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Side 1 知識では埋められないもの
【知識では埋められないもの】
▼オーサーとリディアの後日
全ては"元通り"になった。
ただそれだけの筈なのだが、この妙な喪失感は何なのだろうか。奴の存在は俺の人生にとって、たまたまほんの少しの時間を共有しただけに過ぎないイレギュラーなものだった。
初めから無かったものが、また無い状態に戻っただけ。だというのに、まさか俺は"寂しい"のだろうか。非合理な感情が少しおかしくて笑う。
その前にも後にも、奴の存在の有無に関係なく時間は続いていて、世界は一秒も滞りなく動き続けている。テクノロジーは目まぐるしく進化し、どれほど片付けても仕事が無くなる日はこない。
つまり探せばいくらでもやるべき事など湧き続けてくるというのに。窓の外をぼんやりと眺めながらため息を吐く。
「……どうにも、退屈だな」
「そーだねぇ」
世話の焼ける同居人は何歳になっても相変わらず騒がしく、どれほど言っても俺のそばを離れる気は無いらしい。なら一緒にこの街を出るかと言えば心底不思議そうに「どうして?」と聞かれた。
意味のない話し合いをこれ以上するつもりはない。決めるべきは俺だ。いずれにせよ、そろそろ"潮時"だとは思っていた。それに俺自身、いつまでもフラフラしているつもりはない。
「世間は常に常識の範囲内で物事を理解したがる。俺とお前は|歪《いびつ》なんだ。わかるか」
「わかんない!」
都会に引っ越して俺と結婚するか、と言えば「いいよぉ」と言う。意味が分かっていないな。
まあ分かったとしても、本当にコイツにとっては何もかもどうでもいいんだろうが、判断能力の無い馬鹿の戸籍を俺の一存で勝手に書き換えるのは流石に気が引ける。
「そしたら兄さんはもうむずかしい顔しない?」
「どうだかな」
「うーん」
俺はもうすぐ29、この馬鹿は34になる。そんな年齢の男女が一緒に暮らすには何か名前のある関係でなければ、世間はきっと何らかの裏を感じたがるに違いない。
ましてや俺はこの見た目で一企業のCEO、どう足掻いても"目立つ"んだ。対するリディアは親なし学歴なし職歴なしときた。
このままスラムに沈んで永遠に影の取締役でも別に構わないが、その選択にこいつを巻き込むべきかどうか、俺はまだ悩んでいる。
「……俺をこうにも悩ませるのはお前だけだな」
「たいくつしないでしょ」
「それもそうだな」
思わず笑うとリディアは「頭つかれたら甘いもの食べたらいいよ」とクッキーを持ってきた。
「ねえ兄さん、シュートがいなくなってさみしーの?」
「そうだな。奇妙な感覚だ」
茶太郎の仕事や住む場所の世話をしてやっている間は何かを感じる暇も無かったが、ひと段落してしまえば俺はどうも寂しいのだった。
新しい本を読んでも、言語を学んでも、どんな知識を得ようとも埋まらない穴が今、胸に空いている。俺の中にこんなセンチメンタルな部分があったとはな。
いつの間にか、奴らと一緒に過ごす日々が当たり前になっていた……まあこんな事くらい、"この広い世界ではきっとよくある話"だ。
「なんだか他のみんなも、ヘンなかんじ」
「そうだろうな。あいつの存在はこの街で良くも悪くもとても大きかった」
「ちゃたろーにごはん作って!って言いにいったら、あれもこれもいっぱい作ってくれるの!」
たくさん食えって言うの。と言うリディアは馬鹿なりになんとなく周囲の落ち込んでいる雰囲気を感じ取っているらしい。
父の子会社の不手際によって失われた奴の戸籍も、俺から返しておいた。晴れて住居も仕事も決まった事だし、茶太郎とシドは来月にももうこの街を去ると言う。そうなれば、さらに"ぽっかり"なんだろうな。困ったものだ。
「もう一度、世界を回るのもいいかもしれないな」
「私も行っていいの?」
「ああ」
そうだな、次はこいつと二人で次の"退屈しのぎ"にちょうど良い場所を探してみるのも有りかもしれない。
そして秋にはここに帰って来よう。"みんな"で食事をする約束だからな。
「ねえ兄さん」
「なんだ」
「私、兄さんよりずっと長く生きるから、安心してね!」
「……ふ。それは確かに安心だ」
【知識では埋められないもの 完】
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