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番外編◆現代日本の世界のBOX 3
【現代日本の世界のBOX 3】
◆社会人茶(30)撃(25)
ガシャンと何かが壊れる音がしたから画面から目を離して庭の方に目をやるとシュートとシドニーが転がり回って遊んでた。庭と言ってもどこからどこまでやら。
なんとなく家の範囲内と思える辺りまでを庭と定義して、ネギやシソくらいの簡単な家庭菜園をしてるから、その鉢でも倒したんだろうと予想する。
「おーい、こら、何か壊したろ」
シドニーってのは2年前に家族の一員になったゴールデンレトリバーだ。近くの家で生まれて脱走しちまったのをシュートが見つけて保護して、色々あってそのままウチで引き取ることになった。
「元気なのはいいが、ケガすんなよ?」
網戸を開けながら声をかけると「ちゃたも遊ぼう」と言わんばかりに両者から|爛々《らんらん》と見つめられる。
「俺は仕事です」
シドニーが駆け寄ってきたからよしよしと撫でてるとシュートも頭を差し出すから撫でてやった。
「昼メシもうちょい後でいいか?そしたら区切りつくから」
そろそろ冷たいモンが美味い時期になってきたし、近所の人に乾麺を貰った所だからさっそく湯がいてやろう。今日は冷たいそうめんにするぞと言えばシュートは嬉しそうに俺の頬をペロリと舐めてまた遊びに行った。ちなみにシドニーは俺を舐めない。シュートが拗ねるから。
「気をつけて遊べよ」
麺が掴みやすい割り箸のストックあったかな……と考えつつ部屋に戻る。そういえばシドニーも大きくなったモンだ。ウチに来たのはちょうどこれくらいの季節だったっけ。一悶着……あったなぁ。
***
――妙な胸騒ぎがする。
しばらく仕事の締め切りに追われてて、ほとんどシュートを構ってやれてないからだろうか。今日もふらっと外へ散歩しに行く背中を見送ったものの、さっきから何故か心配で堪らなくて、昼を過ぎても全く仕事に集中出来ないから俺は潔く作業を諦めるコトにして玄関先へ出た。
外はもう夏が近付いてて、太陽の光が眩しい。
「……シュート」
家の周りにいるだろうか。アイツは耳が良いから、近くにいるなら大声で呼べば帰って来ると思う。
「シュート!」
何事もなく遊んでたらイタズラに驚かせるだけかもしれないとは思ったけど、不安な気持ちに勝てなくて名前を叫んだ。
「シュート、聞こえたら一旦帰ってきてくれ!」
俺の声は虚しく大自然の中に吸い込まれて消えていくばっかりで、こんな時に限って何故か虫も鳥の鳴き声もしないから余計に不安が煽られる。
そりゃ普段から好きなようにどこへでも行かせてんだから、近くにいない事だって大いにあり得る。でも俺は自分の直感を信じて軽トラのキーを引っ掴むと車へ走った。
アイツが普段どこで何をしてるのか、詳しくは知らない。俺が何もかもを把握するのも違うと思ってるから、アイツが自らの意思で見せてくれる景色以外を無理に覗き見ようとは思った事がない。
なのに、なんなんだろう……今日のこの、とてつもない不安はどこから来るのか。ハンドルを握る手に汗が滲む。
「……はぁ、落ち着け……」
考えたくもないが、もし"何か"があるとしたらなんだ?森を歩いてヘビに噛まれたり、山に登って滑落したり……もしくは、川に入って溺れたり。
「川……いや、まさか」
水辺には近寄るなって何度も何度も言い聞かせてあるし、アイツ自身も大量の水を怖がる事を知ってる。湯船レベルの量でも嫌がるんだ、だから川になんか近付くハズがない。
でも俺は何かに取り憑かれたようにハンドルを切った。
絶対に何も見落とさないよう周辺に目を凝らしながらボロを運転する。その時、遠くの川辺にチラリと何かが見えた気がして急ブレーキをかけた。
「……っ」
慌てて車を止めて道を外れた先へ駆け出す。見間違いであってくれ。そう願いながら必死で初夏の青々と伸びた俺の背より高い雑草をかき分けて川岸まで降りて行った。
「シュート」
視界が開けると対岸にシュートが見えた。服を着たまま膝まで川に入り込んでる。その姿を見た瞬間、俺は自分でも驚くような、腹の底からの怒鳴り声を上げていた。
「シュート!!今すぐ上がれ!!」
決して浅い川じゃない。幅も広くて、とてもじゃないがここからだと止めに行けない。俺の声が聞こえたのか、ハッと顔を上げたシュートの腕には何か動物が抱かれているようだった。
それを見て少し冷静になる。両手が使えない状態で下手に歩かせると余計に危ないかもしれない。
「……っ動くな!すぐ行くから、そこでじっとしててくれ!」
とにかく車へ引き返すが、心臓がバクバクして胸が苦しい。
――どうしよう、怒鳴っちまった、どうしよう。
軽トラをすっ飛ばして対岸へ渡り、また草をかき分けながらシュートがいた辺りを目指して走って行くと川の中に突っ立ったままの背中が見えた。
「シュート」
足元を確認しながらザブザブと川へ入って行く。
「こっちに来い、大丈夫だから」
とにかくその服の端を掴んだ時、ようやく生きた心地がした。反応は無いが、幸いにも素直についてきてくれる。
「ほら」
軽トラまで戻ってきて、腕に抱かれてた子犬を受け取ってひとまず荷台に乗せた。びしょ濡れで怯えたようにキューキュー鳴いてはいるが、意識はあるし怪我もなさそうだ。後で動物病院へ連れて行こう。それより、なによりも今は……。
「シュート」
「……」
膝をついてへたり込んじまったシュートの隣に同じように膝をつく。俯いてるから、前髪がかかって顔が見えない。
「シュート、ごめんな……お前が何の理由もなく川に入るワケがねえのに……」
パニックに陥らず、あそこでじっと待っててくれて本当によかった。
「……怖かったろ」
そっと腕に触れるとビクッとその体が跳ねて、シュートは怯えきった様子で両耳を押さえた。思わず名前を呼びかけて口を閉じる。顔を覗き込むと目を強く閉じてて、とにかく外部からの刺激を拒絶してるみたいだった。
「っは……はぁ……っ」
どうしよう、どんな言葉をかけたらいい?それとも、今は何も話しかけない方がいいのか?もう寒さは感じない初夏とはいえ、ズボンが濡れたままの格好でいさせるのも気がかりだし、早く家に連れて帰りたい。
ただでさえ水に浸かっただけでも酷いストレスを感じてるハズなんだ。その上、よりによって一番信頼してるハズの俺にあんな風に怒鳴られて……。
絶対にそんな手段は取りたくないものの、幼い頃のシュートなら無理やりにでも抑えつけて連れ帰る事が出来ただろう。けど……今のコイツが酷いパニックになってしまったら、危険があったとしても俺の力じゃ止めてやれないんだ。
落ち着いてくれと祈りながら様子を見守ることしかできない。
「……た……っ」
「え、どうした、シュート?今、何か言ったか」
「ちゃた……はぁ……ちゃたっ」
耳を押さえて俯いたまま、シュートは喉が詰まったような声で必死に助けを求めるように何度もただ俺の名前を繰り返す。
「っけほ、はぁっ、ちゃたっ……けほっ……」
すぐ隣にいるのに俺の事が分からないみたいだ。また驚かしてしまわないように今度は慎重に手を伸ばして、一緒に耳を覆ってやった。
「ふっ……ふぅっ……」
「シュート、大丈夫」
「……、ちゃ……」
「もう大丈夫だから。無理に話すな」
怖かったな、よく頑張ったなって繰り返してるとだんだん力が抜けて体重がかけられて、一緒に倒れちまいそうになったから地面に座って膝の上に頭を乗せさせた。
「はぁ……はっ……」
「もう大丈夫だからな」
虚ろに開かれた目をそっと閉じさせて、初めて会った時みたいに何度も「大丈夫」と言い聞かせた。
しばらく肩をさすってるとグッタリしていたシュートがゆっくりと起き上がった。
「……」
「立てるか?」
小さく頷いてくれたから一安心して、肩を貸して立ち上がらせる。
「そっち乗れるか」
フラフラしてるけど、思ったよりはしっかりした足取りで自ら軽トラの助手席に乗り込んでくれた。
「お前も、ごめんな」
荷台に乗せたまま待たせちまってた子犬を抱き上げて、積んでたタオルで包んで助手席にいるシュートに手渡してみると優しい手つきで受け取った。
「心配だよな。先にコイツの病院に行こうか」
「……ん……」
疲れてるだろうけど、それを望んでる気がした。念のために「お前は先に帰って休むか?」とも聞いたがやっぱり首を振るから、そのまま動物病院へ向かった。
シュートを軽トラに待たせて病院に飛び込むと運良くすぐに診てもらえて、検査の結果、子犬は元気そのものだった。まだ迷い犬情報は出てなかったから、もし飼い主が現れたら連絡してもらえるよう俺の電話番号を預けて、とりあえず引き取って連れ帰ることにした。
「シュート、待たせたな。大丈夫か」
「……」
「急いで帰るからな」
心配で声をかけるけど反応はない。静かにしてるが明らかにキツそうだ。それでも膝の上にいる子犬を支えてる手は優しい。ドッグセラピーって言葉もあるくらいだし、小さい命の体温に触れて、少しでも気が紛れててくれたらと願う。
***
「っと……!」
家に着いて子犬を下ろした瞬間、シュートの体から力が抜けるのが分かって咄嗟に支えたけど床にゴツッと頭を打ちつけちまった。ああ、痛かったんじゃねえか。後で腫れなきゃいいけど。
「シュート」
意識が無い。失神したというよりは、疲れ果てて眠ったみたいだ。とにかく寝室に寝かせて、ズボンを履き替えさせて、この感じは後で熱が出る気がするから、看病に備えとこう。夢遊病の発作にも備えて、ぶつけて怪我しないようクッションの用意と……そうだ、納品が間に合わないって取引先に謝罪の連絡をして、子犬の寝床と食べさせるモンを作って……。
「……くそ……」
やるべき事は山ほどあるのに、俺も膝の力が抜けちまってその場に座り込む。今更になって安堵で手が震え出した。
「シュート、はぁ、まじで……無事でよかった……」
川の中に入り込んでる姿を見た瞬間、頭が真っ白になっちまった。あの時に俺が怒鳴ったりしなかったら、もう少し事態はマシだったかもしれない。
シュートだってガキじゃねえんだし水辺の恐ろしさだって分かってる。俺が余計な事さえしなければ、コイツはちゃんと慎重に自力で岸に上がって、ちゃんと子犬を抱えて帰って来れたかも。
そりゃ全ては"たられば"の話だけど、少なくとも俺の行動は100点満点では無かった。
「……ごめんな」
俺の判断ミスのせいでもしコイツを失うようなコトがあったら、当たり前だが一生、死んでも、どんなに悔やんでも悔やみきれない。
こんなコトがあると、今後また一人にさせるのが怖いって正直言えば思っちまうけど、まるで家飼いの猫みたいに首輪をつけて飼い殺すなんてもっての|外《ほか》だ。
心配を押し殺して見守るのが俺の役目なんだろう。不甲斐なさでモヤモヤしたまま、とにかくやるべき事をひとつずつ終わらせていった。
***
ハッと気がつくとパソコンの前に突っ伏して寝ちまってた。外は陽が落ちて、家の中は真っ暗になってる。
子犬は与えてやった段ボールの毛布の中でスヤスヤと眠ってるから、急いでシュートの様子を確認するために寝室へ向かった。
「シュート……?」
でもベッドの上にその姿が無くてヒヤリとした。玄関扉のチェーンは閉めてあるし、窓もベランダも庭に出るガラス戸にも全部二重ロックをかけてある。外には出てないハズだ。
「シュートっ!」
趣味部屋にもいない。トイレにも、キッチンにも。まさかと思いながら脱衣所に向かうと扉が開いてて、風呂場の床に座り込んで眠ってるシュートがいた。
「よかった……ここにいたんだな」
ウチの風呂には湯船が無い。どうせ使うつもりがないから、リノベーションする時に撤去してもらった。シュートのトラウマに関するモノは極力消し去りたくて。
「……シュート」
川に入った事でストレスがかかって、夢の中でトラウマの追体験をしたのかもしれない。実の親と暮らした時間より俺と一緒にいる時間の方がもう長いのに、こうして風呂場に来たのは未だ過去に捉われたままの自傷行動の一種に思えて悲しかった。
翌朝、俺は自己嫌悪やらショックやらで一睡も出来なかったってのに、反対にケロリとした様子で目を覚ましてきたシュートは朝メシ食うかと聞いても、それより段ボールの中にいる子犬に夢中になってた。
「可愛いな」
「……」
嬉しいのか、いつもより目がキラキラしてる気がする。
「シュート……しんどくないか?」
長くなってきた前髪を耳にかけながら尋ねてみると「?」という顔をしてこっちを見てくる。
「昨日、ごめんな……怒鳴ったりして」
そう言うと何故か余計に「?」という反応を強めて、落ち込んでる俺を慰めるように抱きついてきた。
「覚えてないのか?いや、それとも……」
距離が遠かったし、耳栓もちゃんとしてたから、もしかして俺の声はそんなにハッキリ聞こえてなかったんだろうか。
だとするとあの時、川の中で固まってたのも、俺の名前を必死で呼んでたのも、俺が怒鳴りつけたせいじゃなくて、ただ水が怖くて……。
「昨日、俺が呼んだのわかったか?」
「ん」
「その時、俺のコト……怖かったか?」
「……」
何の話だと言いたげにキョトンとした顔で首を振られて、思わず床に突っ伏して項垂れた。俺の病みそうなくらいの猛省や葛藤の意味はなんだったんだ。
ああ……それにしても、まじでよかった。俺は引き続き、コイツの中の"安全地帯"でいられるみたいだ。
「それならいい。気にしないでくれ」
「……?」
まるで首の皮一枚繋がったような気分だ。とはいえ今回はたまたま大丈夫だっただけだから、この反省自体は決して忘れずにいよう。
昼過ぎに電話が鳴って、近所でブリーダーをしている人が脱走してしまった子犬を探してるとのコトだった。やりとりをしながら横目で様子を窺うとシュートは子犬が気に入ったようでしきりに抱き上げては頬をすり寄せて可愛がっている。
子犬も助けてもらったことが分かっているのか、甘えた声を出してシュートの鼻を舐めたりしていて、俺はその尊い光景を手放したくないと思っちまった。
「……あの、ちなみに……」
***
そうしてなんやかんやあって、結局そのままウチで引き取ることにしたその子犬がこのシドニーってワケだ。今じゃすっかり家族の一員で、シュートが危ない事をしてたら俺を呼びにきてくれたり、引きずって止めてくれたりもする、めちゃくちゃ頼りになる存在だ。
ズルズルと冷たいそうめんを食べながら壁のカレンダーをチラリと見て、そろそろ狂犬病の注射の時期だと気がついた。
「シドのワクチン打ちに行かなきゃな。明日行くか」
「……」
「もうちょい食うか?」
「ん」
シュートの分のそうめんを取り分けて食品用はさみで切りながら明日は大騒ぎだな、と覚悟を決めた。ちなみに俺はこうして麺を切ってやってる所をオーサーに見られて以来、馬鹿と過保護と保護者を混ぜて「馬鹿保護者」と呼ばれている。それを聞いたリディアが悪ノリしてたまに俺を「ばかほご!」と呼んだりもするが、いいさ。好きに呼べ。
翌日「注射行くぞ」と言えば聡明なシドニーはすぐに理解して、キュンキュンと悲痛な声を上げてシュートの背中に隠れた。そうすると俺が虐めてるとでも思うのか、シュートも本気で庇おうとするから困ったモンだ。
「これはしなきゃいけないコトなんだよ!」
「だめ」
「だめじゃない、こらっ待て!」
この追いかけっこも毎年恒例になりそうだ。まあそんな問答も元気だからこそ出来る事かと考えたら、幸せの一部だと思えなくもないな。
「シュート、お前の健康診断も兼ねて今日は病院デーにするぞ!」
「いや」
「いやじゃない!」
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