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家族編 第29話 俺の隣にいてくれてありがとう
【俺の隣にいてくれてありがとう】
◆本編終了後 シュート38歳の夏
ここで暮らして、今年でもう18年目になる。まじで色んなことがあった。とてつもなく長かった気もするし、一瞬だったような気もする。
そんな俺の最近の日課は穏やかに眠るショットの寝顔を見つめるコトだ。
「おはよう、ショット」
朝、目が覚めたら隣で寝てるショットにまず挨拶をする。それから寝息を確認して、濡らしたタオルで顔や体を拭いてやる。これも日課。
今日も外は良い天気だぞ、暑すぎて危ないくらいだ、なんて話しかけながら髪を梳かしてると口が動いた。
「ちゃ……」
「おっ」
珍しい、目が覚めたのか。
今のショットは起きているより眠っている時間の方が多くなって、この年明けからはもうほとんどずっと眠りの中にいる状態だ。
24時間以上起きてこないようになってすぐ、|BB《バイロン》に相談して医者に診てもらったけど……予想通り、病気の類じゃなかった。ショットは無茶苦茶な人生のせいで、まだ30代だってのに"命の限界"を迎えちまったんだ。
最近の様子を話したら呼吸障害のせいで慢性的な低酸素状態だったろうし、頭部への強い衝撃による外傷性の脳症が進行してた可能性もあるんだとか。
専門的なコトは俺にはよく分からない。とにかく体全体がダメージを蓄積してて、|不可逆《元に戻せない》変化ってコトだ。もう……治せない。
頭部への強い衝撃ってのは……きっと、俺が出会うよりずっと前のコイツに起きちまってた過去の出来事で。介入のしようも無かったコトが悔しい。
「ちゃた……」
だから俺は久しぶりにその声が聞けたコトが嬉しくて、パッと手を握った。
「ショット」
ぼんやりと目を開けてるけど視線は交わらない。少しずつ視力が落ちてきて、去年とうとう完全に見えなくなっちまったみたいだ。
正直、この数年間……異変を感じてなかったワケじゃない。でも嫌がるショットを押さえつけてまで病院に連れて行くのが正解なのか、分からなかった。
「少し起きるか」
「ん……」
抱き抱えるようにして体を起こしてやる。クッションを背中の後ろに積んで凭れさせてから外の風を部屋の中に入れてやった。
「寒くないか?」
俺を探してる気がして、すぐ隣に戻ってまた手を握る。こうして弱っていてもコイツは相変わらず指先までポカポカと暖かい。
「……」
こんな風に並んで座ってると、いつかのピクニックを思い出した。あの時はもう少し寒かったな。
「心地いいな」
「……ん」
頬にキスすると嬉しそうに口元が緩む。その横顔を見てるとどうしようもなく愛しくて、ショットの前で泣きたくないのに、涙があふれてきた。
「ちゃた」
「ん、なんだ?」
「てがみ……よんで」
「いいよ」
眠いんだろう、頭がグラグラしてるから手を添えてゆっくり寝転がらせた。一度眠るときっとまた何日も目覚めない。だから眠っちまう前に少しでも聞かせてやりたくて、その頭を抱きしめたまま耳元で手紙の内容を口にした。
"あの手紙"の内容なら、もう何年も寝る前に音読させられてきたから、今では完璧に暗唱できるようになった。幸せそうな顔で眠りについたショットの額にそっと口付ける。
「シュート……、っ……」
幸せだったか?俺はお前を、幸せにしてやれたのか?不意にそんな言葉が頭に浮かんで、声が震えた。
「"だから、お前の隣に"……」
――ちがう。俺の隣にいてくれ。
ポタポタと涙が落ちてショットの頬に落ちる。もうとっくに命の限界を超えて頑張ってくれてることは分かってる。俺を一人にしない為に。
コイツは本当に優しい奴なんだ。きっとずっと苦しいのに、俺の為にその苦しみに耐えて、生き続けてくれてる。それなのに俺はどうしてもその手を潔く離してやれなくて。
「シュートっ……」
医者にはこの夏を越えられるか分からないって言われてる。そんなの嫌だ……嫌だ、嫌だ。
俺を一人にしないでくれ。ずっと眠ったままでもいいから。頼む……頼むから。まだ俺の隣にいてくれ。
「はぁ、はっ、はぁ……っ、シュート、いやだ」
――俺をおいていかないでくれ。
「結婚するって、約束しただろ」
ずっと一緒にいるって、笑って頷いてくれたじゃねえか。なあ。
「いやだ……頼む……ショット……!」
「茶太郎」
不意に肩に触れられてハッとする。オーサーだった。
「大丈夫か」
「あ……ああ……悪い、取り乱した……」
オーサーはこうして定期的に様子を見るついでに必要物資を持ってきてくれて、俺がこうして取り乱してたら肩を叩いてくれる。就職したばっかなのに、シドニーも休日の度に無理をして帰ってきてくれる。
「俺が見ておくからお前は少し休め」
よく眠ってるショットから離れてリビングへ出る。身体中が震えてて、息がうまく出来なくて、涙も止まらない。
「ちゃたろー、おはよ!ごはん食べた?」
「いや……」
「えー、ごはん食べなきゃ元気でないんだよ!」
「……そうだな」
食欲なんかこれっぽっちも無かったが、リディアに手土産のフルーツを無理やり食べさせられた。
「はいリンゴ!体にいいんだよ!」
「ありがとな」
手渡されたリンゴをぼんやりと見つめる。
2年前の俺も、こんな風に栄養のあるものを食べさせようとしたり、運動させようとしたり……ショットの衰弱に必死で抗った。
でもどんなに抱き寄せて、握りしめて、守ろうとしても、指と指の隙間から水がこぼれ落ちるようにショットの"命"は失われていった。
「……」
まだ一人で歩いてメシがちゃんと食えてた頃、ジュースとドーナツを欲しがった日があったのに、健康に悪いからって出してやらなかった。
あの時は"そんなこと"くらい、いつでも叶えてやれると思ってた。でもいつだって、今日が最後のチャンスかもしれないと思って生きればよかった。もっとその様子の変化に目を凝らしてたらよかった。
「ねえもっとあるよ!はい、オレンジも」
「悪い、あんま食べたら……吐いちまう」
吐き気を|堪《こら》えたら涙が出た。何も変わらないリディアが隣で背中を撫でてくれる。
「ちゃたろー、どうして泣いちゃうの?」
「……自信がねえんだ」
今まで、ショットの考えてる事は俺が一番理解してるって自信があった。でも今こうしてロクに意思疎通も出来ない状況になったら、何故か途端にその自信は霧散してしまった。
「なんで?」
「俺の思い込みだったらどうしようって……アイツが、本当に一緒にいたかったのは……」
マウロアだったんじゃないのか、なんて。弱気になってそんなバカな事まで考える。そうじゃねえだろ、今の俺が考えるべき事は。
残された時間の少ないアイツの為だけを考えて、出来る限りのことをしてやりたいのに、俺は俺のことばっかりだ。離れたくない、気持ちが知りたい、ショットを失いたくない……って。あまりにも自分勝手で、情けない。
アイツが失明する前に見た最後の俺は、ちゃんと笑えてただろうか。今だって、見えてなくても声で分かっちまうだろうから、いつだって笑顔で隣にいてやりたいのに。
「変なのちゃたろー。どうして不安になるの?」
「……」
「シュートは幸せなんだよ」
その言葉にリディアを見つめる。
「ちゃたろーといること、シュートのたからものだよ」
俺とショットを近くで見てきたリディアがそう言ってくれると本当に嬉しい。
「今も。シュートは幸せなんだよ」
「……そう、かな」
「そうだよ。寝てる顔、ちゃんと見てあげてよ」
また涙が出てきて、頭を撫でられた。
「俺が無理やり、アイツを……この地獄に縛り付けてんじゃないかって……」
「ちゃたろーともっと一緒にいたいから、シュートは毎日がんばってるんだよ」
すると寝室からオーサーが「おい少し交代しろ」とリディアを呼んで、代わりにこっちへ来た。
「茶太郎、馬鹿な事を考えるのはいい加減にしろ」
「……」
「何故そんなくだらない事を迷う。今更になって奴の気持ちを疑うのか?奴はいつでも馬鹿正直にお前に気持ちを伝えていただろう」
ずっと一緒にいてお前は奴の何を見てきたんだと言われて涙を拭いた。不安な気持ちは消えない。でもそれは"ショットを失う"不安だ。
そうだよな。根本をはき違えて、ショットと本当に愛し合えてたかどうかなんて悩むのはショットの愛情に対してあまりにも不誠実だ。
「……ありがとう」
「ふん、らしくもない事を言わせるな。お前は疲れてるんだ。寝不足になれば人間はネガティブに陥る。何かあれば叩き起こしてやるから、たまには気を緩めてしっかり眠れ」
別の部屋で寝ろと言われたが、さすがに「いつどうなっても不思議じゃない」って言われてるショットから離れるのは怖くて、隣に寝転がった。
「おやすみちゃたろー、私ちゃんと見てるから安心してね」
「ああ、ありがとな」
不安な気持ちを吐露して、みっともなく泣いて、頭の中がスッキリした気がする。ショットの指に触れると、力は篭ってないけど優しく握り返してくれた。
***
そんな風に周囲に支えられつつ日々は過ぎて、|首領《ドン》とマウロアの命日を過ぎた直後……何の因果か、それは俺たちが初めて出逢った日だった。
「……ショット?」
目を覚ますとショットの呼吸の様子が変わってた。少し仰け反ってはくはくと息をしてる。多分、これが|下顎《かがく》呼吸ってやつだ。
苦しそうに見えても、本人は低酸素状態でぼーっとしてて、苦しみも痛みも感じてないって聞いてる。もし一人でいる時にその場面に立ち会えば、慌てなくていいから、二人きりの……最後の時間を、大切にしろって。
「……」
怖い。怖くて、逃げ出したい。
「ショット、聞こえるか」
反応は無くても耳は聞こえてる可能性があるって言われてたから、手を握って優しく呼びかけた。
「ショット……シュート、ありがとな……ここまで頑張ってくれて……」
その時、声は無いけどショットの口が確かに「ちゃた」と動いたから、慌てて口の動きに目を凝らした。でも意識が朦朧としてるのか、何も続かなくて……。
「シュート、愛してる」
握った手にいつもの温もりは無かったけど、まだ確かに力が篭ってて、触れてる部分からなにか暖かいモノが流れ込んでくるような気がした。
「なあ、幸せだったか?俺はお前、を……」
つい聞かずにいられなかった。涙で視界がボヤけちまって、ズッと鼻を啜ると手に指が絡められた。
「ショッ……」
顔を上げると目に何かが触れた。誰かが後ろから俺の目に手を当ててるような感覚がする。反射的に目を閉じるとどこからか声が聞こえた。
「シュート、そりゃ幸せだったよな?」
変声期を終えたばかりくらいの、若い少年の声だ。
「いや、違うか。"今も"幸せだよな」
「うん」
「……っ」
コレは俺の都合の良い夢じゃないよな。だって、ショットと繋いでる指の感覚が確かに現実のモノなんだから。
「ありがとな、茶太郎。すげえ大変だったろ……何年もコイツの面倒を見るのは」
「……そうでもない、ずっと……ずっと、楽しかったよ」
思い返せば、ショットと生きたこの無茶苦茶な日々の全てが、泣きたいほど愛おしい時間だった。そう、痛みすら。
タフな奴だな、と笑う声がする。
「ちゃた」
その声を聞き逃したくなくて、返事の代わりに手をぎゅっと握り返した。
「おれ、ずっとしあわせだった。いまも」
俺の大好きな低く掠れたショットの声が、今一番聞きたかった言葉を聞かせてくれるのを泣きながら聞いてた。
「俺もっ……俺も、幸せだったよ」
「ありがとう、ちゃたろ……あいしてる」
気が付いたら背後の気配は消えてて、ここには俺たちしかいないんだから、誰に遠慮する事もなく、俺はショットにキスをした。
「ショット、ずっと俺の隣にいてくれて……幸せでいてくれて、ありがとう」
もう返事は無かった。ただその呼吸が完全に止まって静かになってしまうまでの間、丸い頭を撫で続けた。
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