いた音は忘れないとはいえ、思い出が増えるほどにそれぞれを思い出す頻度は下がっていく。  この頃は1日が終わるまでマウロアの事を思い出さない日もあり、眠る前、ふとその事に気がつくと酷く恐ろしい気持ちがするのだった。  その顔が思い出せなくなってしまったように、いつか声も思い出せなくなる日がくるのだろうか。今まではそんな事を考えすらしなかった。それが"忘れる"という事なのだろうか……シュートはそう考えて怖くなった。 「ロア、声……ききたい」  自分の記憶の中にあるマウロアの声は本当にマウロア本人の声なのだろうか。そんな事を考え始めてしまうと、どんどん自信が無くなっていく。  茶太郎と生きる毎日が楽しい。それと同時に、これ以上新しい思い出を増やすのが怖い。前にも後ろにも進みたくない。このまま、時を止めてほしい。 「……っ」  泣いて帰れば茶太郎はきっと気付く。心配そうな顔をさせたくはない。シュートは涙をグッと|堪《こら》えて鼻を啜った。  それでも、少しずつ分かってきた事もある。マウロアが自分に何を与えてくれたのかという事だ。"それ"は目に見えないモノなので、気がつくまでに長い長い時間を要した。  まだ"お別れ"を認めるのが怖くてシュートはその事から意識的に目を逸らしていたが、今、こうして毎日幸せを感じて生きている自らの姿をマウロアは喜んでくれているハズだ……という事をじわじわと理解し始めていた。  不意に「ありがとう」と言いたいような気持ちになったが、それを言うと何故か"本当のさよなら"になる気がして、まだ言えなかった。  自分だけが幸せになるなんて……という罪悪感の中にいた方がマウロアを忘れずにいられる気がして、自らわざと苦しみを選んでいるような部分があった。そしてその"呪縛"はこの時から更に2年後、11回目の命日に茶太郎が解いてくれる事となる。  ***  ここで過ごすと一日があっという間で、苦しみも感じない。マウロアと過ごした日々を頭の中で反芻していると、まるであの頃に戻ったような気持ちになれる。昼過ぎにここへ来たのだが、気が付けばもう日が暮れかけていた。  茶太郎の待っている家に帰ろうと思う。帰る場所がある事を本当に嬉しく思う。また日々の息苦しさが積み重なって、動けなくなって、溺れて、呼吸が出来なくなるギリギリに28日がやってくる。だから大丈夫。 「じゃあ、かえる」  マウロアが教えてくれた"世界"を、隣で手を引いて一緒に歩いてくれる人がいて、安心して息の吸える場所がある。しかも今ではシドニーやオーサー、リディアまでもが一緒になってシュートの手を引いてくれている。  進む距離に対して息継ぎの回数が減るのも、当然の事なのだ。  アパートの近くまで帰ってくると遠くに2階の電気がついているのが見えて、部屋の中からトントンと何か食材を切るような音も漏れ聞こえてくる。シュートは帰路を歩きながらその音を正確に聞き分けて、茶太郎が自分を待つ家に帰れる喜びに胸を躍らせた。 「ただいま」  茶太郎の真似をしてそう言ってみると朗らかに「おかえり」と返されて、胸がぎゅうと苦しくなる。マウロアの事を忘れていくのはやっぱり恐ろしい。それでも、誤魔化しきれないほどにこの日常が幸せなのだった。 「疲れたろ。すぐメシにするから、食ったらさっさと寝よう」 「……ん」  シュートの様子を見て茶太郎は深く立ち入る事も無くただそれだけ言うと、またキッチンへ戻った。 「……」  いつもの定位置のイスに座るとホッとする。 「ほら、今日はパッタイにしたから、ライスペーパーも用意したぞ」  食べるの難しかったらコレに巻いて食べろな、と茶太郎はテーブルの上に良い香りのする温かい料理を並べた。 「なにそれ」 「これか?箸だよ。覚えてねえ?」  以前、茶太郎の実家でフォーを食べた時にも箸を見た事はあったが、あの時は「こいつ箸苦手だから」と茶太郎が誤魔化して食べさせてやったのだった。  茶太郎の大雑把さのルーツである母親はそんな二人を見ても全く何も気にした様子が無かったが、さすがにただの同居人では無い事くらいは察している可能性が高い。  2年間も死んだと思い込んでいた息子が同性パートナーを連れてきたばかりか、その相手が有名な殺人犯であっても反対の一言も発しないのは茶太郎の上をいく"細かい事は気にしない"レベルである。 「おれもそれする」 「使ってみたいのか?いいよ。シドーご飯にするぞ」 「はーい」  シドニーの部屋からガタガタと音がする。茶太郎はその間にシュートの分の箸を持ってきて使い方を教えてやった。 「こうやって持ってな」 「ん」  この秋から|中学2年《Grade7》になったシドニーはいよいよ高校の事も少しずつ具体的に意識し始めている。先週まで二人と離れてサマーキャンプへ行っていた事もあり、どこか一気に大人っぽくなったようにも見えた。 「あれ……シド、また身長伸びたか?」 「そりゃ伸びるよ」 「靴のサイズとか大丈夫か?」  いつもの席に座りながらシドニーは嬉しそうに笑う。 「困ったら遠慮せず言うよ。俺はここの子なんだから」  その言葉に茶太郎も笑みをこぼした。 「……そうだな」  不器用に箸を使いながら少しずつ慎重にパッタイを食べるシュートを見て「とと凄いね」と言いながらシドニーはライスペーパーを使って上手に食べ始める。 「"なんでも俺と一緒がいい"みたいだ」 「あれ、分離不安まだ治ってないの?」 「これは一生モン」  茶太郎と一緒にいなければ気分が悪くなるような状況は脱したものの、何でも茶太郎と一緒が嬉しいのは以前も以降も変わらない。 「……それに、俺もな」 「ふうん?」  最初は流されて始まったはずの関係だが、今となってはそんなシュートが愛しくて堪らない。愛情表現をする事が苦手だったはずの茶太郎が、こんな風に人前で"シュートがとても大事"だと口にする事さえ平気になるほどに。 「美味いか?」 「……」 「ほら、こぼれてるぞ」  返事は無くても茶太郎は幸せそうだった。

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