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番外編◆現代日本の世界のBOX 6
【現代日本の世界のBOX】
◆社会人茶(31)撃(26)
また修正依頼がきた。こっちはずっと言われた通りに資料を作ってるし、一度は「素晴らしいです!これで進めます!」なんて言いながら受領するくせに、2日くらい経てば「やっぱりここをこうしたくて……」と。もう何度目なんだよ。
最初に向こうが提示してきた締め切りもとっくに過ぎてるってのに、まだこねくり回したいらしい。どうにも優柔不断なクライアントだ。
「だから、結局最初のが一番シンプルだったでしょ」
素人のくせに木を見て森を見ずな意見ばっかり出すからもうバランスが崩れてぐちゃぐちゃになってて、最初のに戻した方が良いって言ってんのに、更なる修正を重ねてどんどん酷くなる。
「これ以上は別料金になりますけど」
暗にこれで納得しておけと言ってるんだが、よりにもよって次は値下げ交渉までし始めやがった。
「……あのですねえ」
その時、後ろからガタガタッと音がして俺はほとんど無意識に「シュート、外で遊んでろ」と漏らした。
「だから、そういう修正をかけてもほとんど結果的に出力されるものは変わらないって言ってるでしょう、気分の問題じゃないですか」
というか、今あっちが求めてる修正は一番最初に俺が提案したモンであって、「それはなんとなくイメージと違う」って突っぱねやがったのはどこのどいつだ。
「もういいです、さっさとやりますよ。でもマジでこれが最後の修正ですからね。時間の無駄だ」
反論させる余地なく電話を切ってパソコンに向かおうとしたけど、いったん落ち着こうと立ち上がった。この仕事のせいで寝不足なのもあって、余計にイライラしちまうんだろう。
「……はぁ」
こんなくだらねえことで気分を乱されてどうする。淡々とやりゃいいんだ仕事なんか。俺の人生の中においては仕事の優先度は下の下なんだ。シュートとの生活の為の手段でしかない。ポジティブな感情ならともかく、ネガティブな感情にさせられるなんてあまりにもバカバカしい。
クソったれ、値下げどころか迷惑料も上乗せしたいくらいだぜ。
「あー……ったく」
顔を洗ってコーヒーを淹れながらストレッチをする。ポタポタと落ちる黒い|雫《しずく》を見つめながらボーッとしてるとなんであんなにムシャクシャしてたんだかってくらいスーッと気分が落ち着いていくのが分かった。
「……シュート?」
なんか家の中が静かだな。あ……そういえばさっき外に行けって俺が言ったんだった。ここしばらくずっと構ってやれてなくて悪いな。
もうすぐ日が暮れ始めるけど、どこ行ったんだろ?まあシドニーが一緒だから大丈夫だよな。まじでシドニーがウチに来てくれて良かった。
***
不満を感じながらも結局、適当な仕事は出来ねえトコが俺はちょっと不器用なんだよな。イライラしながらもなんとか腹の立つ仕事を終わらせ、クライアントに問答無用で請求書と共に送りつけ、もう忘れようと凝った首を回してるとタイミング良く玄関の方から音がした。
「おうおかえり、すぐメシにするからな」
出迎えてシドニーの足を拭いてるとシュートは大人しく靴を脱ぎ俺の横を素通りして居間に向かった。なんだ今日はそっけねぇの。
「なあどこ行ってたんだ?面白いモンあったか」
ついて行きながら話しかけたけど反応が薄い。遊び疲れたのかな。
ああ俺も疲れた。でもこれでようやくウザったい仕事を気にする必要も無くなった事だし、今夜はさっさと寝て、明日からは久しぶりにシュートとゆっくり過ごそう。
サッと豆腐と一緒に炒めるだけの麻婆豆腐の素を使って、今日は麻婆丼にした。こういうのも充分ウマイんだけど、俺は料理好きだから物足りない。
「なあ、ごめんな。今週ずっとこんな感じでさ」
「……」
「来週はもっと余裕あるから、手の込んだメシ作るし、一緒に散歩したりもできるからな」
スプーンを手渡そうとすると上手く持てなかったのかカランと落ちたから、拾ってその手にしっかり持ち直させてやった。
「なんだどうした、距離が分かりにくかったか?」
シドニーのメシの用意もしつつ、先に食ってろよと声をかける。その時、ポケットの中の携帯が震えたから応答しながら水を用意しにキッチンに向かった。
「もしもし」
『もしもーし!ちゃたろー、元気?』
「ああリディアか。イヤな仕事が終わってせいせいしてるトコだよ」
急にどうした?と聞いたら別に何の用でも無いらしい。
「お前ら、今どこにいるんだ?」
『ミラノだよ!ちゃたろー何してたの?』
「これから晩メシ食うとこ」
『まだお昼前だよ!』
「こっちは夜の7時なんだ」
『えーなんでー!?』
そう言われると時差の説明って難しいな。メシが冷めるからまたの機会にしとこう。
「オーサーは?」
『なんだ』
すぐ隣にいたらしい。面倒見いいなぁコイツ。
「いや、特に用はないけど……次はいつ|日本《こっち》に来るんだ?」
『特に決めてないな。シュートは変わりないか』
「ああ、元気だよ。今も大人しくしてる。話すか?」
居間を覗くとシュートはスプーンを持ってるけどぼんやりしてて、まだ食べてなかった。
「……シュート?」
『どうした』
「いや……」
いつもと様子が違う気がして、念のために電話を繋いでスピーカーモードにしたまま近寄る。
「シュート、どうした?先に食ってていいんだぞ」
「……」
あれ……話しかけても反応が薄い。疲れてて眠いだけの可能性もあるけど……いや、なんとなく変だ。
「シュート?」
いつもはシュートに何かあればすぐに教えてくれるシドニーが何も合図をしないから安心しきってた。慌てて隣に行くけどこっちをチラリと見もしない。
『どうした、大丈夫か』
「……」
そういえば、ここしばらくシュートの声を聞いてない気がする。まずい、いったいいつからだ?
『茶太郎、何があった』
「オーサー、シュートが反応しねえんだ、どうしよう……俺の声に反応しない」
こんなこと初めてだ。今までシュートの"無関心"は散々見てきたけど、それを俺自身に向けられた経験が無かったから、こんなに辛いだなんて知らなかった。
冷や汗が噴き出して、心臓がナイフで突き刺されたみたいに痛くてザワザワして、不安で震えた声が出る。
『落ち着け。耳は聞こえてるのか』
「わかんねえ、怖がってはない」
意識もハッキリしてるし倒れそうな感じもない。でも明らかに何か異常事態が進んでる。
その時、メシを食い終えたシドニーが俺の服を咥えてシュートから離れさせるように引っ張った。
「おっ……なに……シド?」
そして心配そうにシドニーがクゥと鳴くと、ずっとぼんやりして無反応だったシュートがスッと立ち上がってその頭を撫でた。
『……茶太郎、シュートに怯えてる様子は無いんだな。ならその場から離れて、落ち着いて話せる場所に移動しろ』
「で、でもっ……」
『言う事をきけ』
俺は不安で胸が押しつぶされそうで、でもオーサーに『お前のその情けない声をシュートに聞かせるな』と言い聞かされて寝室へ向かった。
深呼吸しろと言われても落ち着けるわけがない。
「どうしよう、オーサー、俺っ……こんな、あいつはいつだって、俺にだけはっ……!」
『パニックになるな』
食事はしたのか、寝てるのかと次々に質問をされてひとつひとつ答える。そういえば今日はまだ何も食べてなかった。
『……お前、相当疲れているんだろう。イヤな仕事が終わった所だとさっき言ったな』
「ああ……」
『何日くらいそんな状態だったんだ』
「5、いや、もう一週間くらい、かな」
『……』
俺のせいか。俺が、ずっとピリピリしてたから……。
「シュート……俺の事、イヤになって忘れちまったのかな……」
『だから落ち着け。そんな訳ないだろう』
安心させる事が先決だから、まずはお前が普段の様子を取り戻せと言われて頷く。
『一番信用しているお前がそんな調子だから、奴には受け入れ難かったんだろう。防衛本能で一時的にお前の声や姿が認識できなくなってるだけだ』
「……一言も喋らねえんだ……」
『気持ちが落ち着けばお前のことも分かるようになるし、また喋り出す』
キッパリ言い切ってくれるオーサーの言葉に少しずつ動揺が収まっていく。
『もう仕事は落ち着いたのか』
「ああ、明日からはしばらくリフレッシュできる」
『穏やかに過ごせ。重要なのはお前自身が心身の健康を取り戻すことだ。心配ない。奴の様子が悪化するようなら連絡しろ』
「……そうだな。わかった、ありがとう」
居間に戻るとシュートはゆっくりメシを食ってた。俺が別の部屋に行ったのを感じ取ったから、安心して食えたのかもな。
「……」
俺の存在がシュートにとって"不安の根源"になっちまう事が悲しい。心が折れそうだけど、深く考えることはやめて持ち直した。
***
シュートが話せなくなってるコトに気がついてから3日が経った。
「おはよう、シュート」
「……」
俺の忙しさと寝不足が解消されて家の中の空気が澄んだ気がする。仕事のストレスは家庭に絶対に持ち込まずにいられてると思ってたけど、無意識にこんなに場を|澱《よど》ましちまってたんだな……と反省した。
「メシ食ったら散歩でも行こうか」
相変わらずぼんやりしてるものの、食欲はちゃんとあるし、夜も眠れてる。まだ反応はないけど、俺の言ってることも無意識に理解はしてるのか呼べば来てくれる。
昨夜は事情を聞いたマウロアがビデオ通話をかけてきてくれたから、パソコンのモニターの前に座らせて顔を見させてやった。
心配はあるけど、俺の感情の機微がシュートに与える影響のデカさを改めて思い知ったから、なるべくポジティブに変換して過ごしてる。
そもそも、その方が本来の俺らしいんだ。ウジウジ悩むなんて、まだ疲れが残ってる証拠だよな。
結局、少し足を伸ばして今日は嵐山まで行くことにした。シドニーをシュートの膝に乗せて渡月橋を車で渡る。散歩しようかと思ってたけど歩道は人だらけだから、ここで降りて歩くのはやめておいた。
「風が気持ちいいなあ」
あの山にはサルがたくさんいるんだぜ、と話しかけてるとシュートが小さく「ん」と言った。
「……甘いモンでも食うか?」
でもこの辺りは人が多いから、コンビニで何か買ってそろそろ帰ることにしよう。
***
家に帰りついて買ってきたものを机に広げてるとシュートが背中にピッタリくっついてきた。
「お……どうした」
背中がポカポカして嬉しい。
「……」
「どれ食べたい?」
こんなのも久しぶりだ。そう考えたら、あの日の更に3日前くらいからずっとこういう触れ合いが無くなってた気がする。
そんな異常にも気付けないくらい、俺は知らないうちに仕事に飲まれちまってたんだ。情けねえな。
夜になると今度はクレイグから電話がかかってきた。シュートってまじで皆に愛されてるよな……心配かけさせないよう、大事にしなきゃな。
『シュートはもう大丈夫なンすか?』
「ああ、今日は少し話してくれた」
『茶太郎さん、頑張りすぎなんですよ。ストレス発散してます?』
「そうだなあ……正直、ストレスに強い自負があったんだけど、今回のコトで反省したよ」
何があっても自分はイライラしたりしない生き物だと思ってた。ンなワケねーよな。
「新しい趣味でも始めようかな」
『なんか興味ある事あります?』
「そうだな……アマチュア無線とか」
『外に出ろ、この引きこもり!』
趣味が渋い!!とツッコまれてからからと笑う。趣味探しは難航しそうだ。
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