94 / 231

第93話 あの人、会話できるんだ

【あの人、会話できるんだ】  ――左腕が痛い。  たまにこうしてズキズキと痛む夜がある。"あの事件"からもう1年以上も経つってのに。 「ちゃた、ちゃたっ」 「……う……」  頬をペチペチと叩かれてる感覚があって目を覚ました。心配そうな瞳と目が合う。 「あ……?あ、わり……うるさかったか」 「ちゃた……いたい?」 「大丈夫だから、心配すんな」  痛む時があってもコイツの前では出さないよう気を付けてたのに、寝ながらつい|魘《うな》されちまってたらしい。労わるようにそっと抱き寄せられて、左肩から腕を優しく撫でられる。 「ちょっと調子が悪かっただけだよ」 「……ごめん」 「謝んな、お前のせいじゃないって言ったろ。それにもう1年以上も経つんだ」  一生そうやって謝り続けるつもりか?と聞くと悲しい顔をして頷くから困ったモンだ。 「こんなスラム街で生きてて、もう8年目になるんだ。多少の怪我くらいするさ」  あんましつこいと怒るぞ……と言いたい所だが、俺はコイツに怒れないんだよな。最近は特に。年々甘くなってる自覚があるんだけど、もはや開き直ってる。シドニーが高校生になって家を出たから俺も寂しいのかもな。 「悲しい顔しなくていいから、もっと触れててくれ。そうしたら痛いのがマシになるんだ」 「こう?」 「ん」  "手当て"って言葉どおり、誰かが手を当ててくれるだけで痛みや苦しみってのは|和《やわ》らぐ気がする。ショットは相変わらず子供体温でポカポカあったかいし、別に痛い所がなくたって触れられてると癒される。 「ちゃた?」 「……ん……」 「……」  何か言われて額にキスされたけど、眠気が限界で聞き取れなかった。  *** 「……あれ?」  茶太郎さんだ。ゲートの内側ですれ違うのは珍しい。 「茶太郎さん!」  声をかけてみると振り返って右手をヒラヒラと上げる。この人はいつまで経っても変わらない。こんなスラムの奥地でも常にマイペースで本当に凄いなと思う。  俺だって似たようなことはよく言われるけど、これはそうしてる方が楽だから、そういう自分でいるように意識してやってる部分も多い。  俺はお節介で、あの人は面倒見が良いって感じかな。 「よおクレイグ。久しぶりだな」 「ちょっと忙しくしてて、離れてました」 「どうだ、ファミリーの仕事は」 「楽じゃないけど、慣れてきたかな」  2年前……俺が21になった時にスラム全体を対象に警察隊による大規模な取り締まりが実施されて、ストリートキッズのチームはバラバラにされてしまった。  これからどうしようかと思ってたけど、その時に助けられたまま、とある"仕事"をもらって今はスラムを離れて活動してる。 「あんま悪いことすんなよ」 「はは、マフィアにそれを言います?」  ボスは面倒見の良い人で、茶太郎さんやシュートとも深い関わりがあるみたいなんだけど、詳しくは話してくれない。ただ「シュートは俺の大事な奴の弟だ」って言ってた。どういう事なのかめちゃくちゃ気になるから、いつか話してほしい。 「|あの人《シュート》は相変わらずですか」 「日進月歩ってやつだな……いや、とはいえ昨日出来てた事が今日は出来ないなんて事も珍しくはないから、どんなもんやら」  呆れたように言いながらもその声色は優しい。本当に大事に想ってるんだろうな。  俺からしたらシュートはずっと"何考えてんのか分からない危ない人"でしかないんだけど、茶太郎さんの目には違うように見えてるみたいだ。そもそも話しかけてみた事もない。  この街に来た時から「あいつとは関わるな」ってみんなから言われてたし、ボケッとした顔でフラフラ歩いてる姿は本当に危険人物そのものでしかない。 「最近は何が出来るようになったんです?」 「自分の名前が書けるようになったよ」 「……へえ……」  見るか?と言われたけど丁重にお断りしておいた。あの人が書いた文字を見せられてお上手ですね、なんておべんちゃらを言えるほど俺は世渡りが得意なわけじゃない。  まあ……でも仲良くやってるみたいで良いんじゃないかな。思い返せば茶太郎さんも初めから結構変な人だったし、シュートと上手くやっていけるのも納得だ。  こんなような事、いつかも言った気がする。その時は茶太郎さんから「お前も大概だぞ」みたいな事を言われたはずだけど、いや、非常に心外だ。  なんて喋りながら一緒にゲートを越えると話題の中心人物が広場の噴水に座ってて驚いた。噂をすれば影がさすってやつかな。 「ショット」  この人の前で茶太郎さんにあんまり近付くと眼光だけで殺されそうなくらい睨まれて怖いから、俺はその場で立ち止まっておいた。 「ちゃた」  声をかけられて顔を上げたシュートは寝てたようで目を擦りながらパッと立ち上がって茶太郎さんに駆け寄り抱きついた。 「迎えに来てくれたのか?」 「うで、ちょうし悪いの、心配する」  茶太郎さんの前ではシュートはなぜかいつも5歳児くらいに見える。でもその口から出てきた言葉が前よりずっとしっかりと文章になってて、俺は思わず「えっ!」と声を出してしまった。  そしたらシュートと目が合って、今までも睨みつけられたことはあるけど……初めて"個人"として認識されたような感覚があった。 「なに」 「え、いや、えっと」 「こら怖がらせんな。俺の友達だよ」  余計なコト言わんでください!と叫びそうになったけど思ったよりずっと柔らかい視線で見つめられて少し緊張が解けた。 「ちゃたの友だち」 「あ……その……」 「お名前はなんて言いますか」 「ええ!?」  俺とシュートの会話だからか、茶太郎さんは心配でも嬉しそうでもなく、本当にただニュートラルな表情のまま黙ってる。助け舟も出してくれない。 「ク……クレイグっていいます」 「おれ、シュート」 「し、知ってる」  思わず素直な気持ちが口からこぼれ落ちた。間抜けな会話に茶太郎さんは吹き出して笑ってたけど、それどころじゃない。ここに来てこの人を知って10年だぞ。たった今、初めて会話したんだ。  ――会話できるんだ……。  いや、茶太郎さんとは話すんだろうなとは思ってたし、たまにリディアと話してる姿も見かけるけど、それはあの子が一方的に話しかけてるばっかりかと思ってた。 「ばいばい」 「なんだよ、いつの間にバイバイなんて覚えてたんだ?リディアか?」 「バイ……」  俺が反射的に手を振って応えるとシュートはどことなく自慢げに「できた」と言って、茶太郎さんに巻きついたまま帰っていった。  あの人「往来で手を繋いだりすんのは好きじゃない」とかいつか言ってたんだけど、手を繋ぐどころか巻きつかれてるのは何で平気なんだろう?  この世の中って、わけわからないことばっかりだ。

ともだちにシェアしよう!