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家族編 第19話 限りなく幸せな人生

【限りなく幸せな人生】 ◆本編終了後 シュート30歳の年の夏  食材入れや冷蔵庫の中にある物を確認して、シュートは唇を尖らせた。使える物がほとんど無かったからだ。茶太郎は今、洗濯と買い出しのために外出している。  強い香りのする食べ物が好きな茶太郎のために最近覚えたサモサでも作ろうかと思っていたのだが、芋のひとつも無かった。 「……」  窓の外を眺めてぼんやりと茶太郎の事を考える。 「……ちゃた」  その名前を口に出すだけで、何故か胸がポカポカした。しかし同時に寂しさも募る。つい2時間前まで一緒にいたというのに。早く帰ってきて欲しい。今すぐ会いたい。声が聞きたい。抱きしめたい。  料理をして待つつもりだったが作れる物も無いのでシュートは悩みもせず家を出た。もちろん、茶太郎を迎えに行く為に。  ザリ、ザリ、と茶太郎の足音が聞こえる。ちょうど帰ってきている途中だったらしい。茶太郎は足を引きずる癖があるわけでもなく、重量に特徴があるわけでもない。  他の人間の足音と何がどう違うのかはシュートにも説明は出来ないが、茶太郎の足音だけは分かるのだから分かるとしか言いようがない。 「……ちゃたっ」  気が|急《せ》き、知らず駆け足になる。あの"粛清"の後もこの街全体の様子に大きな変化はないが、荒くれ者たちの顔ぶれは入れ替わった。そう、入れ替わり……無法者たちが全くいなくなったというわけでは無いが、つまり"シュートと衝突した事のある者たち"は追い出されていったという事だ。  それに、世間的にセオドール・A・ブラッドレイ――通称"Shoot"――はその粛清で死んだと報道されているので、後からこの街に来た人間はシュートを見てもどこかで見たことがあるような気がする奴がいるな、程度にしか思わないらしい。  世間で主に有名な姿は16歳の時に投獄された際に監獄で撮影された写真で、脱獄後の指名手配書に使われている物もその写真だ。ネットで現在の姿も調べられはするものの、時が経つにつれ今では「指名手配写真には顔に傷なんか無い」「死んだらしいからこの人は違う」「よく似た他人だったのでは」「そもそも体格が違いすぎる」と憶測や噂が事実を覆い隠してくれている。  その粛清により一般人からも多大な死傷者が出てしまったため、以前は都会の若者にとって格好の肝試しスポットであったスラム、ゲート付近はさすがに文字通り閑散としたものになった。  とにかく、何が言いたいのかと言うと、この街はシュートにとって安心して散歩して回れる安全な場所になったという事だ。とはいえ相変わらず犯罪率は高めではあるが。  そのうち道の先に買って来た食材を右手に、洗濯物を左肩に下げた茶太郎が見えてきた。 「ショット!迎えに来てくれたのか!」 「ちゃた」  荷物多かったから助かるよ、と嬉しそうに近寄ってくる茶太郎に思わず抱きつきたくなったが、グッと我慢して荷物を受け取ってやるくらいにはシュートは精神的に成長した。 「ありがとう、まじ助かる」 「……ん」  大切な人の手助けをさせてもらえる事、微笑みを向けてありがとうと言ってもらえる事。シュートはそれ以上に幸せな事など無いと思った。  片手に受け取った食材を持って、歩き出した茶太郎の背中を追いながら、不意に涙が出そうな気持ちになって思わず立ち止まる。 「今日の晩メシさぁ……あれ、ショット?」  シュートが付いて来ていない事に気がついた茶太郎は振り返ってすぐ、その瞳が潤んでいる事に気が付いて荷物を投げ出して駆け戻って来た。  洗濯物なんか、汚れたってまた洗えばいい。茶太郎にとって一番大切なのはシュートを泣かさない事だった。 「ショット!」 「……ちゃた……」 「どうした、大丈夫か」  決して辛いわけでも、苦しいわけでもない。心配そうにしている茶太郎を安心させたいのに言葉が出てこなかった。 「荷物そこに下ろしていいから、楽な体勢に……」 「ちゃた」 「うん?」  茶太郎が家の外であまり甘えた行動を取りたがらない事は知っているが、気持ちがうまくまとまらないシュートはキスをせがむように鼻先をすり寄せた。 「……シュート」  すぐに察した茶太郎は右手をそっとシュートの頬に当てて、少しも迷わずキスをしてくれる。自分が嫌だと思う事より、シュートの気持ちを優先してくれるその愛情がまた嬉しくて更に泣きそうになったが、さすがに耐えた。 「歩けるか?早く帰ろう」 「ちゃた……ちがう、大丈夫、おれ」  今この瞬間が幸せだという事は当然なのだが、シュートはふと、茶太郎に出会えていなければその幸せは無かったのだという事に気がついた。という事は、辛かった思い出も全てが今に繋がっているのだと。 「……おれ、生きて、よかったって……」  そう呟いた瞬間、いつも仏頂面を崩さない茶太郎の目が珍しく大きく見開かれた。 「それ……まじで言ってんのかよ」  そしてくるりと|踵《きびす》を返すと投げ出した洗濯物を左肩にかけ直して、右手でシュートの腕を握ると「やっぱりさっさと帰んぞ」と足早に歩き出した。  アパートについて外階段を昇り、廊下の扉を潜った瞬間に二人はお互いの頭をかき抱くようにキスをした。天井の電灯はずっと切れたままだが、外がまだ明るい時間帯なので窓から差し込む光で廊下は薄明るい。 「ん、ん」 「ちゃた」 「はぁっ……シュート」  触れ合うだけのキスを何度も何度も繰り返す。シュートだけでなく茶太郎の頬にも涙が伝っていたが、お互い嬉し涙だと分かっていたので笑い合って額をくっつけた。 「えらくロマンチックな口説き文句じゃねえか、どこで覚えてきた」 「へへ」 「愛してる」 「ん」  今ここにはシドニーもオーサーもいない。そのまますっかり日が暮れてしまうまで、二人は飽きる事なく甘ったるい愛を囁き合った。

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